第023話 救えなかったもの
翌朝、ハミルはようやく寝台から出る許可をもらった。
「家の中だけだ。外仕事はまだなし」
「分かったよ」
素直に答えると、レグルが一度こちらを見た。
「……昨日よりは学習したらしいな」
「昨日一日でだいぶ言われたからね」
ハミルは苦笑しながら、卓の椅子へ腰を下ろした。
昨日より身体は軽い。右腕の痺れも、意識しなければ忘れる程度まで引いていた。立って歩いても息は上がらない。ただ、長く動けばまだ身体の芯が重くなる。
回復している。そう実感できるだけでも、ずいぶん気分が違った。
レグルは朝食の片づけをしている。木皿を重ね、水を張った桶へ入れた。その後ろ姿を、ハミルは何となく眺める。
十年前、同じ相手を見た記憶がある。けれど、あのとき目の前にいたのは、人の姿でもなければ、皿を洗うような存在でもなかった。
黒い影。刃のように伸びる腕。床も壁も関係なく這い回り、こちらの死角へ入り込む魔物。
何度斬っても輪郭が崩れるだけで、止まらなかった。レイオスの炎を纏った剣が核へ届くまで、何度足を取られたか分からない。
「……何だよ。さっきから見すぎだ」
レグルが振り返った。
「いや、昔と違うなと思って」
「そりゃ十年もありゃ変わる。……そういう意味じゃねえんだろうけどな」
「分かってるじゃん」
レグルは皿の水を切り、布で拭き始めた。少し迷ってから、ハミルは聞く。
「昨日の話、続きを聞いてもいい? 十年前、俺たちが救済しきれなかった後のこと」
手が止まった。レグルはしばらくハミルを見た。体調を測るような目だった。
「今なら途中で寝ねえか」
「たぶん大丈夫」
「たぶんかよ」
「絶対って言うと怒るだろ」
「そこは学習したか」
イルは口を挟まなかったが、胸の奥に妙な間があった。
「……イル、今なんか言いたそうだった?」
『別に』
「それ絶対あるやつだろ」
レグルが鼻で笑う。それから拭き終えた皿を棚へ戻し、向かいの椅子へ座った。
「で、どこまで覚えてる」
「レイオスが核を砕いて、メルクリオが破片を集めた。でも回廊が崩れ始めて、全部は拾えなかった。俺も浄化をかけたけど、途中で奥へ進むしかなくなった」
言葉にすると、あのときの感触まで戻ってくる。崩れ落ちる石。怒号と熱。視界を塞ぐ砂埃。集めきれない破片へ水を通しながら、頭上では回廊が沈んでいった。
あの場に留まれば、自分たちまで崩落に巻き込まれる。そのさらに奥には、まだイルがいた。地へ還すところまで辿り着けないまま、ハミルたちは奥へ進んだ。
「……あれで、死んだと思ってた」
「普通はそう思う。俺も最初はそう思った」
「自分で?」
「ああ」
その答えに、ハミルは眉を寄せる。レグルは卓へ肘をついた。
「次に意識が戻ったとき、身体なんてほとんどなかった。核は砕けてる。残った破片もばらばら。影だけが、あちこちに薄く残ってた」
ハミルは黙って聞く。
「目もねえ、耳もねえ、手も足もねえ。今みたいに考えられてたわけでもない」
「それでも、意識はあった?」
「意識って呼べるほど立派なもんじゃねえよ。腹が減ったとか、寒いとか、そういうのですらない。ただ――」
レグルは少し考えた。
「消えたくねえって感じだけは残ってた」
消えたくない。その言葉が、妙に胸へ残った。
「そこから、残った破片が少しずつ集まった。時間をかけてな」
「……そんなことができるのか」
「できたから俺がいる」
「いや、それはそうなんだけど」
『だからこそ、破片は一つ残らず集める必要がある』
イルの声が入る。知識として知っていた救済の意味が、急に生々しくなる。工程を一つ欠けば終わらない。その結果が、今、目の前に座っている。
「じゃあ、俺たちは……レグルを殺しきれなかったんじゃなくて」
ハミルは無意識に右手を握る。言い方を探す。
「救いきれなかった」
レグルが眉を上げた。
「まあ、そうなるな」
胸の奥が沈む。
あの頃は、救済が正しいと思っていた。今も、それ自体は間違いだとは思わない。魔物のまま放置すれば、周囲を傷つける。穢れに呑まれた精霊を、そのままにしておくことが救いになるとも思えない。
それでも。
途中まで壊して、途中まで浄化して、世界へ還せず置き去りにした。その結果が、目の前にいる。
「だから、そんな顔すんなって言ってんだろ」
レグルが言った。
「……また出てた?」
「出てる。分かりやすいんだよ、お前」
『気配でも分かる』
「あー……イルにまで分かるなら、相当か」
『お前が分かりやすいだけだ』
少しだけ空気が緩む。レグルは椅子の背へもたれた。
「お前らが失敗したのは事実だ。俺がそのせいで、ろくでもねえ状態で長いこと這いずったのもな」
「……うん」
「だが、勘違いすんなよ。俺は被害者じゃねえ」
ハミルは顔を上げる。
「魔王城でお前らを殺そうとしてたのは俺だ。あの回廊で何人仕留める気だったかなんて、今さら数える気もねえ。城に来る前だって同じだ」
淡々とした声音だった。
「魔物になってから、何もしてませんでしたなんて顔するつもりはない」
「……覚えてるのか」
「全部じゃねえ。でも、戻ってきた記憶はある。人を襲った。殺した。イルの敵だと思えば、ためらいもしなかった」
胸の内側で、イルの気配がわずかに沈んだ。レグルはそちらへ気づいたように目を細める。
「お前もだ、イル。そこで全部自分のせいみたいに黙り込むな」
『……余計な世話だ』
「そういうところは変わらねえな」
一瞬だけ空気が緩む。けれど、レグルはすぐにハミルへ視線を戻した。
「俺があいつのそばに残ったのも、最後まで離れなかったのも俺が決めた。魔化してからやったことまで、お前らが救済をしくじったせいにするな」
ハミルはしばらく黙った。
「……分かってるよ。俺たちも、お前を倒すつもりで戦った。そこを後悔してるわけじゃない」
十年前の影を思い出す。足を絡め取られた。喉元を裂くために伸びてきた黒い刃を、何度も水で逸らした。あれは脅しではなかった。本気で殺し合っていた。
「あの時のお前を放っておく選択肢なんてなかったと思ってる。でも、それと救済を途中で終わらせたことは別だろ」
ハミルは右手を握り直す。
「始めたなら、最後までやるべきだった。できなかった事情があったとしても、結果としてお前が長く苦しんだことまで、なかったことにはできないよ」
「だから全部背負うなって言ってんだ」
「全部じゃないよ」
ハミルは首を振った。
「お前がやったことはお前のもの。俺たちがやりきれなかったことは、俺たちのものだ」
レグルが少し目を見開いた。それから、呆れたように息を吐く。
「……面倒くせえ分け方するな」
「混ぜた方がもっと面倒だろ」
少し間があって、レグルが鼻で笑った。
「まあ、それなら好きにしろ」
その言葉に、ハミルは少しだけ肩の力を抜いた。けれど、まだ胸の奥に残るものはある。
「俺が生き残ったのは、お前らが救済しきれなかったからだ。最後までやれてたら、俺は世界へ還ってた」
「……そうだな」
レグルはそこで、ふっと口の端を上げた。
「だったら、失敗して正解だったかもな。お前、俺がいなかったら川底で死んでただろ」
ハミルは口を開きかけて、閉じた。
「……あー、それは否定しづらいな」
「十年前にお前が俺を救い損ねて、今度は俺がお前を拾った。帳尻合ってんじゃねえか」
「そんな雑な帳尻ある?」
「あることにしとけ。面倒だから」
「そこ面倒くさがるところじゃないだろ」
レグルが鼻で笑う。
そんな簡単な話ではない。そう思う。救済をやりきれなかった事実も、その後レグルが長く苦しんだことも、軽口一つで消えるわけではない。
けれど、当の本人がこう言うのなら、今ここで何度も謝るのも違う気がした。
「……じゃあ、借り一つ返したってことで」
「一つじゃ足りねえな。飯も寝床も出してる」
「急に細かいな」
「現実は細けえんだよ」
胸の奥で、イルの気配がわずかに揺れた。
「……イルも否定しないのかよ」
レグルが小さく笑った。その笑いが消えてから、ハミルはもう一つ聞く。
「戻っていったのは、身体だけ?」
「いや。最初は、本当に獣みたいなもんだった」
「魔化してた頃より?」
「比べ方が難しいな」
指先で卓を軽く叩く。
「あの頃は穢れに食われてた。それでも、魔物としての形はあった。命令も分かったし、殺す相手も分かった」
イルが黙る。レグルはそれに気づいているのか、いないのか。視線だけを少し落とした。
「核を砕かれた後は、そういうのすらなかった。考えも形も、全部ばらばらだ。そこから今みたいになるまで、何年もかかった」
何年。それ以上の具体的な数字は言わなかった。ハミルも聞かなかった。
「最初に戻ったのは、たぶん嫌悪だった」
「嫌悪?」
「ああ。何かが嫌だ、って感覚。光かもしれねえし、音かもしれねえ。自分かもしれねえ」
そこで一度言葉を切った。
「そのうち腹が立つようになった。面倒だと思うようになった。……誰かの声を懐かしいと思うようになった」
最後の一言だけ、少し静かだった。ハミルは胸の内側の気配を意識する。イルは何も言わない。
「それで、昔の記憶も少しずつ戻った?」
「ああ」
「イルのことも」
少し間があった。
「ああ」
短い返事。けれど、そこには簡単には触れられない何かがある気がした。
ハミルは追わなかった。それはきっと、今日聞く話ではない。
「水の浄化が途中まで入ってたのも、関係あると思う?」
ハミルが聞くと、レグルは少し考えた。
「あるんじゃねえか」
「じゃあ……俺がやったことにも、意味はあった?」
「何だ。そこ聞きたかったのか」
「いや、そういうわけじゃ……ないとも言い切れないけど」
レグルはしばらくハミルを見ていたが、今度は茶化さなかった。
「意味はあった」
はっきりと言った。
「全部じゃねえ。十分でもねえ。俺は今も魔物だし、元の精霊に戻ったわけでもない」
そこで、自分の胸へ手を置く。
「それでも、あのとき浄化された部分は残った。穢れが全部を埋めたままだったら、たぶん今の俺にはなってねえ」
ハミルは息を止める。
「……そうか」
胸の奥の重さが、少しだけ形を変えた。軽くなったわけではない。失敗は失敗だ。救済は未完だった。レグルが苦しんだ時間も消えない。
けれど、何もできなかったわけでもない。その両方が、同時に残る。
「納得したか」
「うーん……半分くらい」
「面倒くせえな」
「全部納得したって言ったら嘘になるだろ」
「そこは正直なんだな」
「成長したんだよ」
そこで初めてイルが口を挟んだ。
『昨日からか』
「もっと前からだよ」
『疑わしい』
「お前、最近俺に厳しくない?」
『昔からだ』
「それ言えば何でも通ると思ってるだろ」
レグルが噴き出した。
「お前ら本当に長い付き合いなんだな」
何気ない言葉だった。ハミルは一瞬だけ、返事に迷った。
「まあね」
それだけにする。正確な時間を説明するつもりはなかった。イルも何も言わない。
レグルは深く追及せず、椅子から立ち上がった。
「話は終わりだ。今日はここまでにしろ」
「え、まだ聞きたいことあるんだけど」
「一日一個」
「少なすぎるだろ。せめて二個」
少し間を置いて、イルが言った。
『二個ならよかろう』
ハミルは口元を上げた。
「ほら、イルも二個」
「お前、自分を票に入れて二対一とか言うなよ」
「……まだ言ってないのに」
「考えてることが分かりやすすぎるんだよ」
いつもの調子に戻りながら、レグルが棚へ手を伸ばす。
そのときだった。
袖が少しずれた。左手首。人の皮膚に擬態しているはずのそこへ、ほんの一瞬だけ黒い筋が浮かんだ。
影ではない。細く、脈打つような黒。
ハミルは目を止めた。すぐに消える。
「レグル。今、手――」
「何でもねえ」
早かった。返答が。
レグルは袖を下ろす。さっきまでとは違う、話を終わらせる声だった。
「今日はもう座ってろ。昼になったら飯にする」
「でも――」
「ハミル」
名前を呼ばれる。強くはない。けれど、踏み込むなという響きがあった。
ハミルは口を閉じる。代わりに胸の内へ問いかけた。
『イル。……今の、見えた?』
返事は、すぐには来なかった。
『見えた』
『何だと思う?』
長い沈黙。
『残っている』
それだけだった。
『……何が』
イルは答えなかった。
目の前では、レグルが何事もなかったように昼の支度を始めている。包丁の音。鍋へ水を入れる音。昨日と同じ、普通の生活の音。
けれど今は、その背中の向こうに別のものが見える気がした。
救済は、終わっていない。
十年前に途中で途切れたものが。
今もまだ、レグルの中に残っている。
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