第022話 休むという仕事
次に目を覚ましたとき、部屋には腹の鳴る音が響いた。
自分のものだった。ハミルはしばらく天井を見たまま黙った。
『起きたか』
『……起きた。今のは聞かなかったことにしてくれ』
『我は何も言っていない』
『言ってないけど、絶対聞いてただろ』
窓から差し込む光は明るい。昨日より身体は軽い気がした。右腕を持ち上げれば、重さは残るものの指は素直に動く。胸の奥に沈んでいた冷たい泥のような感覚も、少し薄い。
これなら起きられる。
そう思って上体を起こしたところで、扉が開いた。
「戻れ」
間髪入れず声が飛んでくる。レグルが片手に湯気の立つ椀、もう片方に小さな籠を持って立っていた。
「え、まだ起きただけだよ」
「昨日それで目ぇ回してただろうが。今日は元気だとか言うなよ」
「……先に言われた」
「病人はだいたい同じこと言うんだよ」
胸の奥で、イルがわずかに同意する気配がした。
「またそっちか」
レグルが籠を卓へ置く。
「そっちも何も言ってねえで、こいつ止めろ」
『止めている』
「見えないところで止められても分かんねえよ」
『我には見えない』
レグルの手が止まった。
「……何が」
『ハミルの顔だ』
ハミルは思わず眉を上げた。イルが自分からそこを話すとは思わなかった。
「同化してから、イルは俺の中にはいるけど、俺を外から見てるわけじゃないんだ」
「あー、なるほどな」
レグルは一度ハミルを見て、それから鼻を鳴らした。
「じゃあ、なおさら俺が見張るしかねえ。自分の顔色も分からねえ奴が二人揃ってんだから」
「どうしてそうなるんだよ」
『反論はない』
「イル」
『事実だ』
今日も二対一らしい。ハミルは諦めて寝台の背へ寄りかかった。
レグルは椀を差し出す。柔らかく煮た穀物に、細かく刻んだ根菜と肉が少し入っている。空腹のせいもあるのだろうが、ひどく美味そうに見えた。
「これ、自分で作ったの?」
「他に誰がいる」
「いや、意外とちゃんとしてるなって」
「お前、助けてもらって二日目の相手に失礼だな」
「褒めてるんだけどなあ」
「褒め方を覚え直せ」
ひと匙すくって口へ運ぶ。熱い。けれど、腹に落ちた瞬間、身体の内側がようやく空腹を思い出したように鳴いた。
「……うまい」
「そうか。なら食え」
「そこはもう少し嬉しそうにしてもいいんじゃない?」
「食わせるために作ったんだから、食えりゃいい」
『昔からそうだ』
「お前は余計なこと言うな」
また昔から。その一言だけで、二人の間に自分の知らない時間があるのだと分かる。気になる。けれど今は、問い詰めるより粥を食べる方が先らしい。
半分ほど食べたところで、右腕が重くなった。気づかれないよう匙を持ち替える。
「右、寄越せ」
「……見てた?」
「見りゃ分かる」
逃げても面倒そうなので、右腕を差し出した。レグルが袖をまくる。
皮膚の上には、まだ黒い紋様が残っていた。沢の精霊を救った後にも似たものは出たが、今回は範囲が広い。手首から肘の上まで、墨を水に垂らしたような線が皮膚の下に浮いている。
「痛むか」
「触るだけなら平気。動かすと重いかな。あと、たまに痺れる。でも昨日よりはだいぶいいよ」
レグルは返事をせず、しばらく紋様を見た。灰青の瞳が少しだけ暗くなる。
「何か変?」
「変だらけだろ、お前。人間の身体に精霊の気配が混じって、そこへ穢れまで抱えてる」
「あー……それはまあ、そうなんだけど」
言い返せない。
「少なくとも今すぐどうこうなる感じじゃねえ。だからって動いていいわけじゃねえぞ」
「先回りするなよ」
「お前が分かりやすいんだよ」
レグルが袖を戻し、空になりかけた椀を指した。
「食え」
「はいはい」
「返事が軽い」
「じゃあ次からもう少し重くするよ」
「そういう意味じゃねえ」
レグルが眉間を押さえた。
粥を食べ終えるころには、思った以上に疲れていた。腹が満ちた安心感もあるのだろう。身体が急に重くなる。
レグルは空になった椀を受け取った。
「横になってろ。俺は薪割ってくる」
「少しくらい外見たいんだけど」
「窓から見ろ。立つなよ」
「分かったよ」
『休め』
「あー、二人とも厳しいなあ」
レグルが戸を閉める。しばらくして、外から乾いた音が響き始めた。
薪を割る音。一定の間隔で、ぱん、ぱん、と続く。
王都を離れてから、初めて聞く普通の生活の音だった。誰かが追ってくる足音でもない。鐘でもない。人が悲鳴を上げる声でもない。
ただ、薪を割っている。
それだけの音。
ハミルは目を閉じた。妙に、落ち着かなかった。
『眠れないのか』
『いや……こういうの、久しぶりだなと思って』
『何も起きていない時間か』
『うん』
イルはすぐには答えなかった。
王都へ行ってからは、ずっと何かを追っていた。その前も薬があり、沢があり、その前には長い時間がある。休むことはあった。けれど、何も考えず休めたかと言われると、よく分からない。
『落ち着かないか』
『……ちょっとだけ』
『面倒な性格だな』
『知ってるだろ』
『知っている』
その返事が妙に早くて、ハミルは小さく笑った。窓の外でまた薪が割れる。しばらくその音を聞いているうちに、意識が沈んだ。
*
次に目を覚ましたのは、昼を少し過ぎたころだった。今度は自然に起きた。身体も朝より軽い。
ハミルは寝台に腰掛けたまま、窓の外を眺める。緩やかな丘と林。その間を低い石垣が走り、家の脇には小さな畑と薪小屋がある。畑には根菜らしい葉が並び、その向こうでレグルが何かを束ねていた。
ここで暮らしている。十年前、自分たちと殺し合った魔物が、畑を作って、粥を炊いて、薪を割っている。
不思議な光景だった。けれど、もう朝ほど「魔物なのに」とは思わなかった。レグルはレグルとして、ハミルの知らない年月をここで生きてきたのだ。
しばらくして戻ってきたレグルは、まずハミルが寝台にいることを確認した。
「今日はちゃんと守ったな」
「その言い方、子ども扱いしてない?」
「川から拾われた奴には十分だろ」
「まだそれ使うのかよ」
「しばらく使う」
レグルは卓へ荷を置き、布と水を持ってくる。
「背中見せろ。傷を見る」
「もう塞がってるよ」
「自分じゃ見えねえだろ」
「……それはそう」
「なら任せろ」
正論だった。ハミルは渋々背を向ける。服を少し持ち上げると、冷たい布が傷の周囲へ触れた。
「うわ、冷たっ。先に言ってくれよ」
「言ったら避けるだろ」
「避けないって」
『昔から傷を隠す。避けるぞ』
「イル」
レグルの声が一段低くなる。
「……ほう。昔から、ねえ」
『旅の途中でも何度か――』
『イル、そこまで。昔話はもっと大事なところで使おう』
『何が大事だ』
『少なくとも今じゃない』
「聞こえてねえけど、何か隠そうとしてるのは分かるぞ」
「気のせいだよ」
「分かりやすいって昨日言っただろ」
布が傷口の近くを押す。
「痛っ」
「ここか」
「今のは不意打ちだから。……まあ、少しは痛む」
「最初からそう言え」
レグルはそれ以上責めず、傷を洗って新しい布を巻く。手際がいい。
「何だ」
「いや……ちゃんと暮らしてるんだなと思って」
レグルの手が一瞬止まる。
「何だ、その感想」
「え、失礼だった?」
「微妙なところだな」
「じゃあ半分だけ謝る」
「全部謝れ」
「ごめん」
「素直すぎるとそれはそれで気持ち悪いな」
「どうしろっていうんだよ」
レグルが小さく笑った。初めて、はっきり笑った気がした。それを見て、ハミルもつられて笑う。今度は胸もそれほど痛まなかった。
*
夕方。ハミルは結局、一日の大半を寝台で過ごした。退屈だった。けれど、身体は確実に楽になっている。
夕食のあと、レグルが窓を閉め、寝台脇の椅子へ腰を下ろした。
「明日も無理はすんな」
「今日ずっと休んだよ」
「だから少し良くなったんだろ」
「……それ言われると弱いな」
「休むのも仕事だと思え」
「仕事?」
「ああ。生きるためのな」
あまりに真っ直ぐ言われて、ハミルは一瞬黙った。レグルは気にした様子もなく腕を組む。
「動ける奴が動く。動けねえ奴は休む。今のお前は後者だ」
「……分かったよ」
「本当か?」
「そこまで信用ない?」
「実績がある」
イルは何も言わなかった。けれど、反論してくれる気配もない。
「はいはい」
ハミルは寝具を引き上げた。窓の外はもう暗い。
知らない家。十年前の敵だった魔物。姿の見えない、昔より少し人間臭くなった元魔王。
普通なら落ち着ける要素など一つもないはずだった。なのに、不思議と眠れそうだった。
「レグル」
「何だ」
「……ありがとう」
レグルは少しだけ眉を動かした。
「礼は元気になってからでいいって言っただろ」
「じゃあ前払いってことで」
「そういうのはいらねえ」
少し間を置いて、イルが言った。
『受け取っておけ』
「お前はどっちの味方なんだ」
『その時々だ』
「便利だな、それ」
ハミルは笑って目を閉じた。
今日一日、何も解決していない。薬のことも、水盤のことも、王都で自分がどう見られているのかも。レグルのことも、イルの昔のことも、分からないことばかりだ。
それでも。
今は休む。
それだけでいいらしい。
そんな一日があってもいいのだと、少しだけ思えた。
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