第020話 拾われた先
最初に聞こえたのは、水の音だった。遠い。一定の間隔で、ぽたり、ぽたりと落ちている。
川ではない。
そう気づくまでに、ずいぶん時間がかかった。
ハミルは目を開けた。見知らぬ木の天井があった。梁は太く、ところどころ煤けている。窓から差し込む光は薄く、朝なのか夕方なのかも分からない。
少なくとも、王都の宿ではない。
そこまで考えたところで、身体の奥から鈍い痛みが押し寄せた。
「……っ」
息を吸うだけで、胸の奥が軋む。右腕を動かそうとして、やめた。動かないわけではない。ただ、指先までひどく重かった。
皮膚の下を冷たい泥が流れているような感覚がある。王都で引き受けた穢れが、まだ身体の奥に沈んでいる。
『起きたか』
イルの声がした。それだけで、張っていたものが少し緩んだ。
『……いるな。よかった』
『いる。だからお前は自分の心配をしろ』
『してるよ。今ちょうど、起き上がれるか試そうとしてたところだ』
『やめろ』
即答だった。
『いや、まだ何もしてないだろ』
『これからするつもりだろう』
よく分かっているな、とハミルは口元だけで笑った。笑えたなら、まだ大丈夫だ。たぶん。
左手を寝台へつき、ゆっくり上体を起こす。途端に視界が暗くなった。
「起きて早々、何やってんだ」
知らない声がした。
ハミルは反射的に顔を上げた。部屋の隅に、男がいた。椅子へ深く腰掛け、腕を組んでいる。
二十代の終わりか、三十前後。短い髪は黒に近い紺で、窓から差す光を受けたところだけ青く見えた。長身で、座っていても肩幅の広さが分かる。灰青の目が、呆れたようにこちらを見ていた。
いつからいた。目を覚ましてから、一度も気配に気づかなかった。
ハミルは無意識に右手を動かしかける。
「それ以上起きるなら、今度は縛るぞ」
「……病人にずいぶんな挨拶ですね」
「川で死にかけてた奴を拾って、濡れた服を脱がせて、二日寝かせた相手には十分優しい挨拶だ」
二日。
ハミルは瞬いた。
「え、俺、二日も寝てたんですか」
「正確には丸二日と半日くらいだな。だから大人しく寝てろ」
「あー……それは、ご迷惑を」
「本当にそう思うなら、まず横になれ」
「はい」
答えながら、ハミルは寝台へ背を戻さなかった。男の眉間に皺が寄る。
「いい返事だけはするな、お前」
「よく言われます」
『我も言っている』
『今くらい味方してくれてもいいだろ』
『断る』
ハミルは小さく息を吐き、改めて部屋を見回した。
広くはない。寝台と卓、椅子が二脚。壁際には薪と乾燥させた薬草らしい束が積まれ、窓辺には洗った布が干してある。飾り気はないが、雑然ともしていない。
卓の上に、自分の外套が畳まれていた。その横に短剣と荷物もある。取り上げられてはいない。
男はハミルの視線を追い、鼻を鳴らした。
「金も武器も取ってねえよ」
「いや、疑ってませんよ。ちゃんとあるんだなと思っただけです」
「短剣を見た目だったが」
「そう見えました?」
「見えた」
「……まあ、口は回るみたいなので安心しました」
「そこだけは丈夫そうだな」
男は呆れた顔をした。けれど、敵意はない。少なくとも今すぐ襲うつもりなら、二日半も寝かせておく理由は薄い。
それより気になることがあった。
「さっき、川で拾ったって言いましたよね。どの辺りですか」
「ここから半日ほど東へ行った支流だ。増水したあとで、岸の枝に引っかかってた」
王都からどれほど流されたのか、すぐには分からない。最後の記憶を探る。
大河へ飛び込んだ。水の中なら追手を撒けると思った。流れに乗り、王都から離れた。そこまでは覚えている。
その先が、ない。
身体の内側に溜まった穢れが重くなり、腕も脚も動かなくなって――。川から上がった記憶はなかった。
「俺、自分で岸には……上がってないですよね」
「上がってない。上がれる状態でもなかった」
男はあっさり言った。
「顔を半分水に突っ込んで引っかかってた。あと少し水が増えてたら、そのまま流されてたな」
「……なるほど。思ってたより危なかったな」
『浮かせてくれるんじゃなかったのか?』
『お前が想像より重かった』
『あー……それは悪かったな』
『あの状態で長く支え続けられると思うな。次は自力で泳げ』
思わず笑いそうになって、胸の痛みに響きそうなのでやめた。
あのとき、川へ飛ぶ以外に逃げ道はなかった。飛び込んだ直後にイルが流れへ乗せてくれなければ、追手を離す前に沈んでいたかもしれない。その後まで保たなかったのは、ハミル自身が先に意識を失ったせいでもある。
ハミルは男へ頭を下げる。
「助けてくださって、ありがとうございます」
「礼は元気になってからでいい」
「じゃあ、それまでは置いてもらえるんですか」
「そこまでは言ってねぇ」
「それは残念です」
「追い出すとも言ってねえよ」
「よかった」
男は大きく息を吐いて立ち上がった。思った以上に背が高い。こちらへ歩いてくると、ハミルは自然とその足運びへ目を向けた。
音が、薄い。
体格に似合わず、床板がほとんど鳴らない。
男は卓の水差しから杯へ水を注ぎ、差し出した。
「飲めるか」
「たぶん」
「たぶんで一気に飲むなよ」
「子どもじゃないですよ」
「川から拾われた奴が言う台詞じゃねえな」
反論できない。左手で杯を受け取り、少しずつ口をつける。
水は冷たかった。喉を通っただけで、自分がひどく乾いていたことに気づく。
「右はどうだ。動くのか」
「動きます。少し重いのと、たまに痺れるくらいで」
「少し、ねえ」
視線が右腕へ落ちる。袖の下には、まだ黒い紋様が残っているはずだ。濡れた服を脱がせたと言った。なら、見られている。
ハミルは杯を置いた。
「……あれを見ても、よく家に入れましたね」
「黒い紋様か」
「それもですけど、髪も、目も」
黒髪黒眼。王都で魔王と呼ばれた直後なら、なおさら人目を避けるべき姿だ。ここがどこの国かは分からないが、漆黒を好まないのは大きく変わらないだろう。
男は少し黙った。
「見慣れてる」
「漆黒を?」
「それより面倒なものをな」
曖昧な答えだった。けれど、その灰青の目はハミルの髪ではなく、もっと別のものを見ているようだった。
胸の奥が、わずかにざわつく。イルも黙っている。さっきから妙に静かだ。
『イル? どうした』
返事がない。
『……何か知ってるのか』
『ハミル。気をつけろ』
ようやく返った声は、いつもより低かった。答えになっていない。けれど、それで十分だった。
男は空になった杯を受け取ると、卓へ戻した。そして、何でもないことのように言った。
「お前、人間じゃないだろ」
ハミルの指が止まる。否定する言葉は、すぐには出なかった。自分でも、今の自分が何なのか分からない。
「……それは、どういう意味ですか」
「そのままの意味だ。人間の匂いがする。精霊の気配もする。なのに、穢れまで抱えてる」
男の瞳が、ほんの少しだけ深い藍へ沈んだ。
見間違いではない。
空気が変わる。
床に落ちた男の影が、本人より一拍遅れて揺れた。
ハミルは息を止めた。
人間ではない。少なくとも、ただの人間ではない。
右手へ力を込める。まだまともに戦える身体ではない。それでも、何かあれば動くしかない。
「そんな身体で構えるな。寝台が壊れる」
「……え、心配するところ、そこですか」
「俺の寝台だからな」
男は肩をすくめた。その仕草に敵意はない。なのに、イルは黙ったままだった。
ハミルは胸の内へ問いかける。
『何者だと思う。人間ではないよな』
沈黙。
『……イル?』
そのとき、男の眉がぴくりと動いた。
ハミルには何も感じられなかった。ただ、男だけが何かを確かめるように、じっとこちらを見ている。
いや――こちらではない。
その灰青の瞳は、ハミルの奥にある何かを探るように細められていた。先ほどまでの呆れた色が消える。
懐かしさとも、怒りともつかないものが、一瞬だけ浮かんだ。
「やっぱり、いるんだな」
男が呟いた。ハミルの背筋に冷たいものが走る。
「何がです?」
男は答えなかった。代わりに、寝台のそばへ置いていた椅子を引き寄せ、どかりと座る。
それから、ハミルではなく。
確かに、ハミルの内側にいる何者かへ向かって言った。
「いつまで黙ってるつもりだ、イル」
第二章に入りました、引き続きよろしくお願いします!
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