↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
世界が彼を魔王と呼ぶまで  作者: ぶん吉
第一章

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
20/60

第018話 引き受けるもの

 セラたちと別れたあと、ハミルは中央調薬所へ真っ直ぐ向かわなかった。


 水路を一本隔てた市場へ入り、朝の人の流れを逆に辿る。


 魚籠を洗う店主。


 焼き上がった薄パンを棚へ並べる女。


 荷車の車輪へ油を差す職人。


 王都の朝は、十年前よりずっと忙しくなっていた。


 水路沿いに屋根が増え、橋のたもとには知らない店が並んでいる。変わった街を眺めて歩くだけなら、もう少し楽しかっただろう。


 今は、人の顔より先に胸元を見てしまう。


 短い黒の弧。


 市場へ入ってから、もう六つ見つけた。


『見過ぎだ』


『顔は見ないで胸ばかり見てたら、別の理由で捕まりそうだな』


『笑っている場合か』


『笑えるうちに笑っておこうと思って』


 薄パンの店主の胸には、半円ほどの弧がある。


 その男が店先の杯へ、淡い緑線の紙包みから薬を流し込む。飲み終えた包みは、丸めて屑籠へ捨てられた。


 ハミルは声をかけず、店の前を通り過ぎる。


 弧は閉じていない。


 それでも、男が捨てた包みの印と、胸元の弧は一つの事実として結びついた。


     *


 次の橋では、幼い娘の手を引く母親に弧があった。


 その先では、救済院の荷を運ぶ若者。


 水汲み場の老人。


 鐘楼の下で休む職人。


 母親の籠には、施療所の青い線の包みが覗いていた。


 荷運びの若者は、腰をさすりながら黄土色の包みを水へ流し込んでいる。


 薬の印も、受け取った場所も違う。


 それでも、胸元には同じ黒い弧がある。


 ハミルは細い橋の欄干へ手を置いた。


 水は澄んでいる。


 違う薬を、違う場所で受け取った者たちに、同じ黒い弧が生じている。それだけは、もう偶然とは思えなかった。


『二十を越えた』


『数えるのはやめた方がいいな』


『恐ろしくなったか』


『これ以上は、何人だろうが気持ちは一緒だ』


 それを聞いたイルが黙った。


 ハミルは欄干から手を離す。


 少なくとも今は、皆、自分の足で歩き、いつもの朝を過ごしている。


 弧が見えるというだけで、その日常を奪うわけにはいかない。


 だからこそ、何かが起こる前に原因を見つけたかった。少なくとも、共通点は探したい。


 水路沿いの救済院では、戸口の陰から人の出入りだけを見た。


 胸を押さえて出てきた男が一人。その後ろから、別の薬包みを握った女が同じ仕草で出てくる。二人の胸元にも、長さの違う弧があった。


 追って確かめたいことは増える。だが、ハミル一人で確認できることはここまでだった。


 路地へ戻った途端、背中の傷が脈打った。


 歩きすぎたらしい。


『宿へ戻れ』


『もう少しだけ』


『その言葉を聞いて戻ったことが一度でもあるか』


『今日が最初になるかもしれないだろ』


『我は奇跡を信じぬ』


「元魔王が言うと説得力があるな」


 周囲に人がいないことを確かめ、小さく声へ出す。


 市場と救済院を回るうち、弧を持つ者は二十を越えた。


 けれど、南門の避難所で見たような、輪から弧へ渡る線はない。


 少なくとも今は、誰か一人を起点に繋がっているわけではなさそうだった。


 ハミルは中央調薬所の広場を望める路地へ出た。


 広場の中心には、大きな石造りの水盤がある。


 上流から引かれた水をいったん受け、そこから何本もの細い水路へ分けるためのものだ。市場へ。救済所へ。家々の並ぶ区画へ。十年前にもあった水盤だが、そこから延びる水路は増え、この場所を中心に王都の水が街の隅々まで行き渡っている。


 セラたちが調べているあいだ、弧を持つ者同士が近づきすぎないよう外から見守る。


 このまま誰も倒れなければ、セラたちが戻るまでそうしているつもりだった。


 ――ゴォン。


 不意に、鐘楼から低い音が落ちてきた。


 重い響きが水路を渡り、建物の壁を震わせながら王都へ広がっていく。


 市場のざわめきが、わずかに沈む。


 ハミルも顔を上げた。聞き慣れない、警告じみた響きだった。


 ――ゴォン。


 二度目が鳴る。


 救済所から白い外套の職員が飛び出し、薬種商が店先の箱へ慌てて蓋をした。何の知らせか分からない者たちも、周囲のただならない動きに足を止める。


 ――ゴォン。


 三度目。


 長く引いた鐘の余韻を裂いて、誰かが叫んだ。


「薬を飲むな!」


 声が水路の先へ渡り、別の声が同じ言葉を繰り返す。


 鐘の響きが消えたあとも、誰もすぐには動かなかった。


 ほんの数呼吸だけ、王都の朝から音が抜け落ちた。


 その静けさの中で、異変はまだ何も起きていないように見えた。


 だからこそ、ハミルは先に気づいた。


 水路の水面が、風もないのに細かく震えている。


 次いで、広場にいた何人かが、ほとんど同時に胸へ手を当てた。


 本人たちも理由が分からないらしい。互いを見て、首を傾げる。


『……ハミル』


 イルの声から、いつもの棘が消えた。


 返事をするより先に、水盤の灰色の点が瞬いた。


 どん、と地の底で何かが脈打つ。


 鐘ではない。


 灰色の点から黒い線が噴き出した。


 線は水路の形をなぞり、広場から市場へ、救済所へ、家々の並ぶ区画へ走る。


 そして初めて、人々の胸にある弧へ外から触れた。


 触れられた弧が、一斉に脈打った。


 広場にいるすべての人間ではない。これまで薬を飲み、あの黒い弧を生じさせていた者たちへ、線が選ぶように伸びている。


 なぜ選べる。


 何を目印にしている。


 答えは分からない。


 ただ、一つの点からこれほど多くの人間へ、同時に、迷いなく線が走る光景だけは自然に起きたものとは思えなかった。


『あれが起点だ』


『分かってる。偶然にできたものじゃない』


 誰かが、ここから街全体へ届くように仕組んだ――そうとしか見えなかった。


 薬に何かあったのか。


 自分も飲んだ。


 家族にも飲ませた。


 あれは、本当に薬だったのか。


 誰が口にしたのでもない言葉が、黒い線を通って一人ずつへ注ぎ込まれる。それぞれの恐れや後悔が、同じ起点へ吸い上げられ、別の線へ送り返されていた。


 黒い弧の両端が触れた。


 閉じた輪。


 南門の避難所で見た男と同じ形だった。


 あのときは、輪から別の弧へ細い線が伸びた。


 だが、今は違う。


 水盤から伸びた黒い線が、閉じた輪へなお何かを注ぎ続けている。


 何が起きる。


 答えを考えるより早く、輪の内側へ黒い濁りが広がり始めた。


 水盤からの線が脈打つたび、輪はさらに黒く染まっていく。


 広場のあちこちで、杯や籠が石畳へ落ちた。


 胸を押さえてよろめく者へ、家族が駆け寄ろうとする。聞こえない声に言い返す者、突然泣き出す子ども、立ち止まった人波へ後ろからぶつかる者。怒声と悲鳴が重なり、逃げる者と助けようとする者が狭い水路際で押し合った。


 弧を持つ者の周りへ、人が集まり始めている。


「離れてください!」


 ハミルは近くにいた親子の間へ踏み込んだ。


「胸が苦しい人から距離を取って! 聞こえた言葉を確かめ合わないでください!」


 少女を抱えて飛び退いたハミルを見て、救済院の職員が駆け寄ってきた。


「人を建物へ入れず、広い場所で離してください」


「何が起きているんです」


「説明はあとで。今は走ってください」


 職員が頷く。


 あとがあることを祈るしかなかった。


 母親が胸を押さえて膝をつく。その首筋へ、普通の人にも見える黒い筋が浮かんだ。


 隣の店主が、喉を掻きむしる。


「俺が売った。俺が……あれを……」


「まだ何も決まっていません。手を離してください」


 ハミルが腕を取るより先に、店主の背が不自然に反った。


 最初は、胸の痛みに身体を強張らせただけに見えた。


 だが、握り締めた指が戻らない。


 節が一つずつ膨らみ、骨の形を押し広げていく。爪の根元から灰色が滲み、薄かった爪が、獣の鉤爪のように厚く伸びた。


「たす、け……」


 掠れた声が途中で潰れる。


 首筋へ浮いた黒い筋が、脈を打つたびに頬まで這い上がった。皮膚の下で何かが蠢き、肩が外套を内側から押し上げる。


 布が裂けた。


 突き出したのは腕ではない。皮膚を破って伸びた、灰色の硬い突起だった。


 店主の瞳が揺れる。


 そこにはまだ、助けを求める人間の色が残っていた。


 けれど、次に瞬いたとき、白目が黒く濁った。


 開いた口から漏れたのは、もう言葉ではなかった。


 悲鳴とも咆哮ともつかない声が、広場を震わせる。


 人間が、魔化した。


 そう理解したのではない。


 理解できないものが、そうとしか呼べない姿へ変わっていくのを見ていた。


 人間には核がない。


 核がないものは、魔化しない。


 それは、疑う理由さえなかった世界の決まりだった。


『人間が……?』


 イルの声にも、初めて聞く動揺があった。


 あり得ない。


 それでも、異形へ変わった身体を巡る黒い穢れは、ハミルが何度も見てきたものと同じだった。


 魔化した精霊と、同じだった。


 少女の悲鳴が、止まっていた思考を叩き動かした。


 母親の瞳から白目が消える。


 腕の皮膚が黒く硬化し、抱きつこうとした少女を爪が掠めた。


 ハミルは少女を抱き上げて飛び退いた。


 直後、母親の腕が石畳を砕く。


「お母さん!」


「見ないで」


 少女の顔を胸元へ押しつける。


 見せたくなかった。


 けれど、もう広場のどこにも目を逸らせる場所はない。


 荷を運んでいた男の顎が裂け、灰色の牙が覗く。


 水路脇に座っていた老人の脚が鱗に覆われ、膝とは逆へ曲がった。


 若い女の背から、濡れた膜のような翼が生える。


 一人ではない。


 水路の向こうでも、鐘楼の下でも、人だったものが咆哮を上げていた。


 人々が逃げる。


 逃げる者たちから溢れた恐怖が線へ吸い上げられ、まだ閉じていなかった弧へ、形を閉じる力とともに流れ込む。


 輪が完成し、さらに穢れが全体を黒く染める。


 水路の先で、また一つ、悲鳴が咆哮へ変わった。


『完成した核が、穢れに呑まれた』


『戻せるか』


『試してみないとわからないな』


 広場だけで十を越えている。


 一体ずつでは、最後の一人へ届く前に誰かが死ぬ。


 ハミルは少女を職員へ預け、母親の前へ膝をついた。


 振り下ろされた爪を左へ流す。肩に衝撃が走り、塞がりかけた背中の傷が熱を持った。


 構わず、黒く硬化した胸へ手を当てる。


 あの輪ごと壊してはいけない。


 心臓のすぐ脇に食い込んだものを砕けば、人間の命まで巻き込むかもしれない。


 なら、満ち始めた黒いものだけを引けるか。


 どこまで引けば戻るのかも、そもそも戻せるのかも分からない。


 それでも、可能性があるならやるしかなかった。


「少しだけ、もらいますよ」


 返事はない。


 指先へ冷気が噛みついた。


 黒いものを引く。


 母親の肩を覆っていた硬い皮膚が、わずかにほどけた。突き出していた灰色の突起が沈み、下から人の肌が戻り始める。


 引いたものの冷たさも、指先へ食い込む重さも、魔化した精霊から穢れを抜いたときと同じだった。


 人間に核はない。


 だが、あの輪が核の代わりに穢れを抱え、その身体を変えているのなら。


 穢れを引けば、戻せるかもしれない。


 確信には足りない。


 それでも、母親の肩は確かに人の形を取り戻しかけていた。


 手応えを掴んだ、その瞬間だった。


 水盤の起点から黒い線が脈打ち、引いたはずの分が再び流れ込む。


 硬い突起が再び皮膚を破った。


『一人ずつ引いても駄目だ』


『起点から、また送り込まれる』


 あの灰色の点が動いている限り、完成した人工の核は何度でも穢れで満たされる。


 離れた場所で、魔化した男が逃げ遅れた職員へ飛びかかった。


 ハミルは石畳を蹴る。


 間へ身体を滑り込ませ、牙を右腕で受けた。


 外套が裂ける。


 噛みついた男を傷つけないよう、顎の下へ手を差し込み押し返した。


「随分と元気になりましたね。薬の効き方が少し間違ってますけど」


 笑ってみせても、男には届かない。


 灰色の瞳に理性はなかった。


 それでも、この人は魔物ではない。


 ついさっきまで、荷車の車輪を直していた人だ。


 母親も、店主も、老人も。


 ここで死なせる理由にはならない。


 ハミルは男を水路脇の柱へ押さえ、救済院の職員へ叫んだ。


「縄を! 首ではなく、胴と腕を分けて縛ってください!」


「でも、あれは魔物です!」


「今朝まで人だったんでしょう!」


 言い切った声に、職員が動く。


 だが、同じ方法で押さえ続けることはできない。


 水路の向こうで、子どもの泣き声が途切れた。


 起点から伸びる黒い線は脈打ち続けている。


 王都には、まだたくさんの弧がある。


 ーーセラの胸元にも。


 あれまで閉じ、穢れが満ちれば、もっと増える。


『イル』


『聞かぬ』


『まだ何も言ってないだろ』


『お前が我の名だけを呼ぶときは、ろくなことを考えておらん』


 こんなときなのに、少し笑いそうになった。


『流れを逆にする』


 イルが黙る。


 起点から穢れを送り込むための線なら、逆にも辿れる。


 一人ずつ触れなくても、あの一点から全員分を引ける。


 すべてを浄化する必要はない。


 さっき、母親の肩は、黒いものを引いた分だけ人の形へ戻りかけた。


 なら、全員から同じように、ごくわずかずつ引けば。


 人の姿へ戻せる保証はない。


 それでも、ほかに間に合う方法はなかった。


 人数が多すぎる。


 わずかずつでも、集まれば自分の器を越える。


『我も引く』


『半分なんて言ったら怒るんだろ』


『九割を我へ寄越せ』


『それは俺が怒るよ』


 起点は広場の水盤の下にあった。


 ハミルは母親の爪を避け、黒い線が束になる場所へ走った。


 魔化した者たちが一斉にこちらを向く。


 起点へ近づくものを、敵だと認識したらしい。


 十を越える咆哮が重なった。


 牙も、爪も、歪んだ腕も迫る。


 ハミルは水盤の縁へ左手をついた。


 右手を、黒い束へ差し入れる。


『二人で持つぞ』


『ああ』


 力を解放した。


 水盤の水が、音を立てて逆巻く。


 石畳の隙間から黒い靄が噴き出した。


 人々へ繋がる線が目に見えるほど濃くなり、ハミルの腕へ絡みつく。


 引く。


 母親の後悔。


 店主の罪悪感。


 老人の孤独。


 誰かに捨てられる恐怖。


 救う者などいないという絶望。


 それらに貼りついた黒い穢れだけを見分け、手探りで引く。


 黒い靄が人々とハミルの間を埋めた。


 右腕の紋様が手首から肩へ走る。


 首筋を越え、頬へ届く。


 左腕にも、胸にも、黒い亀裂のような線が浮かんだ。


 噛みつこうとしていた男の牙が折れ、人の歯へ戻る。


 老人の鱗が灰となって剥がれる。


 女の翼が黒い水へ崩れ、背中へ吸い込まれた。


 戻るたびに、別人の穢れがハミルの中へ落ちてくる。


 腕の感覚が消えた。


 視界の端が黒く欠ける。


『もうよい!』


『まだ三人いる』


『器が裂けるぞ!』


『あと少しだ』


 全部を救うのではない。


 人に戻るところまで。


 あと一人。


 鐘楼の下へ伸びた線を引く。


 最後の角が人の額へ沈んだ。


 起点が震え、行き場を失った穢れが一度に逆流する。


 ――ドンッ。


 腹の底まで打つような衝撃音とともに、水盤が内側から弾けた。


 石片が石畳を打ち、黒い水飛沫が広場へ降り注ぐ。


 衝撃が広場を駆け抜ける。


 その音に重なるように、中央調薬所の扉が開いた。


 白い外套の職員たち。


 その先から、炎、風、土、水の気配が溢れる。


 レイオスとバーミッド。


 メルクリオとフラーシア。


 マルテとポルタニア。


 キース。


 そして、セラ。


 彼らが広場へ踏み出した、その瞬間。


 外套の留め具が弾けた。


 頭巾が黒い飛沫を散らしながら宙へ舞う。


 朝の光へ広がったのは、水色ではなかった。


 一筋の色も混じらない、漆黒の髪。


 けれど、砕けた水盤から跳ね上がった水と黒い靄が、ハミルの顔を覆った。濡れた髪が頬へ張りつき、彼らの側から見えたのは、黒い紋様に覆われた若い男の輪郭だけだった。


 ハミルは顔を伏せたまま膝をついた。


 魔化していた人々も、ほとんど同時に倒れた。


 牙も鱗も角も消えている。


 人の姿には戻った。


 だが、誰も目を開けない。


「お母さん!」


 少女の声にも、母親は応えなかった。


 黒い靄だけが、倒れた人々とハミルの間に残っている。


 どちらからどちらへ流れているのか、もうハミル自身にも見分けられなかった。


 彼らが見たのは、人々が魔化していくところではなかった。


 黒い紋様に覆われた男から、倒れた人々へ何本もの靄が伸びている光景だった。


 少女が泣いている。


 母親は動かない。


「魔王……」


 誰かが言った。


 その一言で、止まっていた時間が動く。


 レイオスの大剣へ炎が走った。


 メルクリオの風が退路を塞ぐ。


 マルテの土が、少女と倒れた母親を守るように立ち上がる。


 キースの水が槍の形を取った。


 土壁を広げるため、マルテだけが半歩、横へ出た。


 少女の泣き声に、ハミルがわずかに顔を向ける。


 水飛沫と黒い靄の切れ間は、ほんの一瞬だった。


 マルテの動きが止まった。


 大きく見開かれた目が、ハミルの顔の辺りへ向いている。


 怯えとも驚きとも違う。


 信じられないものを見たような顔だった。


 マルテの唇がわずかに開く。


 けれど、声は出ない。


 次の瞬間には、風に巻かれた靄がマルテの姿を隠した。


「動くな!」


 懐かしい声だった。


 十年の間、何度も思い出した声が、自分へ剣を向けている。


『立て』


『分かってる』


 右腕は動かない。


 左脚も感覚が薄い。


 説明する息さえ残っていなかった。


 それに、何を言えば信じてもらえるのか分からない。


 ハミルは顔を伏せたまま、仲間だった三人と、バーミッド、フラーシア、ポルタニアの気配を数えた。


 見てしまえば、足が止まる。


 土壁の向こうにいるセラの姿だけを、視界の端で確かめる。


 七日間、傷を診てくれた治療師は、治療鞄を抱えたまま動かなかった。


 名前は呼ばれない。


 今は、それでよかった。


 ハミルは立ち上がった。


 剣先がわずかに上がる。


 その動きより先に、砕けた水盤の水を蹴った。


 水が黒い飛沫となって広がる。


 風の網が視界を塞ぐが、勢いを殺さず左肩から突っ込んだ。皮膚が裂け、血が散る。


 炎は倒れた人々を避ける。


 土壁は患者を守るため、広場の外まで閉じられない。


 十年前と変わらない連携だった。


 知っていることが、今だけは逃げ道になる。


 ハミルは狭い水路沿いの道へ転がり出た。


 追う足音が響く。


 走っているつもりなのに、身体は前へ倒れ続けているだけだった。


 角を一つ曲がる。


 その先に、王都を貫く大河が見えた。


 南の水門へ続く、速い流れ。


『飛べ』


『泳げるかな』


『我が浮かせる』


『泳ぎなら任せろと言いたいところだけどな』


『今のお前は濡れた石より沈みそうだ!』


 最後の軽口が、息にならず喉で潰れた。


 岸壁へ足を掛ける。


 背後で誰かが叫んだ。


 振り返らなかった。


 ハミルは大河へ身を投げた。


 冷たい水が、黒い紋様ごと身体を呑み込む。


 光が遠ざかる。


 イルの声だけを掴んだまま、ハミルの意識は暗い流れへ沈んだ。

今日は夜にも更新予定です!

「続きが気になる」「面白い」と感じていただけましたら、

【ブックマーク追加】 や 【★★★★★評価】 をポチッと押していただけると、執筆の大きな励みになります!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。