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世界が彼を魔王と呼ぶまで  作者: ぶん吉
第一章

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第015話 門の向こう

 王都の門をくぐったとき、ハミルが最初に感じたのは、懐かしさではなかった。


 水の匂いだった。


 南の町を出てから七日。背中の傷はまだ完全には消えていないものの、歩くたびに響いていた痛みはほとんどなくなり、右手も日常の動作なら困らない程度まで戻っていた。左手に残っていた痺れも、今は指先へ薄く残るだけだ。


 大河から引かれた水路が、白い石畳の両脇を流れている。細い流れは通りの先で幾つにも枝分かれし、家々の間へ消えていった。荷車の車輪が水路を渡るたび、短い橋の下で澄んだ音が響く。


 ここを拠点としていたころから聞き慣れた音だ。


 けれど、記憶よりずっと騒がしい。


 道幅は広がり、三階建ての建物が増え、見覚えのない高い塔が屋根の向こうに立っている。橋の欄干には水色の布が結ばれ、中央通りへ続く柱には、新しい水の勇者の誕生を祝う紋章旗が下がっていた。


 変わらない水音の上へ、自分の知らない十年が積み重なっている。


 嬉しいのか、寂しいのか、すぐには決められなかった。


『立ち止まると踏まれるぞ』


『もう少し情緒のある言い方はなかったのか』


『後ろの荷車に情緒を求めてみろ』


 振り返ると、門を通ったばかりの荷車がすぐ後ろまで来ていた。


 ハミルは道の端へ寄る。隣を歩いていたセラも一緒に足を速めた。


「大丈夫ですか」


「ええ。王都に見惚れて、到着早々、荷車の一部になるところでした」


「怪我人が増えるのでやめてください」


「治療師が隣にいると思うと、つい気が緩みますね」


「その安心の仕方は間違っています」


 七日も同じ荷台で過ごしたせいか、セラはもう、ハミルの冗談へ考え込まなくなっていた。呆れた声を返しながらも、歩幅だけは少し落としている。


 それに気づかないふりをして、ハミルは白い建物の続く通りを見た。


 門では隊商の入城札と、セラの救済院章を確かめられただけだった。北から来た者への問いは増えていたが、一人ずつ名を書かせるほどではない。深くかぶった頭巾の中まで改められずに済んだことへ、今さら息をつく。


 黒い髪と瞳を隠して王都へ入る日が来るとは、以前王都にいたときには考えもしなかった。


 あの頃は、頭巾をかぶればユーフォルスが勝手に外した。せっかくの髪が見えません、と、本人より不服そうな顔をしたものだ。


 思い出した横顔を、ハミルは胸の奥へ押し戻した。


 会いに来たのではない。


 薬を調べ、これ以上の被害を止めるために来た。それが終われば、誰にも知られないまま帰ればいい。


「中央院は、あの塔の手前です」


 セラが前を示した。


 まっすぐ行けば、それほど遠くない。


 けれどハミルは、通りの角で一度だけ足を止めた。


「……すみません。少しだけ、遠回りしてもいいですか」


「何かありますか」


「あった、という方が近いですね」


 セラは中央院の塔と、ハミルの見ている細い通りを見比べた。


「報告が遅れない範囲なら」


「ありがとうございます。十分もあれば」


「怪我人の言う十分は信用しません。十五分です」


「あれ、増えました?」


「途中で座らせる時間です」


「あー……なるほど」


 一本脇へ入るだけで、王都の顔が少し変わった。


 大通りの新しい石造りの店に比べ、こちらには古い二階建ての建物が残っている。軒先から洗濯物が揺れ、水路の上へ板を渡して野菜を洗う女がいる。パンを抱えた子どもが二人、危うくハミルへぶつかりかけて駆け抜けていった。


「走るなよ」


 反射的に声をかけると、片方が振り返って舌を出した。


 ハミルは思わず笑った。


 十年前にも、同じ場所で似たような子どもを叱った覚えがある。


 もちろん、同じ子ではない。


 角を曲がった先にあったはずの食堂は、薬種店へ変わっていた。


 四人で夜遅くまで居座り、店主に何度追い出されたか分からない店だった。入口の柱だけは残っている。レイオスが大剣をぶつけて欠けさせた角も、そのままだ。


「……ここ、何か?」


 セラが尋ねた。


「昔、よく食事をした店があったんです」


「王都に住んでいたことがあるんですね」


「少しだけ」


 少し、で済ませるには思い出が多すぎた。


 薬種店の前には、若い母親が立っていた。手を引かれた男の子が店先の飾りを指差している。


 水色の布で作られた、小さな剣と水滴の飾りだった。


「キース様と同じのがいい!」


「勇者様はそんな木の剣を振り回してないでしょう」


「振ってるよ!」


 母親に笑われても、少年は真剣だった。


 向かいの壁には、新しい水の勇者を描いた刷り物が貼られている。淡い水色の髪の少年が、少し緊張した顔で剣を構えていた。


 その下には、四国の勇者を讃える古い意匠が残っている。


 火、風、水、地。


 水の紋章だけ、何度も貼り替えられた跡があった。


 自分の場所に、別の誰かがいる。


 当然のことだった。


 十年も空けた席を、いつまでも残しておけるはずがない。


 それなのに、胸の奥へほんの少しだけ寂しさが落ちた。


『気に食わぬか』


『まさか』


 ハミルは刷り物の少年を見る。


『むしろ、いてくれて良かったよ』


 自分がいないあいだも、水の勇者を必要とする人はいたのだ。


 その期待を、今はあの少年が背負っている。


「人気なんですね、新しい勇者様」


 セラが隣で刷り物を見上げた。


「ええ。水の国では、長く水の勇者が不在でしたから。誕生した日は中央広場が人で埋まったそうです」


「そうですか」


「……何かありましたか?」


「少し安心しました」


 セラが不思議そうにこちらを見る。


 説明する代わりに、ハミルは歩き出した。


 さらに先の小さな橋では、老人が欄干へ花を一輪置いていた。


 橋のたもとには、魔王戦争で亡くなった者を悼む小さな石碑が増えている。


 以前はなかったものだ。


 ハミルは足を止めかけて、やめた。


 勝ったから終わったわけではない。


 自分たちが魔王城へ向かっているあいだにも、帰らなかった人がいる。戻ってきた今になって、その当たり前のことが目の前へ置かれた気がした。


 老人は花を置き終えると、何事もなかったように買い物籠を持ち直して歩いていく。


 悲しみがあっても、暮らしは続く。


 アバドの町で見たものと同じだった。


「そろそろ行きましょうか」


 ハミルが言った。


「もういいんですか」


「はい。見たかったものは、だいたい見られました」


 本当は、もっと歩けばいくらでも見つかるだろう。


 変わった場所も、残った場所も、自分の知らない年月も。


 けれど、それを全部確かめるために来たわけではない。


 中央院へ向かう道へ戻る。


 白い壁に青い屋根を載せた大きな建物が、水路を挟んで三棟並んでいる。中央の棟には四国の紋章が一つずつ掲げられ、正面の広場を、白い外套の治療師や荷を抱えた職員が絶え間なく行き交っていた。


 ハミルの記憶にはない建物だった。


「ずいぶん大きいんですね」


「魔王戦争のあと、四国が共同で建てたそうです。中央院と調薬所、それから南側に荷出し所があります」


「なるほど。立派な建物ですね」


 自分のいなくなったあとに、人を救うための場所が建った。


 そのことは、素直に嬉しかった。


 広場の端では、北から逃れてきたらしい家族へ職員が温かい食事を渡している。泣く子どもの前へしゃがみ込み、木の匙を持たせる若い治療師もいた。


 あの薬を配った手も、きっと同じように誰かを助けようとしていたのだろう。


 だから厄介だった。


 悪意だけで作られた場所なら、疑うのは簡単だ。善意の中に紛れたものは、止めれば必要な助けまで奪ってしまう。


「行きましょう」


 セラの声は、王都へ着いた安堵より緊張の方が強かった。


「報告書が逃げる前に?」


「七日間、革鞄から一度も出していません」


「では、逃げたいのはセラさんの方ですね」


「……少しだけです」


 そう言って、彼女は正面棟へ歩き出した。


     *


 至急報告の受理所は、正面玄関を入ってすぐ右にあった。


 長い卓の向こうで、記録官たちが各地から届いた書類を分けている。病名、物資、行方不明者、被害地域。短い言葉が書かれた札ごとに、紙の束が積み上がっていた。


 セラが所属と用件を告げると、年嵩の記録官がすぐに奥から出てきた。


「南の町から報告を上げたセラ治療師ですね。早馬の写しは昨夕、受理しています」


「正式報告と、青線の箱から薬を受け取った十二人の記録をお持ちしました」


 差し出された書類を、記録官はその場で数える。封印と頁の順を確かめる指は速かったが、雑ではなかった。


「開封済みの薬と、残りの包みは?」


「現地で別々に封印しています。開封済みのものは、救済院の施設から離した倉庫で保管中です」


「保管責任者の名もありますね。手順に問題はありません」


 セラの肩が、わずかに下がった。


 七日間、間違いがないか何度も確かめていたのを、ハミルは知っている。口を挟む代わりに、卓から一歩離れた。


 受理所の職員は、誰も手を止めていなかった。届いた記録を読み、必要な部署へ走り、足りない情報を書き足していく。


 少なくとも、ここにいる者たちは異変を隠そうとしているようには見えない。


『見えるか』


 イルの声に、ハミルは視線だけを動かした。


 書類にも、記録官の胸元にも、異変はない。


 だが、奥の廊下を通った荷運び人の胸元に、細い弧があった。


 麓の町で見たものより長い。心臓の横から下へ回り込み、あと少しで輪になりそうな形をしている。


 男は二つの木箱を抱え、同僚と話しながら歩いていた。顔色は悪くない。笑い声にも不自然さはなかった。


 ハミルが目で追うと、男は廊下の突き当たりを南へ曲がった。


 記録官はハミルへ一度目を向けたが、セラの正式報告に同行者の欄はない。何者かを尋ねることなく、次の帳面を取り出した。


 セラは、ハミルにしか確認できない弧のことも、彼の関与も正式な報告には含めていない。自分で確かめられないものを事実として書かない――それは約束ではなく、セラ自身の判断だった。


「昨夕の報告を受けて、同じ承認番号の記録を中央調薬所から取り寄せています」


 記録官は、別の薄い帳面を卓へ置いた。


「調薬、検分、分包、同梱、出荷まで、記録はすべて揃っています」


 セラが眉を寄せる。


「転記漏れや、荷の入れ替わりは?」


「今のところ見つかっていません。承認番号、箱数、行き先は原簿と荷出し所の控えで一致しています。検分者と荷造り担当者の署名も読めます」


「記録上は、通常どおり作られ、通常どおり出荷されたということですか」


「はい」


 記録官は帳面をセラ側へ向けた。


 調薬量。


 保存見本を採った時刻。


 検分を通過した包数。


 箱を閉じた者と、荷出し所で受け取った者。


 どの欄にも欠落はなく、署名も整っていた。


 異常を隠した痕跡がないのではなく、記録した者たちが異常に気づいていなかったように見える。


 その方が、露骨な記録の欠落より厄介だった。


 記録官は、帳面の端に引かれた青い線を指で示した。


「ただ、この線は調薬分ではなく、箱ごとにつける印です。同じ日に作られた薬でも、箱が違えば線も変わります」


 頁を追っていたセラの指が止まった。


「では、この箱の記録が揃っていても、ほかの箱まで無事とは限らないんですね」


「ええ。王都でも、似た訴えが三件出ています。二人は南の水門を利用した者で、もう一人は荷出し所の職員です」


「服用した薬の包みか、支給記録は残っていますか」


「いま取り寄せています。明朝、三人を南の水門へ集めて話を聞き、そのあと荷出し所の記録を確かめる予定です」


 セラは青い線から、その上に並ぶ調薬と分包の欄へ視線を戻した。


「もし別の印の箱から出た薬なら、箱を閉じる前の工程まで遡る必要がありますね」


「そうなります」


「その聞き取りに、私も立ち会わせてください」


「もちろんです。最初の報告を上げたあなたにも同席してもらうよう、総監から指示が出ています」


「何時に伺えば?」


「日の出から一刻後です。そのまま荷出し所へ移ります」


 記録官は一枚の通行札をセラへ渡しながら、大したことではないと言うように淡々と告げた。


「水の勇者キース様と、三国から滞在中の勇者方も確認に来られます」


 ーー音が、一瞬だけ遠くなった。


 受理所を行き交う足音も、紙をめくる音も、水路の流れも、すべてが薄い壁の向こうへ退いたように感じる。


 三国から滞在中の勇者。


 考える必要もなかった。


 レイオス。メルクリオ。マルテ。


 三人の顔が、あまりにも簡単に浮かんだ。


 記憶の中と変わらない姿で。


 会いたいと、何度思ったか分からない。


 会えないと、同じ数だけ自分へ言い聞かせた。


 元気にしているだろうか。


 ちゃんと飯を食っているだろうか。


 レイオスは、また一人で何でも抱え込んでいないだろうか。


 自分がそんな心配をする立場なのかも、今は分からないのに。


 気づけば、右手を握り込んでいた。


 ハミルはゆっくり指をほどく。


 同じ街にいる。


 たったそれだけのことが、ひどく近くて、ひどく遠かった。


『ハミル』


『分かってる』


 セラが振り返る。


 ハミルは頭巾の奥で、いつものように笑った。


「ずいぶん立派な方々が来るんですね」


「あなたは、明日は来ない方がいいかもしれません」


 彼女は声を抑えていた。


「その格好で勇者たちの前に立てば、何を疑われるか分かりません」


「俺もそう思います」


 答えると、セラは少し意外そうな顔をした。


「素直ですね」


「俺はいつも素直ですよ。周りが信じてくれないだけで」


「では、明朝は宿で待っていてください」


「善処します」


「素直な人は、そこで『はい』と言います」


「明日の俺に聞いてみないと、まだ分かりませんから」


 セラの目が細くなる。


 その視線に追及される前に、ハミルは廊下の奥へ目を向けた。


 先ほど弧を持つ男が消えた南側。中央調薬所と荷出し所がある方角だった。


     *


 救済院が用意した宿舎は、中央院から水路を二本渡った先にあった。


 セラには小さな個室が与えられ、ハミルはその向かいの空き部屋を借りた。窓からは中央院の青い屋根と、その向こうに王宮の塔が見える。


 昔なら、あの塔へ入るのに許可など要らなかった。


 帰ってきたら最初に王へ報告し、そのあと四人と精霊たちで食事を奪い合った。レイオスは肉を余計に取り、メルクリオは盛りつけが雑だと文句を言い、マルテはポルタニアの分まで黙って皿へ載せた。ユーフォルスは、ハミルが嫌いな豆だけを当然のように自分の皿へ移してくれた。


 久方ぶりの王都で、ハミルは一人分の寝台へ腰を下ろしている。


 寂しくないと言えば、さすがに嘘だった。


「三人ともいるのか」


 部屋にはほかに誰もいない。ハミルは声に出して言った。


『会うつもりか』


「この顔で?」


『顔立ちは変わっておらん』


「色が一番の問題なんだよ」


 外套を脱ぎ、頭巾を下ろす。


 窓硝子へ、漆黒の髪と瞳が映った。十九歳のままの顔。その向こうに、十年分だけ大きくなった王都が重なっている。


 彼らも変わったのだろう。


 レイオスは騎士団長になった。メルクリオは魔術師団長になり、マルテは森を守っていると聞いた。三人には三人の十年があり、その時間へ突然、魔王の色をした昔の仲間が戻れば、喜びより先に剣を向けさせるかもしれない。


 それを責める気にはなれなかった。


「会わないよ。少なくとも、今は」


『なら、明日は宿にいるのだな』


「それとこれとは別の話だろ」


『お前のそういうところを、我は一度嫌いになった方がよい気がしてきた』


「飽きるほど一緒にいて今さらか?」


 笑うと、右腕の紋様がかすかに熱を持った。


 中央院で見た男の弧。


 何一つ欠けていない記録。


 別々の場所で起きた、同じ訴え。


 三人がいるから退くという選択は、初めからなかった。彼らに見つからず、自分に見えるものだけ確かめればいい。


 少なくとも、そうするつもりだった。


     *


 翌朝、ハミルは日の出より早く宿舎を出た。


 扉を閉めたところで、向かいの部屋が開く。


 救済院の外套を着たセラが、革鞄を肩へ掛けて立っていた。


「おはようございます」


「どうしているんですか」


「朝の散歩です」


「南の水門まで?」


「奇遇ですね」


 セラはしばらく黙っていた。


「来ると思っていました」


「では、驚かなくてもよかったのでは」


「期待と諦めは別です」


 追い返されるかと思ったが、彼女は通行札を鞄へ収め、先に階段を下りた。


「勇者たちの前には出ないでください。聞き取りにも加わらない。何か見えても、まず私に知らせる」


「分かりました」


「本当に?」


「今日はまだ何もしていませんよ」


「昨日までの実績で聞いています」


 厳しい評価だと思いながら、ハミルは彼女の半歩後ろを歩いた。


 朝の王都は、昼より水音が近かった。店の扉はまだ閉じ、石畳を行くのは荷運び人と、早番の職人たちくらいだ。


 南へ進むにつれ、水路は太くなっていく。


 やがて白い建物の隙間から、大きな水門が見えた。


 階段状の石壁の間を、三本の水路が流れている。荷揚げ用の広場には救済院の職員と王都の騎士が集まり、聞き取りを受けるらしい三人の男女が椅子へ座っていた。一人は、昨日中央院で見た男だ。


 その胸元を見た瞬間、ハミルは足を止めた。


 三人とも、黒い弧を持っている。


 一人は短く、一人は半ばまで伸び、荷運び人の男のものは、昨日見たまま、ほとんど輪になっていた。


『繋がってはおらん』


『でも、後少しだ』


 三つの弧は互いに繋がっていない。人々も落ち着いている。


 それでも、麓の町で男の輪が周囲へ干渉する直前とよく似ていた。


 セラへ声をかけようとしたとき、広場の反対側で騎士たちが道を空けた。


 ーー最初に見えたのは、燃えるような赤い髪だった。


 記憶より肩幅が広い。顔つきも、立ち姿も、もう十九歳の少年ではない。それでも、歩くたび大剣の柄がわずかに左へ揺れる癖を、見間違えるはずがなかった。


 隣には、朝の光を弾く薄緑の髪。


 さらにその向こうから、誰より背の高い茶髪の青年が歩いてくる。


 最後に見たときは、自分より小さかったのに。


 十年という時間が、三人の姿でこちらへ歩いてきた。


 名前を呼びそうになった。


 喉まで出た声を、ハミルは飲み込む。


 嬉しかった。


 無事に生きていると知っていたはずなのに、目の前で歩き、言葉を交わし、誰かを救うために来た三人を見ると、胸の奥へ温かなものが広がった。


 同じだけ、痛かった。


 以前なら、あの三人の間に自分の場所があった。


 今は水路を挟んだ物陰で、顔を隠している。


「俺はここにいます」


 ハミルは声を落とした。


「約束どおり、前には出ません」


 セラは一度だけ頷き、広場へ向かった。


 レイオスたちに気づかれないよう、ハミルは石壁の陰へもう半歩下がる。


 三つの弧は、持ち主の呼吸に合わせてかすかに揺れていた。


 懐かしい背中から目を離し、閉じかけた弧を見る。


 会えなくてもいい。


 今はまだ、隣へ戻れなくてもいい。


 彼らが守ろうとしている人々を、同じ場所で守ることはできる。


 それなら、ここへ来た意味はある。


 朝日を受けた水の向こうで、レイオスが聞き取りを受ける男の前へ立った。


 ハミルは頭巾の奥から、その胸元に閉じかけた黒い輪を見つめた。

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