第018話 引き受けるもの
セラたちと別れたあと、ハミルは中央調薬所へ真っ直ぐ向かわなかった。
水路を一本隔てた市場へ入り、朝の人の流れを逆に辿る。
魚籠を洗う店主。
焼き上がった薄パンを棚へ並べる女。
荷車の車輪へ油を差す職人。
王都の朝は、十年前よりずっと忙しくなっていた。
水路沿いに屋根が増え、橋のたもとには知らない店が並んでいる。変わった街を眺めて歩くだけなら、もう少し楽しかっただろう。
今は、人の顔より先に胸元を見てしまう。
短い黒の弧。
市場へ入ってから、もう六つ見つけた。
『見過ぎだ』
『顔は見ないで胸ばかり見てたら、別の理由で捕まりそうだな』
『笑っている場合か』
『笑えるうちに笑っておこうと思って』
薄パンの店主の胸には、半円ほどの弧がある。
その男が店先の杯へ、淡い緑線の紙包みから薬を流し込む。飲み終えた包みは、丸めて屑籠へ捨てられた。
ハミルは声をかけず、店の前を通り過ぎる。
弧は閉じていない。
それでも、男が捨てた包みの印と、胸元の弧は一つの事実として結びついた。
*
次の橋では、幼い娘の手を引く母親に弧があった。
その先では、救済院の荷を運ぶ若者。
水汲み場の老人。
鐘楼の下で休む職人。
母親の籠には、施療所の青い線の包みが覗いていた。
荷運びの若者は、腰をさすりながら黄土色の包みを水へ流し込んでいる。
薬の印も、受け取った場所も違う。
それでも、胸元には同じ黒い弧がある。
ハミルは細い橋の欄干へ手を置いた。
水は澄んでいる。
違う薬を、違う場所で受け取った者たちに、同じ黒い弧が生じている。それだけは、もう偶然とは思えなかった。
『二十を越えた』
『数えるのはやめた方がいいな』
『恐ろしくなったか』
『これ以上は、何人だろうが気持ちは一緒だ』
それを聞いたイルが黙った。
ハミルは欄干から手を離す。
少なくとも今は、皆、自分の足で歩き、いつもの朝を過ごしている。
弧が見えるというだけで、その日常を奪うわけにはいかない。
だからこそ、何かが起こる前に原因を見つけたかった。少なくとも、共通点は探したい。
水路沿いの救済院では、戸口の陰から人の出入りだけを見た。
胸を押さえて出てきた男が一人。その後ろから、別の薬包みを握った女が同じ仕草で出てくる。二人の胸元にも、長さの違う弧があった。
追って確かめたいことは増える。だが、ハミル一人で確認できることはここまでだった。
路地へ戻った途端、背中の傷が脈打った。
歩きすぎたらしい。
『宿へ戻れ』
『もう少しだけ』
『その言葉を聞いて戻ったことが一度でもあるか』
『今日が最初になるかもしれないだろ』
『我は奇跡を信じぬ』
「元魔王が言うと説得力があるな」
周囲に人がいないことを確かめ、小さく声へ出す。
市場と救済院を回るうち、弧を持つ者は二十を越えた。
けれど、南門の避難所で見たような、輪から弧へ渡る線はない。
少なくとも今は、誰か一人を起点に繋がっているわけではなさそうだった。
ハミルは中央調薬所の広場を望める路地へ出た。
広場の中心には、大きな石造りの水盤がある。
上流から引かれた水をいったん受け、そこから何本もの細い水路へ分けるためのものだ。市場へ。救済所へ。家々の並ぶ区画へ。十年前にもあった水盤だが、そこから延びる水路は増え、この場所を中心に王都の水が街の隅々まで行き渡っている。
セラたちが調べているあいだ、弧を持つ者同士が近づきすぎないよう外から見守る。
このまま誰も倒れなければ、セラたちが戻るまでそうしているつもりだった。
――ゴォン。
不意に、鐘楼から低い音が落ちてきた。
重い響きが水路を渡り、建物の壁を震わせながら王都へ広がっていく。
市場のざわめきが、わずかに沈む。
ハミルも顔を上げた。聞き慣れない、警告じみた響きだった。
――ゴォン。
二度目が鳴る。
救済所から白い外套の職員が飛び出し、薬種商が店先の箱へ慌てて蓋をした。何の知らせか分からない者たちも、周囲のただならない動きに足を止める。
――ゴォン。
三度目。
長く引いた鐘の余韻を裂いて、誰かが叫んだ。
「薬を飲むな!」
声が水路の先へ渡り、別の声が同じ言葉を繰り返す。
鐘の響きが消えたあとも、誰もすぐには動かなかった。
ほんの数呼吸だけ、王都の朝から音が抜け落ちた。
その静けさの中で、異変はまだ何も起きていないように見えた。
だからこそ、ハミルは先に気づいた。
水路の水面が、風もないのに細かく震えている。
次いで、広場にいた何人かが、ほとんど同時に胸へ手を当てた。
本人たちも理由が分からないらしい。互いを見て、首を傾げる。
『……ハミル』
イルの声から、いつもの棘が消えた。
返事をするより先に、水盤の灰色の点が瞬いた。
どん、と地の底で何かが脈打つ。
鐘ではない。
灰色の点から黒い線が噴き出した。
線は水路の形をなぞり、広場から市場へ、救済所へ、家々の並ぶ区画へ走る。
そして初めて、人々の胸にある弧へ外から触れた。
触れられた弧が、一斉に脈打った。
広場にいるすべての人間ではない。これまで薬を飲み、あの黒い弧を生じさせていた者たちへ、線が選ぶように伸びている。
なぜ選べる。
何を目印にしている。
答えは分からない。
ただ、一つの点からこれほど多くの人間へ、同時に、迷いなく線が走る光景だけは自然に起きたものとは思えなかった。
『あれが起点だ』
『分かってる。偶然にできたものじゃない』
誰かが、ここから街全体へ届くように仕組んだ――そうとしか見えなかった。
薬に何かあったのか。
自分も飲んだ。
家族にも飲ませた。
あれは、本当に薬だったのか。
誰が口にしたのでもない言葉が、黒い線を通って一人ずつへ注ぎ込まれる。それぞれの恐れや後悔が、同じ起点へ吸い上げられ、別の線へ送り返されていた。
黒い弧の両端が触れた。
閉じた輪。
南門の避難所で見た男と同じ形だった。
あのときは、輪から別の弧へ細い線が伸びた。
だが、今は違う。
水盤から伸びた黒い線が、閉じた輪へなお何かを注ぎ続けている。
何が起きる。
答えを考えるより早く、輪の内側へ黒い濁りが広がり始めた。
水盤からの線が脈打つたび、輪はさらに黒く染まっていく。
広場のあちこちで、杯や籠が石畳へ落ちた。
胸を押さえてよろめく者へ、家族が駆け寄ろうとする。聞こえない声に言い返す者、突然泣き出す子ども、立ち止まった人波へ後ろからぶつかる者。怒声と悲鳴が重なり、逃げる者と助けようとする者が狭い水路際で押し合った。
弧を持つ者の周りへ、人が集まり始めている。
「離れてください!」
ハミルは近くにいた親子の間へ踏み込んだ。
「胸が苦しい人から距離を取って! 聞こえた言葉を確かめ合わないでください!」
少女を抱えて飛び退いたハミルを見て、救済院の職員が駆け寄ってきた。
「人を建物へ入れず、広い場所で離してください」
「何が起きているんです」
「説明はあとで。今は走ってください」
職員が頷く。
あとがあることを祈るしかなかった。
母親が胸を押さえて膝をつく。その首筋へ、普通の人にも見える黒い筋が浮かんだ。
隣の店主が、喉を掻きむしる。
「俺が売った。俺が……あれを……」
「まだ何も決まっていません。手を離してください」
ハミルが腕を取るより先に、店主の背が不自然に反った。
最初は、胸の痛みに身体を強張らせただけに見えた。
だが、握り締めた指が戻らない。
節が一つずつ膨らみ、骨の形を押し広げていく。爪の根元から灰色が滲み、薄かった爪が、獣の鉤爪のように厚く伸びた。
「たす、け……」
掠れた声が途中で潰れる。
首筋へ浮いた黒い筋が、脈を打つたびに頬まで這い上がった。皮膚の下で何かが蠢き、肩が外套を内側から押し上げる。
布が裂けた。
突き出したのは腕ではない。皮膚を破って伸びた、灰色の硬い突起だった。
店主の瞳が揺れる。
そこにはまだ、助けを求める人間の色が残っていた。
けれど、次に瞬いたとき、白目が黒く濁った。
開いた口から漏れたのは、もう言葉ではなかった。
悲鳴とも咆哮ともつかない声が、広場を震わせる。
人間が、魔化した。
そう理解したのではない。
理解できないものが、そうとしか呼べない姿へ変わっていくのを見ていた。
人間には核がない。
核がないものは、魔化しない。
それは、疑う理由さえなかった世界の決まりだった。
『人間が……?』
イルの声にも、初めて聞く動揺があった。
あり得ない。
それでも、異形へ変わった身体を巡る黒い穢れは、ハミルが何度も見てきたものと同じだった。
魔化した精霊と、同じだった。
少女の悲鳴が、止まっていた思考を叩き動かした。
母親の瞳から白目が消える。
腕の皮膚が黒く硬化し、抱きつこうとした少女を爪が掠めた。
ハミルは少女を抱き上げて飛び退いた。
直後、母親の腕が石畳を砕く。
「お母さん!」
「見ないで」
少女の顔を胸元へ押しつける。
見せたくなかった。
けれど、もう広場のどこにも目を逸らせる場所はない。
荷を運んでいた男の顎が裂け、灰色の牙が覗く。
水路脇に座っていた老人の脚が鱗に覆われ、膝とは逆へ曲がった。
若い女の背から、濡れた膜のような翼が生える。
一人ではない。
水路の向こうでも、鐘楼の下でも、人だったものが咆哮を上げていた。
人々が逃げる。
逃げる者たちから溢れた恐怖が線へ吸い上げられ、まだ閉じていなかった弧へ、形を閉じる力とともに流れ込む。
輪が完成し、さらに穢れが全体を黒く染める。
水路の先で、また一つ、悲鳴が咆哮へ変わった。
『完成した核が、穢れに呑まれた』
『戻せるか』
『試してみないとわからないな』
広場だけで十を越えている。
一体ずつでは、最後の一人へ届く前に誰かが死ぬ。
ハミルは少女を職員へ預け、母親の前へ膝をついた。
振り下ろされた爪を左へ流す。肩に衝撃が走り、塞がりかけた背中の傷が熱を持った。
構わず、黒く硬化した胸へ手を当てる。
あの輪ごと壊してはいけない。
心臓のすぐ脇に食い込んだものを砕けば、人間の命まで巻き込むかもしれない。
なら、満ち始めた黒いものだけを引けるか。
どこまで引けば戻るのかも、そもそも戻せるのかも分からない。
それでも、可能性があるならやるしかなかった。
「少しだけ、もらいますよ」
返事はない。
指先へ冷気が噛みついた。
黒いものを引く。
母親の肩を覆っていた硬い皮膚が、わずかにほどけた。突き出していた灰色の突起が沈み、下から人の肌が戻り始める。
引いたものの冷たさも、指先へ食い込む重さも、魔化した精霊から穢れを抜いたときと同じだった。
人間に核はない。
だが、あの輪が核の代わりに穢れを抱え、その身体を変えているのなら。
穢れを引けば、戻せるかもしれない。
確信には足りない。
それでも、母親の肩は確かに人の形を取り戻しかけていた。
手応えを掴んだ、その瞬間だった。
水盤の起点から黒い線が脈打ち、引いたはずの分が再び流れ込む。
硬い突起が再び皮膚を破った。
『一人ずつ引いても駄目だ』
『起点から、また送り込まれる』
あの灰色の点が動いている限り、完成した人工の核は何度でも穢れで満たされる。
離れた場所で、魔化した男が逃げ遅れた職員へ飛びかかった。
ハミルは石畳を蹴る。
間へ身体を滑り込ませ、牙を右腕で受けた。
外套が裂ける。
噛みついた男を傷つけないよう、顎の下へ手を差し込み押し返した。
「随分と元気になりましたね。薬の効き方が少し間違ってますけど」
笑ってみせても、男には届かない。
灰色の瞳に理性はなかった。
それでも、この人は魔物ではない。
ついさっきまで、荷車の車輪を直していた人だ。
母親も、店主も、老人も。
ここで死なせる理由にはならない。
ハミルは男を水路脇の柱へ押さえ、救済院の職員へ叫んだ。
「縄を! 首ではなく、胴と腕を分けて縛ってください!」
「でも、あれは魔物です!」
「今朝まで人だったんでしょう!」
言い切った声に、職員が動く。
だが、同じ方法で押さえ続けることはできない。
水路の向こうで、子どもの泣き声が途切れた。
起点から伸びる黒い線は脈打ち続けている。
王都には、まだたくさんの弧がある。
ーーセラの胸元にも。
あれまで閉じ、穢れが満ちれば、もっと増える。
『イル』
『聞かぬ』
『まだ何も言ってないだろ』
『お前が我の名だけを呼ぶときは、ろくなことを考えておらん』
こんなときなのに、少し笑いそうになった。
『流れを逆にする』
イルが黙る。
起点から穢れを送り込むための線なら、逆にも辿れる。
一人ずつ触れなくても、あの一点から全員分を引ける。
すべてを浄化する必要はない。
さっき、母親の肩は、黒いものを引いた分だけ人の形へ戻りかけた。
なら、全員から同じように、ごくわずかずつ引けば。
人の姿へ戻せる保証はない。
それでも、ほかに間に合う方法はなかった。
人数が多すぎる。
わずかずつでも、集まれば自分の器を越える。
『我も引く』
『半分なんて言ったら怒るんだろ』
『九割を我へ寄越せ』
『それは俺が怒るよ』
起点は広場の水盤の下にあった。
ハミルは母親の爪を避け、黒い線が束になる場所へ走った。
魔化した者たちが一斉にこちらを向く。
起点へ近づくものを、敵だと認識したらしい。
十を越える咆哮が重なった。
牙も、爪も、歪んだ腕も迫る。
ハミルは水盤の縁へ左手をついた。
右手を、黒い束へ差し入れる。
『二人で持つぞ』
『ああ』
力を解放した。
水盤の水が、音を立てて逆巻く。
石畳の隙間から黒い靄が噴き出した。
人々へ繋がる線が目に見えるほど濃くなり、ハミルの腕へ絡みつく。
引く。
母親の後悔。
店主の罪悪感。
老人の孤独。
誰かに捨てられる恐怖。
救う者などいないという絶望。
それらに貼りついた黒い穢れだけを見分け、手探りで引く。
黒い靄が人々とハミルの間を埋めた。
右腕の紋様が手首から肩へ走る。
首筋を越え、頬へ届く。
左腕にも、胸にも、黒い亀裂のような線が浮かんだ。
噛みつこうとしていた男の牙が折れ、人の歯へ戻る。
老人の鱗が灰となって剥がれる。
女の翼が黒い水へ崩れ、背中へ吸い込まれた。
戻るたびに、別人の穢れがハミルの中へ落ちてくる。
腕の感覚が消えた。
視界の端が黒く欠ける。
『もうよい!』
『まだ三人いる』
『器が裂けるぞ!』
『あと少しだ』
全部を救うのではない。
人に戻るところまで。
あと一人。
鐘楼の下へ伸びた線を引く。
最後の角が人の額へ沈んだ。
起点が震え、行き場を失った穢れが一度に逆流する。
――ドンッ。
腹の底まで打つような衝撃音とともに、水盤が内側から弾けた。
石片が石畳を打ち、黒い水飛沫が広場へ降り注ぐ。
衝撃が広場を駆け抜ける。
その音に重なるように、中央調薬所の扉が開いた。
白い外套の職員たち。
その先から、炎、風、土、水の気配が溢れる。
レイオスとバーミッド。
メルクリオとフラーシア。
マルテとポルタニア。
キース。
そして、セラ。
彼らが広場へ踏み出した、その瞬間。
外套の留め具が弾けた。
頭巾が黒い飛沫を散らしながら宙へ舞う。
朝の光へ広がったのは、水色ではなかった。
一筋の色も混じらない、漆黒の髪。
けれど、砕けた水盤から跳ね上がった水と黒い靄が、ハミルの顔を覆った。濡れた髪が頬へ張りつき、彼らの側から見えたのは、黒い紋様に覆われた若い男の輪郭だけだった。
ハミルは顔を伏せたまま膝をついた。
魔化していた人々も、ほとんど同時に倒れた。
牙も鱗も角も消えている。
人の姿には戻った。
だが、誰も目を開けない。
「お母さん!」
少女の声にも、母親は応えなかった。
黒い靄だけが、倒れた人々とハミルの間に残っている。
どちらからどちらへ流れているのか、もうハミル自身にも見分けられなかった。
彼らが見たのは、人々が魔化していくところではなかった。
黒い紋様に覆われた男から、倒れた人々へ何本もの靄が伸びている光景だった。
少女が泣いている。
母親は動かない。
「魔王……」
誰かが言った。
その一言で、止まっていた時間が動く。
レイオスの大剣へ炎が走った。
メルクリオの風が退路を塞ぐ。
マルテの土が、少女と倒れた母親を守るように立ち上がる。
キースの水が槍の形を取った。
土壁を広げるため、マルテだけが半歩、横へ出た。
少女の泣き声に、ハミルがわずかに顔を向ける。
水飛沫と黒い靄の切れ間は、ほんの一瞬だった。
マルテの動きが止まった。
大きく見開かれた目が、ハミルの顔の辺りへ向いている。
怯えとも驚きとも違う。
信じられないものを見たような顔だった。
マルテの唇がわずかに開く。
けれど、声は出ない。
次の瞬間には、風に巻かれた靄がマルテの姿を隠した。
「動くな!」
懐かしい声だった。
十年の間、何度も思い出した声が、自分へ剣を向けている。
『立て』
『分かってる』
右腕は動かない。
左脚も感覚が薄い。
説明する息さえ残っていなかった。
それに、何を言えば信じてもらえるのか分からない。
ハミルは顔を伏せたまま、仲間だった三人と、バーミッド、フラーシア、ポルタニアの気配を数えた。
見てしまえば、足が止まる。
土壁の向こうにいるセラの姿だけを、視界の端で確かめる。
七日間、傷を診てくれた治療師は、治療鞄を抱えたまま動かなかった。
名前は呼ばれない。
今は、それでよかった。
ハミルは立ち上がった。
剣先がわずかに上がる。
その動きより先に、砕けた水盤の水を蹴った。
水が黒い飛沫となって広がる。
風の網が視界を塞ぐが、勢いを殺さず左肩から突っ込んだ。皮膚が裂け、血が散る。
炎は倒れた人々を避ける。
土壁は患者を守るため、広場の外まで閉じられない。
十年前と変わらない連携だった。
知っていることが、今だけは逃げ道になる。
ハミルは狭い水路沿いの道へ転がり出た。
追う足音が響く。
走っているつもりなのに、身体は前へ倒れ続けているだけだった。
角を一つ曲がる。
その先に、王都を貫く大河が見えた。
南の水門へ続く、速い流れ。
『飛べ』
『泳げるかな』
『我が浮かせる』
『泳ぎなら任せろと言いたいところだけどな』
『今のお前は濡れた石より沈みそうだ!』
最後の軽口が、息にならず喉で潰れた。
岸壁へ足を掛ける。
背後で誰かが叫んだ。
振り返らなかった。
ハミルは大河へ身を投げた。
冷たい水が、黒い紋様ごと身体を呑み込む。
光が遠ざかる。
イルの声だけを掴んだまま、ハミルの意識は暗い流れへ沈んだ。
今日は夜にも更新予定です!
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