第021話 魔王の影
「いつまで黙ってるつもりだ、イル」
その名が、知らない男の口から落ちた。ハミルはしばらく何も言えなかった。
胸の内側では、イルも黙っている。いつもなら、面倒そうでも何かしら返してくる。なのに今は、気配だけが妙に近かった。
「……本当に、知り合いなんですね」
男は鼻で笑った。
「今さらそこからか」
「いや、本人が何も説明してくれないので」
『聞こえているぞ』
『なら説明してくれよ』
『面倒だ』
『あー……そう言うと思った』
「おい」
男がハミルの顔を覗き込む。
「今、二人で話してるだろ」
「分かるんですか?」
「内容までは分からねえ。だが、そいつが動いたのは分かる」
男はハミルではなく、その奥へ目を向けるようにして続けた。
「聞こえてるなら返事くらいしろ。十年ぶりだぞ」
短い沈黙のあと、胸の内にあったイルの気配が、わずかに広がった。
『……相変わらず、うるさいな。レグル』
声は、いつもと少し違って聞こえた。ハミルへ向けるときより、外へ開いている。
次の瞬間、男――レグルの灰青の目が細くなった。
「やっと喋ったか。黙ってりゃ俺が諦めるとでも思ったか?」
『少しは期待した』
「諦めるわけねえだろ。昔からお前はそうやって――いや、今はいい」
レグルは途中で言葉を切り、額を押さえた。あまりにも自然な応酬だった。ハミルだけが、少し置いていかれる。
「あの……すみません」
「何だ」
「感動の再会なら、もう少しそれらしい空気になるものかと思ってました」
レグルが眉を寄せる。
『何を期待している』
「いや、俺も別に泣いて抱き合えとは言ってないよ」
「抱き合える身体がそいつにあるなら、まず殴ってる」
『なぜだ』
レグルが数秒黙った。
「……心当たりがねえなら、余計に殴る」
今度はイルが黙った。ハミルは思わず口元を緩めた。
知らない。自分の知らないイルだ。
長い時間を共にしてきたつもりだった。それでも、イルが誰かとこんなふうに言葉を交わすところを、ハミルは初めて聞いた。少し不思議で、少しだけ嬉しかった。
「それで」
ハミルは寝台の背へ身体を預け直した。
「レグルさん……でいいんですか」
「ああ」
「イルとは、どういう関係なんです?」
レグルが答えるより先に、イルが言った。
『長いだけだ』
「お前な。そうやって年月だけで雑に片づけるの、昔から変わってねえぞ」
「昔からなんですね」
「昔からだ」
『余計なことを言うな』
ハミルは笑った。胸が痛んで、すぐに顔をしかめる。レグルの視線が即座にそちらへ落ちた。
「ほら。痛むなら笑うな、治ってからにしろ」
「笑うくらいは許してくださいよ。……まあ、ちょっと響きましたけど」
「だったらなおさらだ」
イルは何も言わない。ただ、胸の奥で同意するような気配だけがした。
「イルまでそっちにつくのか」
『何も言っていない』
「言わなくても分かるよ」
レグルは椅子へ座り直し、腕を組む。
「で、どこまで覚えてる」
「何をです?」
「俺のことだよ」
ハミルは眉を寄せた。
初対面ではない。
そう言われている。けれど、今の顔に見覚えはない。深い紺の髪も、灰青の目も。
「うーん……人の姿では、たぶん会ってないですよね」
「そりゃそうだろうな」
レグルが立ち上がった。
次の瞬間。
足元の影が、音もなく広がった。床へ落ちていた輪郭がほどける。黒が靴先から這い上がり、脚を呑み、腰を呑み、肩まで覆った。
人の形は残っている。けれど、それはもう人間の身体ではなかった。光の届かない場所を切り抜いて立たせたような、黒い影。輪郭だけが深い藍に揺れ、指先は煙のように崩れては戻る。
そして、その姿を見た瞬間。
十年前の記憶が、一気に繋がった。
崩れた回廊。
足元から伸びた無数の影。
仲間の動きを縫い止め、死角から刃のように襲ってきた黒。
レイオスの炎を纏った剣が核へ届くまで、何度も前へ立ちはだかった魔物。
「……あ」
声が漏れた。
レグルの輪郭が元へ戻る。人間の姿に戻った男は、片眉を上げた。
「思い出したか」
「魔王城の……」
最後まで言わずともわかったらしい。
「ああ」
ハミルは息を整える。驚きで頭が少し遅れている。
「あの時の魔物」
「そうだ」
レグルはあっさり肯定した。
ハミルの指先が、無意識に寝具を掴む。
敵だった。間違いなく。イルの配下として、何度も戦った相手。
そして――。
「……生きてたんですね」
自分でも、妙な言葉だと思った。敵に向けるには。けれど、それ以外が出てこなかった。
レグルは少しだけ目を見開いたあと、肩をすくめた。
「残念ながらな」
『その言い方をするな』
レグルはイルの声を聞くなり眉を寄せた。
「……お前がそれ言うのか。いや、その辺は後でじっくり話す」
イルが沈黙する。まただ。レグルの言葉にだけ、イルが妙に弱い。
ハミルはそこへ口を挟みかけ、やめた。代わりに、もっと気になることを尋ねる。
「でも、どうして……」
レグルを見る。
「あなたは今も魔物なんですよね。それなのに、普通に話して、家で暮らしてる」
「普通かどうかは議論の余地があるな」
「いや、そこは今いいです」
「よくねえだろ」
ハミルは小さく息を吐いた。
「魔物は、穢れに呑まれた精霊だ」
自分が知っていることを確かめるように言う。
「一度魔化したら元には戻らない。少なくとも俺たちは、そう思ってた」
十年前までは、魔物を救う方法など知らなかった。核を壊し、浄化し、世界へ還す。それが救済だった。
レグルはしばらく答えなかった。
「戻ったわけじゃねえよ。俺は今も魔物だ」
灰青の瞳が、わずかに暗くなる。
「ただ、昔みたいに何もかも穢れに食われてるわけでもない」
ハミルは黙って聞く。
「十年前、お前らに核を砕かれたからな」
その一言で、記憶がまた戻る。
レイオスの炎を纏った剣。砕けた核。メルクリオの風が追いつけなかった破片。崩れる回廊。何もかもが、あまりに混乱していた。
「……救済が、途中で止まった」
「そういうことだ」
胸の奥が重くなる。自分たちが、救いきれなかった。なのに目の前の男は、生きている。それをどう受け取ればいいのか分からない。
「そんな顔すんな。十年前の話で勝手に責任背負われても困る」
「……顔に出てました?」
「分かりやすい」
『昔からだ』
「あー、二人して言うなよ」
気づけば、レグルへの言葉から敬語が落ちていた。不思議と、言い直す気にはならなかった。レグルも気にした様子はなく、少しだけ口元を緩める。
「まあ、詳しい話は後だ。今のお前に長話させたら、途中で倒れる」
「もう寝台の上なんだけど」
「じゃあ気絶する」
「それは困るな」
「なら今日はここまでだ」
ハミルは背を預けた。身体は正直だった。緊張が少し抜けただけで、急に瞼が重くなる。
それでも、まだ一つだけ気になった。
「レグル」
「あ?」
「イルのこと、怖くないのか」
問うと、部屋が少し静かになった。
かつての魔王。自分を魔物にした側でもあるはずの存在。
レグルは椅子の背へ身体を預ける。
「怖かった時期はある。……嫌いだった時期もな」
意外なほど、素直な答えだった。イルは何も言わない。
「でも、それと今ここにいるそいつが同じかどうかは、俺が決める」
灰青の瞳がハミルへ向く。正確には、その奥へ。
「だから、お前も勝手に全部背負うなよ、イル」
しばらく沈黙があった。
『……うるさい』
「はいはい」
その短いやり取りに、長い時間が滲んでいた。
ハミルにはまだ、その全部は分からない。知らないイルがいる。知らない年月を、レグルも生きてきた。そして目の前には、魔物なのに人として暮らす男がいる。
世界で当たり前だと思っていたものが、また一つ崩れた。けれど、不思議と嫌ではなかった。
「……あー、駄目だ。急に眠くなってきた」
「だから長話はやめろって言っただろ」
「はいはい。おやすみ」
「口だけは最後まで元気だな」
イルは何も言わなかった。けれど、呆れたような気配が胸の奥で揺れた。
「二人とも覚えてろよ……」
言い返したところで、もう瞼は開かなかった。
意識が沈む直前、レグルの声が、少し遠くで聞こえた。
「お前、変わったな」
誰に向けた言葉なのか。
確かめる前に、眠りへ落ちた。
明日は、19時頃の更新です。
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