↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
世界が彼を魔王と呼ぶまで  作者: ぶん吉
第一章

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
21/60

第019話 一瞬の横顔

 漆黒の影が、大河へ落ちた。


「キース!」


 レイオスが叫ぶより先に、水が持ち上がった。


 キースは両手を川へ向け、落下地点を中心に大きな渦を止めようとする。


 だが、王都を貫く流れは重い。


 黒い髪が一度だけ水面へ浮かび、次の波に呑まれた。


「見つからない!」


「下流へ流された!」


 騎士たちが岸を走る。


 マルテも河岸へ踏み出しかけた。


 背後で、子どもの泣き声が上がった。


「お母さん、起きて。ねえ、起きてよ」


 足が止まった。


 広場に倒れているのは、一人や二人ではなかった。


 中央調薬所から見える範囲だけで十人を越え、水路の向こうにも動かない身体が横たわっている。


 誰もが人の姿をした市民だった。


 そして、誰も目を開けない。


「マルテ、患者を守れ! メルクリオ、黒い靄を風で囲え。街へ散らすな。バーミッド、川沿いを追う騎士につけ! キースは流れを探れ!」


 レイオスの意図は分かった。


 害があるかも分からないものを、街へ流すわけにはいかない。調べるためにも、この場へ留める必要がある。


 マルテは倒れた母親と少女へ駆けた。


 黒い靄は、漆黒の男と市民を繋いでいた。


 右腕から首筋まで紋様に覆われ、足元には倒れた人々がいた。


 魔王だと叫んだ者がいた。


 そう見えた。


 そうとしか見えないはずだった。


 けれど、マルテは見てしまった。


 土壁を広げるため半歩横へ出たとき、水飛沫と黒い靄の切れ間から覗いた横顔を。


 十年前から少しも歳を取っていないような輪郭。


 仲間が無茶をするたび、困ったように下がった眉。


 ハミル。


 名前は喉まで上がり、声になる前に消えた。


 髪も瞳も漆黒だった。頬には魔王を思わせる紋様が這っていた。


 けれど、ハミルは十年前、魔王城に残ったきり帰ってこなかった。


 生きていると信じるには、十年はあまりにも長かった。


 見間違いだ。


 一瞬の光と、十年間捨てきれなかった願いが見せたものに違いない。


「マルテ!」


 ポルタニアの声で我に返る。


 マルテは石畳へ両手をつき、柔らかな土を患者の下へ広げた。


「まだ生きてる。脈はある」


「全員か」


「ここは。向こうはまだ分からない」


「治療師!」


 白い外套の職員たちが走り出す。


 セラ治療師は、最初に倒れた母親のそばへ膝をついた。瞼を開き、呼吸と脈を確かめ、首筋に残る黒い線へ触れずに観察する。


「呼吸はあります。脈も触れます」


「何をされた」


「私たちが扉を開けたときには、異変はすでに起きていました。私が見たのは、あの方と人々を繋ぐ黒い靄と、皆が倒れるところだけです」


 声が硬い。


 マルテが見たものも、ほとんど同じだった。


 黒い靄に繋がれた市民が一斉に倒れ、その中心に漆黒の男がいた。


 違うのは、水と靄の隙間に残った、ほんの一瞬だけ。


「最初から見ていた者はいるか!」


 広場へ叫ぶ。


 すぐには誰も答えなかった。


 壁際で震えていた救済院の職員が、やがて片手を上げる。


「あの人たちが、魔物になったんです」


「何だと」


「鐘が鳴ったあと、地面の下で、どんと音がして。それから腕が黒くなって、牙や角が生えて……人の形じゃなくなって、襲いかかってきました」


 レイオスは倒れた母親を見る。


 どこから見ても人間だった。


 首筋に黒い線はある。服の袖も裂けている。だが、角も牙もない。


「人間が魔物になったと言うのか」


「見たんです。皆、見ています!」


 あり得ない。


 魔物は魔王が生み出す――少なくとも、それがこの世界で疑われることすらなかった常識だ。


 人間が牙や角を生やして魔物へ変わったという記録など、十年間どころか、古い記録にもない。


「私も見ました」


 水汲み場にいたらしい老人が言った。


「あの母親の腕が、石畳を砕くほど太くなった。目も真っ黒で……」


「鐘楼の下にもいた! 背中から翼が出た女だ!」


「違う、あれは黒い男が見せた幻だ!」


 別の男が叫ぶ。


「あいつから黒い煙が伸びた途端、皆が化け物に見えたんだ。それで倒れた!」


「煙が出る前からだ!」


「では、なぜ今は人間なんだ!」


 証言がぶつかり合う。


 変わった形は、角、牙、鱗、翼とばらばらだった。


 しかし、鐘のあとに地の底で音がし、その直後に人が異形へ変わったという部分だけは、広場の端にいた者も、水路の向こうにいた者も同じことを言う。


 目の前の患者には、もう角も牙も残っていない。


「フラーシア。幻術の痕跡は分かるか」


「風には、ありふれた幻術の痕跡は残っていないわ」


 砕けた石畳の隙間から、土を頭に載せたポルタニアが顔を出した。


「地面の下から、どんって強い力が広がった跡があるよ。何かが落ちたんじゃない。土の中を一気に押されたみたい」


「それだけ?」


「それだけって何さ! 僕が今たくさん説明したのに!」


「静かに!」


 セラ治療師の声が広場を通った。


「患者の呼吸を妨げます。証言は一人ずつ、離れた場所で記録してください。互いの話を聞かせないで」


 調薬所で職員の証言を分けたときと同じ判断なのだろう。


 震えていた人々が、職員に導かれて離れていく。


 セラ治療師は母親の胸へ耳を当て、もう一度脈を数えた。


「目を覚ますか」


「分かりません。呼吸は安定していますが、呼びかけに反応しません」


 レイオスの視線が、先ほど男の消えた大河へ向いた。


「あの男を知っているのか」


 セラは一瞬だけ黙った。


「……はい。南の町で、薬の調査に協力してくれた方です」


「調査に?」


「この薬に異変があると最初に気づいた方です。中央調薬所へ来たのも、その原因を確かめるためでした」


 セラはそこで一度、倒れた母親の呼吸を確かめた。


「私が知っているのは、それだけです。今日の異変については、私も皆さんとほぼ同じところからしか見ていません」


 事実だけを並べた声だった。


 親しいとも、信用しているとも言わない。


 ただ、ここへ来た経緯を隠しもしなかった。


 レイオスもそれ以上は問わず、広場を見渡した。


 今は一人の男の素性より、倒れている人々と、何が起きたのかを確かめる方が先だった。


 マルテも、見たもの以上を口にするべきではない。


 けれど、横顔が誰に見えたのかを告げれば、それだけで全員を十年前へ引き戻してしまう。


 確かめようのない希望ほど、残酷なものはなかった。


     *


 日が傾くころには、ユーフォルスも王宮から駆けつけていた。


 患者は一人も目を覚まさない。


 呼吸と脈は安定している。


 黒い筋の大半は薄れている。


 目撃者が語った牙も角も、患者の身体には見当たらない。


 それでも、呼びかけにも痛みにも反応しなかった。


 中央院の広間だけでは足りず、調薬所の作業室まで寝台が並べられている。


 ユーフォルスは到着するなり患者を一人ずつ見て回り、今はセラ治療師の隣で、衣服や爪に残った灰色の欠片を確かめていた。


「目撃者が言っていた鱗か」


 レイオスが尋ねると、セラは小瓶を光へ透かした。


「そう見えます。検査に回して、薬に混じっていた粒と照合します」


「あの男のものでは」


「可能性はあります」


 否定はしなかった。


「ですが、あの方が黒い靄を出す前に、患者の姿が変わったという証言もあります」


 ユーフォルスの目が、ほんのわずかに細められた。


 王宮にも、すでに新たな魔王が現れたという報せが届いていたらしい。


 調薬所の外では、騎士たちが川沿いから戻り始めていた。


 下流の水門まで捜したが、遺体も血痕も見つからない。


 岸壁には、黒い血が数滴残っていた。


 風の網を抜けたときについた傷だ。


 そこから足跡が乱れ、大河の縁で途切れている。


 騎士たちと追跡に出ていたバーミッドも戻り、川下を見やったまま低く唸った。


「流れを止めきれなかった」


 キースが濡れたまま戻ってきた。


 唇が青い。


「僕がもっと早ければ」


「あの人数を前に、川だけへ力を使わせることはできなかった」


 レイオスは言った。


 慰めではない。


 患者を残して全員で追えなかったのと同じだ。


「まず着替えてください」


 ユーフォルスがキースの濡れた袖へ目を落とす。


「あとでいいよ。それより――」


「身体を冷やしてまで探し続ける必要はありません。私も来ました」


 いつもより少しだけ強い声だった。


 キースは言い返しかけて、結局、小さく頷いた。


 そのやり取りを見ながら、マルテは昼の逃走を思い返す。


 漆黒の男は、炎が患者へ向かない場所を選び、マルテの土壁が閉じきらない方角を抜けた。


 風の網が張られる前に身を低くした。


 炎、風、土の連携を、見慣れている者の動きだった。


 ハミルなら、知っている。


 胸に浮かんだ名前を、マルテはまた押し戻した。


 似た横顔と、似た動き。


 それだけで、十年前に失った人が帰ってきたと信じるには、あまりにも足りない。


「新しい魔王が現れたらしい」


 廊下の向こうで、誰かが囁いた。


 昼に広場で落ちた言葉は、もう王都の別の場所まで届いている。


 漆黒の髪と瞳。


 人々へ黒い靄を伸ばした男。


 勇者たちへ追われ、大河へ逃げた魔王。


 そこへ、人間を魔物へ変えたという話まで加わっていた。


 魔王。


 その二文字を聞くだけで、マルテの胸の奥が冷えた。


 十年前、四人と精霊全員でようやく辿り着いた最後の戦い。そこでハミルは魔王城へ残った。


 帰ってこなかった。


 自分たちだけが帰った。


 あれだけのものを差し出して終わらせたはずなのに、たった十年でまた魔王が現れたというのか。


 そんなことを、簡単に認めたくなかった。


 認めてしまえば、ハミルが残った意味まで十年で尽きたように思えてしまう。


 目撃者の多くは、人が異形へ変わったと語っている。


 だが、人間が魔物になるという前提そのものが、この世界の常識に反している。


 そして、その中心にいた男が本当に魔王なのか。


 確かめなければならない。


「捜索手配を出します」


 王都の騎士が机へ紙を広げた。


「事件の重要参考人として。危険性を考え、発見時は接触せず、勇者か精霊へ報せるよう記します」


「魔王と断定するな」


 レイオスは言った。


 騎士が顔を上げる。


「しかし、あの気配は」


「魔王に近い気配だった。それは俺も感じた」


 レイオスの声が低くなる。


「だが、十年前、俺たちは魔王を倒した。そのためにあいつは魔王城へ残った」


 部屋の空気が止まった。


「たった十年だ。似た気配をまとっていた、それだけで新しい魔王が現れたと決めつける気にはなれない。あいつが何者なのか、何をしたのか。まずそれを確かめる」


 メルクリオから、いつもの笑みが消えていた。


「僕も同意するよ。もし本当に魔王なら、それはそれで確かめなきゃいけない。僕たちが十年前に何を終わらせて、何を終わらせられなかったのかまでね」


 ユーフォルスは黙っていた。


 けれど、その指が白い衣の端をわずかに握っているのを、マルテは見た。


 誰も、十年前を終わったことにはできていない。


「今は重要参考人だ」


 レイオスが改めて言った。


 今度は、騎士も反論しなかった。


 記録官が新しい紙へ筆を置く。


「人相をお願いします」


「若い男だ。髪は漆黒。瞳も黒かったという証言がある」


「顔立ちは?」


「よく見えなかった。頭巾は外れたが、水飛沫と靄に隠れていた」


「背丈や体格は」


 レイオスは少し考えてから首を振った。


「走っているところしか見ていない。細身には見えたが、手配書に書けるほど確かじゃない」


 記録官の筆が止まった。


「……確かなのは、黒い髪と黒い瞳。それくらいですか」


「ああ」


「分かりました。情報は少ないですが、その組み合わせなら十分に目立ちます。今はこれが一番の手がかりですね」


 記録官は、確かな情報だけを書き留めた。


 黒髪と黒い瞳。


 その二つだけで、マルテには十分すぎるほどだった。


 記録官と騎士が部屋を出る。


 扉が閉じても、残った三人とキース、ユーフォルス、精霊たちはしばらく動かなかった。


「マルテ」


 最初に沈黙を破ったのはキースだった。


「あの人を見たとき、何か言いかけたよね」


 胸の奥で、あの横顔が振り向く。


「……水が目に入っただけ」


 自分の声が、ひどく遠く聞こえた。


 キースはまだ何か尋ねたそうだったが、やがて口を閉じた。


 ポルタニアだけが、マルテの足元からじっと見上げている。


 その視線に、十年前のある日のことが不意に蘇った。


     *


 魔王との戦いが続いていたころ。


 マルテは四人の勇者の中で一番年下だった。


 戦いを終えて野営地へ戻ったあと、右腕がずっと痛んでいた。けれど、三人も傷だらけだったから、わざわざ言うほどではないと思った。


 焚き火の端で一人、腕当てを外そうとしていたときだった。


「マルテ、それ貸して」


 顔を上げると、ハミルがしゃがみ込んでいた。


「自分でできる」


「うん。知ってるよ」


 そう言いながら、もう腕当てへ手を伸ばしてくる。


 留め具を外した途端、腫れた手首が露わになった。


 ハミルの眉が、案の定、困ったように下がる。


「痛いなら言ってくれ。マルテの『平気』は、だいたい平気じゃないんだよ」


「ハミルも言わない」


「そこはほら、お兄さんの特権ってことで」


「三つしか違わない」


「三つも違うんだよ」


 笑いながら言って、ハミルは巻き直した布の端を軽く叩いた。


 面倒を見られるのは少し悔しかった。


 けれど、嫌ではなかった。


 誰にも言わなくても気づいてくれる人がいることを、当時のマルテは当たり前のように思っていた。


     *


「マルテ?」


 ポルタニアの声で、調薬所のざわめきが戻ってきた。


 あのころは、ハミルの方が背が高かった。


 今なら、マルテの方が頭一つ近く大きい。


 なのに、水と靄の向こうに見えた横顔は、あの日のまま少しも変わっていなかった。


「逃げ方が気になるね」


 メルクリオが腕を組む。


「炎が患者へ向かないことも、マルテの土壁がどこまで閉じるかも、僕とフラーシアが風を張る速さも知っていたように見えた」


「うん。土壁の薄いところを探したんじゃなくて、最初からそこへ走ったよ」


 ポルタニアが言う。


「僕たちが何を守ろうとするか、知ってたみたいだった」


「俺たちを調べた者なら、動きを読んだ可能性はある」


 バーミッドが太い腕を組んだ。


「あやつがまとっていた気配は、魔王の穢れに近かった」


「顔を見た者はいないのよね」


 フラーシアが確認する。


「俺は見ていない」


 レイオスが答えた。


「僕も後ろ姿だけだよ」


 メルクリオも続ける。


 ユーフォルスは何も言わなかったが、皆の答えを聞き逃すまいとするように静かに立っていた。


 マルテは口を閉ざしたままだった。


 見たのは横顔だけ。


 ほんの一瞬。


 そう言えば済む。


 けれど、その先を問われれば、きっとあの名まで口にしてしまう。


 レイオスも、メルクリオも、ユーフォルスも、十年間かけてなおハミルを失った場所から動ききれていない。


 キースは、自分が本当に水の勇者なのかという疑いを抱えている。


 そこへ、確かめようのない一瞬を投げ込めば、全員が違う方向へ走り出す。


 だから、まだ言わない。


 自分の目で、もう一度確かめるまでは。


     *


 夜になり、四つの国へ送る緊急照会が整った。


 ユーフォルスと、着替えを済ませたキースは、暗くなるまで大河と分岐する水路を探した。だが、漆黒の男も、流された痕跡も見つからなかった。


 水の国内では、異常が確認された追加生産分の配布を停止し、回収を始める。


 火、風、地の国には、同じ追加生産分が届いていないか、すでに服用した者に異変が出ていないか、至急確認するよう照会を送った。


 患者の治療と王都の調査は、中央院と水の国の者が継続する。


 レイオスたちにも、それぞれの国へ戻り、自国で同じ異変が起きていないかを直接確かめる役目ができた。


 あの男を捜さなければならない。


 だが、自国の人々にも同じ追加生産分が届き、すでに服用されているかもしれない。


 どちらかを捨てることはできなかった。


「明朝、発つ」


 レイオスが告げると、メルクリオとマルテは黙って頷いた。


 キースとユーフォルスは水の国に残る。


 セラ治療師は寝台の間を行き来しながら、患者の状態を書き留めていた。


 まるであの男のことなど忘れてしまったかのように、目の前の患者だけに意識を向けている。


 マルテは窓の外を見た。


 夜の大河には、何も浮かんでいない。


「マルテ、どうしたの?」


 足元から、ポルタニアが尋ねる。


「何でもない」


 今日、二度目の嘘だった。


 もう一度会えばいい。


 今度は正面から顔を見る。声を聞く。自分たちの動きをなぜ知っていたのか、逃げずに確かめる。

第一章はここまでです。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました!


続きも読みたいと思っていただけましたら、ブックマークや評価で応援していただけると、とても励みになります。

第二章も引き続き、毎日更新していきます。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。