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世界が彼を魔王と呼ぶまで  作者: ぶん吉
第二章

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第021話 魔王の影

「いつまで黙ってるつもりだ、イル」


 その名が、知らない男の口から落ちた。ハミルはしばらく何も言えなかった。


 胸の内側では、イルも黙っている。いつもなら、面倒そうでも何かしら返してくる。なのに今は、気配だけが妙に近かった。


「……本当に、知り合いなんですね」


 男は鼻で笑った。


「今さらそこからか」


「いや、本人が何も説明してくれないので」


『聞こえているぞ』


『なら説明してくれよ』


『面倒だ』


『あー……そう言うと思った』


「おい」


 男がハミルの顔を覗き込む。


「今、二人で話してるだろ」


「分かるんですか?」


「内容までは分からねえ。だが、そいつが動いたのは分かる」


 男はハミルではなく、その奥へ目を向けるようにして続けた。


「聞こえてるなら返事くらいしろ。十年ぶりだぞ」


 短い沈黙のあと、胸の内にあったイルの気配が、わずかに広がった。


『……相変わらず、うるさいな。レグル』


 声は、いつもと少し違って聞こえた。ハミルへ向けるときより、外へ開いている。


 次の瞬間、男――レグルの灰青の目が細くなった。


「やっと喋ったか。黙ってりゃ俺が諦めるとでも思ったか?」


『少しは期待した』


「諦めるわけねえだろ。昔からお前はそうやって――いや、今はいい」


 レグルは途中で言葉を切り、額を押さえた。あまりにも自然な応酬だった。ハミルだけが、少し置いていかれる。


「あの……すみません」


「何だ」


「感動の再会なら、もう少しそれらしい空気になるものかと思ってました」


 レグルが眉を寄せる。


『何を期待している』


「いや、俺も別に泣いて抱き合えとは言ってないよ」


「抱き合える身体がそいつにあるなら、まず殴ってる」


『なぜだ』


 レグルが数秒黙った。


「……心当たりがねえなら、余計に殴る」


 今度はイルが黙った。ハミルは思わず口元を緩めた。


 知らない。自分の知らないイルだ。


 長い時間を共にしてきたつもりだった。それでも、イルが誰かとこんなふうに言葉を交わすところを、ハミルは初めて聞いた。少し不思議で、少しだけ嬉しかった。


「それで」


 ハミルは寝台の背へ身体を預け直した。


「レグルさん……でいいんですか」


「ああ」


「イルとは、どういう関係なんです?」


 レグルが答えるより先に、イルが言った。


『長いだけだ』


「お前な。そうやって年月だけで雑に片づけるの、昔から変わってねえぞ」


「昔からなんですね」


「昔からだ」


『余計なことを言うな』


 ハミルは笑った。胸が痛んで、すぐに顔をしかめる。レグルの視線が即座にそちらへ落ちた。


「ほら。痛むなら笑うな、治ってからにしろ」


「笑うくらいは許してくださいよ。……まあ、ちょっと響きましたけど」


「だったらなおさらだ」


 イルは何も言わない。ただ、胸の奥で同意するような気配だけがした。


「イルまでそっちにつくのか」


『何も言っていない』


「言わなくても分かるよ」


 レグルは椅子へ座り直し、腕を組む。


「で、どこまで覚えてる」


「何をです?」


「俺のことだよ」


 ハミルは眉を寄せた。


 初対面ではない。


 そう言われている。けれど、今の顔に見覚えはない。深い紺の髪も、灰青の目も。


「うーん……人の姿では、たぶん会ってないですよね」


「そりゃそうだろうな」


 レグルが立ち上がった。


 次の瞬間。


 足元の影が、音もなく広がった。床へ落ちていた輪郭がほどける。黒が靴先から這い上がり、脚を呑み、腰を呑み、肩まで覆った。


 人の形は残っている。けれど、それはもう人間の身体ではなかった。光の届かない場所を切り抜いて立たせたような、黒い影。輪郭だけが深い藍に揺れ、指先は煙のように崩れては戻る。


 そして、その姿を見た瞬間。


 十年前の記憶が、一気に繋がった。


 崩れた回廊。


 足元から伸びた無数の影。


 仲間の動きを縫い止め、死角から刃のように襲ってきた黒。


 レイオスの炎を纏った剣が核へ届くまで、何度も前へ立ちはだかった魔物。


「……あ」


 声が漏れた。


 レグルの輪郭が元へ戻る。人間の姿に戻った男は、片眉を上げた。


「思い出したか」


「魔王城の……」


 最後まで言わずともわかったらしい。


「ああ」


 ハミルは息を整える。驚きで頭が少し遅れている。


「あの時の魔物」


「そうだ」


 レグルはあっさり肯定した。


 ハミルの指先が、無意識に寝具を掴む。


 敵だった。間違いなく。イルの配下として、何度も戦った相手。


 そして――。


「……生きてたんですね」


 自分でも、妙な言葉だと思った。敵に向けるには。けれど、それ以外が出てこなかった。


 レグルは少しだけ目を見開いたあと、肩をすくめた。


「残念ながらな」


『その言い方をするな』


 レグルはイルの声を聞くなり眉を寄せた。


「……お前がそれ言うのか。いや、その辺は後でじっくり話す」


 イルが沈黙する。まただ。レグルの言葉にだけ、イルが妙に弱い。


 ハミルはそこへ口を挟みかけ、やめた。代わりに、もっと気になることを尋ねる。


「でも、どうして……」


 レグルを見る。


「あなたは今も魔物なんですよね。それなのに、普通に話して、家で暮らしてる」


「普通かどうかは議論の余地があるな」


「いや、そこは今いいです」


「よくねえだろ」


 ハミルは小さく息を吐いた。


「魔物は、穢れに呑まれた精霊だ」


 自分が知っていることを確かめるように言う。


「一度魔化したら元には戻らない。少なくとも俺たちは、そう思ってた」


 十年前までは、魔物を救う方法など知らなかった。核を壊し、浄化し、世界へ還す。それが救済だった。


 レグルはしばらく答えなかった。


「戻ったわけじゃねえよ。俺は今も魔物だ」


 灰青の瞳が、わずかに暗くなる。


「ただ、昔みたいに何もかも穢れに食われてるわけでもない」


 ハミルは黙って聞く。


「十年前、お前らに核を砕かれたからな」


 その一言で、記憶がまた戻る。


 レイオスの炎を纏った剣。砕けた核。メルクリオの風が追いつけなかった破片。崩れる回廊。何もかもが、あまりに混乱していた。


「……救済が、途中で止まった」


「そういうことだ」


 胸の奥が重くなる。自分たちが、救いきれなかった。なのに目の前の男は、生きている。それをどう受け取ればいいのか分からない。


「そんな顔すんな。十年前の話で勝手に責任背負われても困る」


「……顔に出てました?」


「分かりやすい」


『昔からだ』


「あー、二人して言うなよ」


 気づけば、レグルへの言葉から敬語が落ちていた。不思議と、言い直す気にはならなかった。レグルも気にした様子はなく、少しだけ口元を緩める。


「まあ、詳しい話は後だ。今のお前に長話させたら、途中で倒れる」


「もう寝台の上なんだけど」


「じゃあ気絶する」


「それは困るな」


「なら今日はここまでだ」


 ハミルは背を預けた。身体は正直だった。緊張が少し抜けただけで、急に瞼が重くなる。


 それでも、まだ一つだけ気になった。


「レグル」


「あ?」


「イルのこと、怖くないのか」


 問うと、部屋が少し静かになった。


 かつての魔王。自分を魔物にした側でもあるはずの存在。


 レグルは椅子の背へ身体を預ける。


「怖かった時期はある。……嫌いだった時期もな」


 意外なほど、素直な答えだった。イルは何も言わない。


「でも、それと今ここにいるそいつが同じかどうかは、俺が決める」


 灰青の瞳がハミルへ向く。正確には、その奥へ。


「だから、お前も勝手に全部背負うなよ、イル」


 しばらく沈黙があった。


『……うるさい』


「はいはい」


 その短いやり取りに、長い時間が滲んでいた。


 ハミルにはまだ、その全部は分からない。知らないイルがいる。知らない年月を、レグルも生きてきた。そして目の前には、魔物なのに人として暮らす男がいる。


 世界で当たり前だと思っていたものが、また一つ崩れた。けれど、不思議と嫌ではなかった。


「……あー、駄目だ。急に眠くなってきた」


「だから長話はやめろって言っただろ」


「はいはい。おやすみ」


「口だけは最後まで元気だな」


 イルは何も言わなかった。けれど、呆れたような気配が胸の奥で揺れた。


「二人とも覚えてろよ……」


 言い返したところで、もう瞼は開かなかった。


 意識が沈む直前、レグルの声が、少し遠くで聞こえた。


「お前、変わったな」


 誰に向けた言葉なのか。


 確かめる前に、眠りへ落ちた。

明日は、19時頃の更新です。

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