第016話 別々の道
レイオスの後ろから、精霊たちも広場へ入ってきた。
バーミッドは昔と変わらない髭面で、騎士から渡された書類を面倒そうに覗き込んでいる。フラーシアは朝露を嫌うように裾を浮かせ、ポルタニアはマルテの足元から顔だけを出して、石畳の隙間を忙しなく見回していた。
三人だけではない。
精霊たちも、皆ここにいる。
胸の奥へ込み上げた安堵に、ハミルは一度だけ目を閉じた。
『泣くなら、もう少し見つかりにくい場所へ移れ』
『泣いてないよ』
『ならば、その妙な顔を戻せ』
『あー……努力する』
『今すぐだ』
久方ぶりの相手を前にして、ずいぶんな言いようだった。けれど、その無遠慮さに助けられている自覚はある。
ハミルは息を整え、石壁から広場へ視線を戻した。
反対側の階段を、淡い水色の髪の少年が下りてくる。
昨日、王都の通りで見た刷り物の少年だ。
絵の中では、剣を掲げて堂々と笑っていた。けれど実物は、ずっと幼く見える。胸当てを着け、腰には短剣を差しているが、歩き方にはまだ騎士のような硬さがない。聞き取りを待つ三人へ目を向けたとき、先に浮かんだのは警戒ではなく心配だった。
キース。
今の水の勇者。
昨日は、いてくれて良かったと思った。
実際に目の前へ現れても、その気持ちは変わらなかった。
自分が立っていた場所へ別の誰かがいることに、何も感じないわけではない。けれど、それより先に思う。
十七歳なら、知らないことの方が多くて当然だ。むしろ、あの年で四国の期待を背負わされている背中は、見ている方が肩を揉みたくなるほど固かった。
その傍らに、ユーフォルスの姿はない。
そこへ気づいた瞬間だけ、胸の内側が妙に静かになった。
会わずに済んで安堵したのか。
いないことへ落胆したのか。
今度も決められなかった。
「南の町の救済院から参りました、治療師のセラです」
広場へ進んだセラが一礼する。
「青線の箱から薬を受け取った方々の記録と、服用後の症状について報告しました。本日は聞き取りに同席するよう、中央院から指示を受けています」
「レイオスだ」
名乗る必要などない相手にも、彼は昔からそうした。
「俺たちは見届ける。聞くのはあんたたちに任せる」
ああ、そこも変わっていない。
必要以上に前へ出ない。けれど、任せた相手が困れば、たぶん誰より先に手を出す。
十年分の知らない時間があるのに、昔と同じところを一つ見つけただけで胸が緩む自分が、少し可笑しかった。
セラの肩からも、わずかに力が抜けた。
相手が勇者でも、自分の仕事を奪われれば遠慮なく抗議するだろう。それでも最初から争わずに済むなら、その方がいいに決まっている。
最初に話したのは、水門で荷の検札をしている中年の女性だった。
「三日前からです。誰かに、印を見落としただろうって言われるんです」
「実際に、見落としはありましたか」
「ありません。帳面も二度、確かめました。でも、背を向けるとまた聞こえて……同僚が言ったんだと思って振り返っても、誰も口を開いていないんです」
女性の胸元にある弧は短い。
言葉を思い出すたび、先端が細かく震えた。だが、伸びはしない。
二人目は、水路沿いで荷船を扱う若い男だった。
四日前に熱を出し、南市場の薬種商から粉薬を買っている。包みは捨てたが、店先に積まれていた箱には青い線が引かれていたという。
「えっと……救済院の薬ではないんですか」
キースが尋ねた。
責める声ではなかった。それでも男が身を固くしたのを見て、キースは「あ」と小さく声を漏らし、すぐに膝を折って目線の高さを合わせた。
「ごめん。買ったことを問題にしたいんじゃないんだ。どこから来た薬か、確かめたいだけで」
男の肩から、少しだけ力が抜けた。
自分より水の扱いが未熟だという話は聞いた。けれど、人を怖がらせたと気づいて、すぐ同じ高さまで下りられる。それは力の強さとは別の、得難いものだった。
『気に入ったか』
『悪い子には見えないな』
『お前はまた、十七の者を子ども扱いする』
『長く生きた身としては、だいたい皆そう見えるんだよ』
『見た目が十九のままで言うな』
『……それを言われると弱いな』
反論できず、ハミルは三人目へ目を移した。
昨日中央院で見た荷運び人だった。
胸元の弧は、今にも両端が触れそうなほど閉じている。
「薬を飲んだのは、いつですか」
「六日前です。荷出し所の休憩室にあったものを、一包」
「そのあと、何を聞きましたか」
セラが問う。
男の指が強く組み合わされた。
「お前が箱を取り違えた、って」
弧の先端が伸びる。
「誰の声でしたか」
「班長です。あの人は前から俺を――」
弧の両端が、一気に触れかけた。
ハミルは石壁から半歩出かけ、止まった。
呼べば、レイオスたちにも聞かれる。
近づけば、もっとまずい。
自分の胸元で右手の指を二度折り、男へ視線を戻す。
今朝、セラと決めた合図だった。
彼女の目がこちらを捉える。
「その話は、いったん置きましょう」
セラは問いを切り、男へ水の入った杯を渡した。
「昨日は眠れましたか。食事は?」
「パンを少し……」
「分かりました。では、まず水を飲んでください。急がなくて大丈夫です」
それから、今朝運んだ荷の数や起きた時刻を尋ねていく。実際にしたこと、見たもの、触れたもの。誰かの言葉ではなく、自分で確かめられることだけを、一つずつ答えさせた。
男の呼吸がゆっくりになる。
伸びかけた弧が緩み、両端はわずかに離れた。
『戻したな』
『セラさんが、だよ』
自分は合図を送っただけだ。
彼女が見えないものを信じたわけではないことも分かっている。男の指、呼吸、声の速さ。目に見える変化だけでも、問いを止める理由にはなった。
「聞いていない言葉を繰り返させるほど、本人の中で事実と区別しにくくなる可能性があります」
セラは記録官へ説明した。
「内容を掘り下げるのは後にしましょう。先に、いつ、どこで、どの薬を飲んだかを確かめたいです」
「三人とも、青い線の箱に入っていた薬か」
レイオスが問う。
「確認できているのは、二人目が薬種商で見た箱だけです。一人目と三人目は、どこから来た薬か荷出し所の記録と照合する必要があります」
「なら、先に荷出し所だね」
メルクリオが水門の北を見た。
「救済院の棚と市場の店。別の入口に見えるものが、どこから来たのか確かめよう」
三人の患者は、中央院で別々に経過を見ることになった。
キースが椅子を運ぶ職員へ加わる。
「勇者様、こちらは我々が」
「え? ああ、でも一脚くらいなら――」
「キース」
レイオスに呼ばれ、少年が振り返る。
「置いてこい。次へ行くぞ」
「あ、はい!」
それでも椅子は最後まで運んでから戻っていった。
ハミルは思わず笑う。
その間に、セラが石壁の陰まで戻ってきた。
「先ほどは助かりました」
「俺は指を動かしただけですよ」
「では、指に礼を言っておきます」
彼女はハミルの右手へ小さく頭を下げた。
「……指だけですか?」
「え?」
「いえ。何でもありません」
少しだけ意地の悪い返しを覚えたらしい。
広場では、レイオスたちが荷出し所へ向かい始めている。
「行きましょう」
セラも追おうとした。
ハミルは動かなかった。
「あー……俺は、ここまでにしておきます」
セラが振り返る。
「荷出し所には来ないんですか」
「正式な調査へ、顔を隠した部外者がついていく方が不自然でしょう。あの方々も一緒なら、説明することが増えすぎます」
「昨夜は、宿で待つとは言いませんでした」
「今朝の俺は、昨日より少し賢くなったんですよ」
「半日も経っていません」
「成長期なもので」
セラは頭巾の下から覗く口元を見た。
冗談で決めたわけではない。
彼女にも分かったらしい。
「では、どこへ?」
「街の人を見てきます。昨日歩いたのは、昔の王都がどうなったか見たかっただけですから。今日はちゃんと仕事をしますよ」
「昨日も弧を探していたでしょう」
「……見抜かれてました?」
「ずっと人の胸元を見ていましたから」
「あー、なるほど。それは怪しいな」
「今さらです」
水門の三人は、いずれも胸元に黒い弧があった。
昨日見た患者たちと同じもの。
けれど、三人の生活圏は違う。
薬を受け取った場所も違う。
「別々の場所で同じことが起きているなら、建物の中より、街を見た方が分かることがあるかもしれません」
「また無茶をするつもりでは」
「歩いて見るだけです」
「あなたの『だけ』は信用していません」
「ひどいな」
「昨日までの積み重ねです」
言い返せない。
「何かあれば、中央調薬所へ」
「はい。セラさんも」
彼女が小さく頷き、勇者たちの後を追う。
ハミルは反対方向へ歩き出した。
旧友たちの背中を追うのではなく、自分で見つけた違和感を追うために。
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