第017話 水を弾くもの
荷出し所へ向かう途中、セラは一度だけ後ろを振り返った。
水門へ続く道に、頭巾姿はなかった。
正式な調査へ連れていけば身元を尋ねられる。顔を隠す理由まで問われれば、セラにも答えられない。別行動が正しい。
それでも、視界から消えた途端に不安になるのは、彼が傷を抱えたまま人の異変を追おうとしているからだ。
「忘れ物か」
前を歩いていたレイオスが足を緩めた。
「いいえ」
「なら急ぐぞ。北辺行きの荷は朝二刻に出る」
短く答え、また先へ行く。声も歩幅も大きいのに、セラが追いつくまでは角を曲がらない。
「ユーフォルスは、まだ王宮なの?」
メルクリオがキースへ尋ねた。
「うん。南の町から届いた報告について、総監と緊急の話があるって。終わったら必ず追いつくって」
「なら、予定どおり進めるぞ」
「うん」
返事は明るかった。けれど、キースは一度だけ王宮へ続く道を振り返った。
*
荷出し所では、北辺行きの荷車へ最後の箱が積まれていた。
責任者が出荷原簿を長卓へ置く。セラと中央院の記録官が、水門で聞き取った三人の服用記録を一つずつ照らし合わせた。
検札の女性が受け取った喉の薬は薄緑の線。
荷船を扱う若い男が買った熱冷ましは青線。
荷運び人が休憩室で飲んだ痛み止めは黄土色。
三人とも薬の種類が違う。包みの印も、承認番号も同じではなかった。
「青線だけじゃない」
キースの声が落ちた。
「はい」
南の町でも、青線ではない包みを持った者に似た異変があった。飲んだ包みそのものは残っておらず、確かめられなかっただけだ。
青線の一箱を追えば答えへ近づけると思っていた。
だが、その線はここで途切れた。
「じゃあ、今まで追ってた箱は外れ?」
「まだ分かりません。青線の箱から始まったのは、最初に確認できたのがあれだったからです」
「三つに共通するものは?」
レイオスが問う。
セラは返事をせず、原簿をもう一度めくった。
薬名。
調薬日。
出荷日。
受取先。
一枚目を戻し、二枚目と並べる。
そこで指が止まった。
「……これ」
「何かあった?」
キースが横から覗き込む。
「三つとも、通常の定期分ではありません」
責任者が帳面を引き寄せた。
「先月の追加分ですね。避難者が増えて、各地から不足の申請が上がったので」
喉の薬も。
熱冷ましも。
痛み止めも。
材料も効能も違う。箱の印も違う。
だが、どれも不足を補うために後から追加生産されたものだった。
セラは南の町で取った記録を開いた。
朝、倒れた男。
聞いていない言葉を聞いた者たち。
確認できた範囲で、服用した薬の承認番号を拾っていく。
記録官も別の帳面を開いた。
「こちらもです」
「これも追加分ですね」
偶然だ、と切り捨てるには重なりすぎている。
けれど、原因だと言うには足りない。
「これまで異常が確認できた方については、全員、追加生産分の服用歴があります」
セラは言葉を選んだ。
「ただし、追加分を飲んだ方すべてに異常が出ているわけではありません。南の町でも、飲んで何ともなかった方はいました」
「じゃあ、薬が原因かどうかはまだ分からない?」
「はい」
答えながら、セラの指が記録の一箇所で止まった。
南の町で追っていた青線の箱。
倒れた男が飲み、あの頭巾の男が灰色の粒を見つけた箱。
そして、自分が三日前に飲んだ薬も、同じ青線だった。
「……私が飲んだものもです」
キースが顔を上げる。
「え?」
「私も南の町で一包、薬を飲んでいます。あれも青線の箱でした。なら、追加生産分だったということになります」
ここから先は記録にない。
自分の話になる。
「それと、まだ報告していないことがあります」
レイオスが顔を上げた。
「何だ」
「幻聴はありません。意識も正常です。ただ、その薬をもう一度目の前にしたとき――」
あのときの自分の右手を思い出す。
飲む理由などなかった。
それなのに、棚の薬へ勝手に伸びていった手。
「自分の意思とは関係なく、手が伸びました」
「飲みたかったってこと?」
キースが尋ねる。
「そう思った覚えすらありません。気づいたときには取ろうとしていました」
自分で話しても、やはり気味が悪い。
「止められて初めて、自分が何をしていたか分かりました」
「誰に止められた」
レイオスの問いに、一瞬だけ言葉が詰まる。
「……南の町で、調査に協力してくれた方です」
嘘ではない。
レイオスはそれ以上聞かなかった。
代わりに、荷台から下ろされた箱へ目を向ける。
「同じことが、ここでも起きるか確かめられるか」
セラも箱を見た。
「私でなら」
「一人じゃ弱いね」
メルクリオが言った。
「君だけに起きることかもしれない。南で飲んだからなのか、体質なのかも分からない」
「患者を試すつもりですか」
自分でも分かるほど、声が硬くなった。
「飲ませる必要はないよ」
「それでもです」
「分かってる」
メルクリオは軽い調子を消した。
「だから、本人に説明して、協力してくれる人だけ。触らせない。少しでも様子がおかしくなったらすぐ離す。それでも嫌なら、やめよう」
理屈は分かる。
セラ一人の体験だけで、薬を止める判断をする方が危ういことも。
それでも、治療するために来た人を、原因の分からないものへ近づけることには抵抗があった。
「僕もそばにいる」
キースが言った。
「何かあったら、すぐ止める。絶対に飲ませない」
十七歳の少年が、冗談ではなくこちらを見ていた。
セラは息を吐いた。
「……本人が了承した場合だけです。包みには触れさせません。反応が出たらすぐに遠ざけて、落ち着くまでは次を試しません」
「うん」
「それから、異常が出なかったからといって安全だとも判断しません」
「分かった」
返事が早い。
セラは少しだけ肩の力を抜いた。
*
荷出し所から、追加生産分の未開封の薬を数包だけ借り受けた。
向かったのは中央院だった。
水門で聞き取りをした三人は、そこで経過観察を受けている。
事情を説明すると、荷運び人と、荷船を扱う若い男が協力を申し出た。原因が分かるなら、と二人とも言った。
中央院の一室に小さな卓を置く。
「まず私がやります」
セラは椅子へ座った。
記録官が一包目を卓の端へ置く。
手を伸ばせば届くが、意識して身を乗り出さなければ触れない距離だ。
見覚えのある紙包み。
けれど、それだけだった。
一呼吸。
二呼吸。
何も起こらない。
「どう?」
「……何も」
キースが包みとセラを見比べる。
さらに待った。
手は動かない。
喉も渇かない。飲みたいとも思わない。
「やっぱり、違うんじゃない?」
キースの言葉に悪意はない。
だからこそ、セラは返事ができなかった。
違う。
そうなのかもしれない。
南の町で起きたことも、疲れていた自分の無意識だったのかもしれない。
あの男に止められたことで、意味のある異常だったと思い込んでいるだけかもしれない。
それなら、その方がいい。
いいはずなのに。
自分の意思を置き去りにして動いた指先の感覚だけが、まだ鮮明に残っていた。
「……もう一つ、お願いします」
記録官が眉を上げる。
「セラさん」
「同じ箱でも、全部が同じとは限りません。南の町で調べた薬も、一包の中に混じっていたものは均一ではありませんでした」
言いながら、自分でも食い下がりすぎているのではないかと思う。
それでも、ここで「何もなかった」と記録する方が怖かった。
二包目が置かれる。
最初は何もない。
やはり違うのか。
そう思ったときだった。
右手の指が、膝から離れた。
セラは息を止める。
指先が卓へ向かう。
欲しい。
そう思ったのは、手が動いたあとだった。
飲めばいい。
一包くらいなら。
「セラさん」
キースの声が飛ぶ。
包みが卓の向こうへ引かれた。
同時に、右手が空を掴んだ。
「……今の」
キースの顔から明るさが消えている。
「はい」
セラは自分の手を左手で押さえた。
「南の町でも、同じでした」
しばらく距離を取り、指先の妙な焦りが消えるのを待った。
その後に三包目を試したが、今度は何も起こらなかった。
同じ箱。同じ薬。同じ人間。それなのに、反応するものと、しないものがある。
「じゃあ、何が違うんだろう」
キースが首を傾げる。
荷運び人にも同じ三包を距離を取って見せると、反応したのは二包目だけだった。
「……それ、飲んじゃ駄目ですか」
口にした直後、男自身が顔をしかめた。
「いや、何で俺……さっき飲むなって説明されたばっかりなのに」
「大丈夫です。触っていません。少し離れましょう」
包みを遠ざけると、男は何度か瞬きをして、ようやく肩の力を抜いた。
荷船を扱う若い男も、二包目だけを目で追った。遠ざければ、やはり戸惑った顔で我に返る。
偶然と言い切るには、今度こそ一致しすぎている。
「個体差……?」
キースが呟いた。
「同じ薬の中に、何か違いがあるのかもしれません」
セラは二包目を見た。
そして、南の町の卓上に置かれた浅い皿を思い出した。
青灰色の粉。
水へ溶けていく薬。
その中で、濡れずに残った小さな灰色。
「水を、もらえますか」
「水?」
「確かめたいことがあります」
白い皿を三枚用意してもらう。
それぞれの包みを皿へ出し、順に水を落とした。
一包目は、粉が水を吸って皿の底へ沈む。
三包目も同じだった。
最後に、全員が反応した二包目。
粉が濡れて色を濃くする。その縁から、小さな灰色の粒が一つ、押し出されるように浮いた。
水面でころりと転がり、沈まない。
誰もすぐには口を開かなかった。
「……反応したやつだけ?」
キースが一枚目と二枚目を見比べる。
「今の三包では」
セラは慎重に答えた。
「南の町でも、薬を水に溶かしたとき、同じように水を弾く灰色の粒がありました」
「それが悪いものなの?」
「分かりません。薬草の一部かもしれません。保存の過程でできるものかもしれない。そもそも、あって当然のものなのかもしれません」
別の箱からも数包を選び、同じ順で確かめた。
反応のなかった包みには粒がない。
手を伸ばした包みからは、灰色の粒が浮いた。
数は一定ではない。一粒のものもあれば、二粒のものもある。
セラは結果を記録板へ書き込んだ。
薬の種類は違う。
箱の印も違う。
けれど、今確認した範囲では、人が不自然に欲しがった包みからだけ、水を弾く灰色の粒が出た。
「これが、人をおかしくしてるの?」
キースが聞いた。
「そこまでは言えません」
「でも、飲みたくなるのとは関係ありそうだ」
メルクリオが水面を覗き込む。
「……はい」
セラはようやく頷いた。
「少なくとも、今確認した範囲では。この粒がある包みと、薬へ手を伸ばす反応が一致しています」
「幻聴は?」
レイオスが問う。
「分かりません」
そこだけは間違えてはいけない。
「幻聴を訴えた方に追加生産分の服用歴があることは確認できました。でも、この粒が幻聴を起こした証拠はありません」
「じゃあ、分かったのは二つだね」
キースが指を折る。
「異常が出た人たちは、確認できた範囲だと追加で作った薬を飲んでた。それから、この灰色の粒が入った薬を、理由もないのに欲しがる人がいる」
「はい」
「それでも、放ってはおけねえな」
レイオスが言った。
反論はなかった。
*
中央調薬所へ着くころには、灰色の粒を含んでいた包みは、皿ごと蓋付きの容器へ収められていた。
セヴランは報告を最後まで聞き、すぐには口を開かなかった。
「その粒が何であるかは?」
「分かりません」
「調薬に使う材料の中に、同じ性質のものがある可能性は」
「それも確認が必要です」
セラが答える。
正体も、幻聴との繋がりもまだ分からない。
だが、人の意思に反する行動と一致したものを、そのまま配り続けるわけにもいかなかった。
「追加生産分を一時停止しましょう」
セヴランが言った。
「既に出荷した分も、可能な限り使用を控えるよう連絡を。灰色の粒そのものについては、こちらで調べます」
「全部の薬ではなく?」
キースが尋ねる。
「今のところ共通しているのは追加生産分です。定期分まで止めれば、必要な治療ができなくなる」
セラは頷いた。
「私も同意します。安全だと確認できたわけではありませんが、分からないものまで同じ扱いにはできません」
セヴランが記録官へ指示を出す。
出荷先を洗い出す者。
停止状を書く者。
騎士へ早馬を頼む者。
調薬所の空気が一気に動いた。
少なくとも今見つけた異常を、そのまま誰かの口へ運ばせずには済む。
セラはようやく浅く息を吐いた。
「間に合うかな」
隣でキースが呟く。
「間に合わせます」
答えてから、セラは少しだけ考えた。
あの頭巾の男にも知らせた方がいい。
彼は今も、街のどこかで人の胸元を見ているはずだ。
灰色の粒と、薬を欲しがる反応が一致した。
それを聞けば、また何か見つけるかもしれない。
「連絡を出したら、私も一度――」
「総監」
記録官が駆け戻ってきた。
「使用停止を知らせる鐘を鳴らします。よろしいですか」
セヴランが頷く。
「お願いします」
ほどなく、遠くで鐘が鳴った。
――ゴォン。
一度。
セラは窓の外へ目を向けた。
――ゴォン。
二度。
王都の向こうへ、薬を飲むなという知らせが渡っていく。
――ゴォン。
三度。
鐘の余韻が、水路の向こうへ長く伸びていった。
セラは記録板を抱え直した。
まだ調べることは山ほどある。
それでも今は、次にやることがある。
セラは机へ戻ろうとした。
そのとき。
地の底から、どん、と低い音が響いた。
窓硝子が震えた。
「今のは?」
レイオスが真っ先に扉へ向かった。
「外を見る。キース、来い」
セラも記録板を置き、そのあとを追った。
明日はおやすみなので、お昼と夜に更新予定です!
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