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世界が彼を魔王と呼ぶまで  作者: ぶん吉
第二章

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第024話 残った穢れ

 その日の夕方、レグルは薪を取りに外へ出た。


「すぐ戻る」


「分かった。今日は大人しくしてるよ」


 ハミルが椅子へ座ったまま答えると、レグルは疑わしそうに一度だけ振り返った。


「……何だよ、その顔」


「いや。昨日よりは学習したらしいなと思って」


「俺だって毎回同じことはしないよ」


『どうだかな』


「イルまで疑うのか」


 レグルが鼻で笑い、戸を閉めた。


 静かになった室内で、ハミルは小さく息を吐く。手伝えることは、今はない。昨日ならそれだけで落ち着かなかったが、今日は少しくらい認めてもいい気がした。


 卓の上には、昼にレグルが切っていた乾燥果実が残っている。一つ摘まんで口へ入れると、強い酸味に顔をしかめた。


「うわ、酸っぱ」


『食う前に聞け』


「何を?」


『酸っぱいかどうかだ』


「そこまで慎重に生きたくないな」


『だから川で死にかける』


「いや、話が大きすぎない?」


 返事はなかった。たぶん、呆れている。最近は沈黙にも種類があると分かってきた。


 ハミルはもう一つ乾燥果実を取る。今度は覚悟して噛んだ。やっぱり酸っぱい。


 そうしているうちに、外から足音がした。


 早い。


 薪を取りに行ったにしては早すぎる。ハミルが顔を上げる。


 次の瞬間、戸が乱暴に開いた。


「レグル?」


 返事がない。片腕に薪を抱えている。けれど、それを床へ置く動きが妙に硬かった。いつものように乱雑なのではない。力を抜けないような動きだ。


「……どうした?」


「何でもねえ」


 短い。それだけで、朝からのレグルとは違うと分かった。


 ハミルは椅子から立つ。


「いや、何でもない顔じゃないけど」


「座ってろ」


「それ、今は俺に言ってる場合?」


 レグルの肩がわずかに揺れた。振り返らない。床へ置いた薪の一本が、ぱき、と音を立てて割れた。握ったまま折ったらしい。


 ハミルの表情が消える。


「レグル」


『来るぞ』


 イルの声が低くなった。何が、と聞くより先だった。


 レグルの足元から影が広がった。


 夕暮れの薄暗さとは違う。


 黒い。


 床へ落ちた影が、一瞬だけ水のように揺れる。その輪郭が鋭く伸び、椅子の脚へ絡みついた。


 ぎし、と木が鳴った。


「……悪い。離れろ」


 レグルが低く言う。その声には、いつもの苛立ちとは違うものが混じっていた。


 ハミルは動かなかった。影がもう一度揺れる。今度は壁まで伸びた。黒い筋が這い上がり、窓枠の端を削る。


 十年前の回廊が、頭の奥で重なった。床も壁も関係なく這う影。こちらの死角を狙い続ける刃。殺すためだけに動いていた黒い何か。


 けれど、目の前のレグルは違う。腕を押さえ、必死に動きを止めている。左手首には、朝見たものより濃い黒い筋が浮かんでいた。それが腕を這い、肘の方へ伸びている。


「これ、昨日の続きだろ。どのくらいある?」


「いいから離れろ、ハミル」


 初めて、名を強く呼ばれた。


 影が跳ねた。


 ハミルの頬を黒い刃が掠める。一筋、熱が走った。遅れて血が滲む。


 レグルの顔色が変わった。


「……だから言っただろ!」


 怒鳴り声と同時に、影が大きく膨らんだ。


 敵意。殺意。それだけではない。飢えにも似た衝動。何かを壊したい。目の前にいるものを全部敵だと思いたい。そんな濁った感情が、部屋いっぱいに広がる。


 ハミルの右腕の紋様が熱を持った。胸の奥でイルの気配も緊張する。


『近づくな。それ以上、引き受けるな』


 ハミルは反射的に一歩出かけて、止まった。右腕を見る。王都で引き受けた穢れは、まだ消えていない。身体もようやく歩けるようになったばかりだ。ここでまた抱えれば、どうなるか分からない。


『分かってる。俺も、今の身体で無茶できるとは思ってない』


 そう返しながら、レグルを見る。床に落ちた黒が、いくつもの細い腕のように蠢いていた。


 レグル自身は、その場から一歩も動いていない。むしろ歯を食いしばって、動かないように耐えている。額には薄く汗が滲んでいた。呼吸も浅い。いつもなら真っ先に悪態の一つでも返してくる男が、今は自分の腕を押さえるだけで精一杯らしい。


 ハミルは影ではなく、その顔を見ていた。苦痛に歪んだ表情も、そこに一瞬混じった、見られたくないものを見られているような苛立ちも。


 視線に気づいたレグルが、顔を背ける。


「……見るなよ」


「見ないと、何が起きてるか分からないだろ」


「そういう意味じゃねえ」


 吐き捨てる声が、いつもより少しだけ弱い。十年前なら、こんな顔をする相手だとは思わなかった。あの影の内側にも、ずっとレグルがいたのだろうか。


 考えている間に、黒い筋がさらに肘へ近づいた。


「これ、よくあるのか」


「……たまにだ。寝てりゃ収まる」


「今も、自分で収められそう?」


 返事がない。代わりに影が壁を抉った。レグルが息を詰める。その目から、ほんの一瞬だけ焦点が薄れた。


 ハミルの胸が冷える。


 待てば収まるかもしれない。けれど、今のまま待って、レグル自身が消えたら。


 右腕は熱い。余裕があるとは言えない。それでも王都のように大勢の穢れを一度に抱えるわけではない。全部を取る必要もない。今、表へ溢れてレグルの理性を押し流そうとしている分だけなら。


『イル。少しだけなら?』


『勧めぬ』


『できるかどうかを聞いてる』


 短い沈黙。


『できる。だが、今のお前にどこまで余地があるかは分からぬ』


 それなら、安全だとは言えない。ハミルは一度息を吐いた。それでも、目の前でレグルの影がまた膨らむ。


 今度は迷わなかった。


 一歩近づく。


「来るな!」


「全部は取らない。今、溢れてる分だけ」


 レグルが目を見開く。


「ふざけんな。これは俺のだ」


 その言葉に、昨日の会話が蘇る。


 お前がやったことはお前のもの。


 俺たちがやりきれなかったことは、俺たちのもの。


 自分でそう言った。


「分かってるよ。全部背負うつもりはない」


 ハミルは左手を伸ばす。


「今、お前が自分を見失いそうになってる分だけだよ」


「それを同じだって言ってんだ。待て、ハミル」


「少しだけ」


「お前の少しは信用ならねえんだよ!」


「あー……それは知ってる」


 左手が、レグルの手首を掴んだ。


 瞬間。


 黒が流れ込んだ。


「っ……」


 冷たい。王都で引き受けた穢れより、ずっと鋭い。人間の恐怖や絶望とは違う。長い間、魔物として存在したものの衝動そのものが混じっている。


 殺せ。


 奪え。


 壊せ。


 敵だ。


 全部敵だ。


 言葉ではなく、感覚が一気に頭へ流れ込む。


「離せ! ハミル、これは俺のだって言ってんだろ!」


 レグルが腕を引く。けれど、影が荒れたせいか力がうまく入らないらしい。


「分かってる……よ」


「なら離せ!」


 声が近い。その一方で、床を這っていた影は目に見えて勢いを失っていった。レグルの呼吸が少しずつ深くなる。腕を這っていた黒い筋も、肘の手前で止まった。


 代わりに。


 ハミルの視界の端が黒く滲む。右腕の紋様が、焼けるように熱い。


 手を離したくなる。同時に、もっと引けばレグルは楽になるという感覚があった。


 あと少し。


 もう少し引けば、影は完全に静まる。


『ハミル。手を離せ』


『まだ少し――』


「もういい!」


 レグルの声が重なった。さっきまで自分のことで精一杯だった顔が、今はまっすぐハミルを見ている。


「俺は戻った。もういいから、止めろ」


 床の影はまだわずかに揺れている。それでも、レグルの目から先ほどの濁りはほとんど消えていた。


『ハミル』


 低い声だった。


『離せ』


 二人に言われて、ようやくハミルは歯を食いしばり、手を離した。


 途端、足元が揺れた。


「ハミル!」


 今度はレグルが咄嗟に腕を伸ばした。崩れ落ちかけた身体を、そのまま胸元へ抱き止められる。


「……止めた」


「遅えよ! 止めりゃ何でも褒めてもらえると思うな!」


「いや、そこは少しくらい褒めても――」


「黙れ!」


 怒鳴る声に、さっきまでの濁りはもうなかった。床を覆っていた影も、ゆっくりとレグルの足元へ戻っていく。


 左手首の黒い筋は残っている。それでも、腕を這っていた濃さは薄くなっていた。


 効いた。


 少なくとも、今あふれていた分は引けた。


 レグルはハミルの肩を支えたまま、しばらく何も言わなかった。やがて顔を覗き込み、眉を寄せる。


「……お前、目」


「え、目?」


「ちょっと待て」


 レグルは卓の上にあった水差しを掴み、空の皿へ水を入れた。


「これ見ろ」


 ハミルは言われるまま、皿へ顔を近づける。揺れる水面に、自分の顔が映った。


 頬に一筋の血。少し青い顔色。


 そして。


「……あ」


 右目の縁に、黒とは違う濁りがあった。もともと漆黒の瞳だから分かりにくい。けれど、白目の端から黒い細い筋が伸びている。血管のようで、血管ではない。右腕の紋様と同じものだ。


「これ、前から?」


「違う。さっき出た」


 ハミルは指先で目元へ触れようとして、止めた。触ってどうなるものでもない。


『ハミル』


 イルの声が低い。


「分かってる。入れた分に、浄化が追いついてない」


 レグルが眉を寄せる。


「……どういうことだ」


 ハミルは水面から目を上げた。


「穢れは、取った瞬間に消えるわけじゃない。俺の中へ引いて、しばらく抱える。その間に少しずつ薄くしていく」


『正確には、我も一部を受け持っている』


「そう。今はイルと二人でやってる」


 レグルの視線がハミルの右腕へ落ちた。


「……じゃあ、さっき俺から取った分も、今お前の中に残ってるのか」


「残ってる。すぐ消えるわけじゃないから」


「……お前、最初からそれ分かってやってたのか」


「うん」


 レグルの眉間に、さらに深い皺が刻まれた。


「それで、まだ身体が戻りきってねえのに俺のまで取ったのか」


「あー……」


「今考えたみたいな顔すんな」


「考えてはいたよ」


「その結果がこれなら余計悪い!」


 言い返せず、ハミルは水面の黒い筋へ目を落とした。


 仕組みは知っている。長い間、イルの穢れを少しずつ引き受け、浄化してきたのだから。


 分かっていなかったのは、今の自分の器がどれだけ抱えられるのかだった。人間だった頃とは違う。イルと同化した今は、何を基準に限界を測ればいいのかも分からない。


『王都で引き受けた分が、まだ残っている』


「分かってる」


『分かっていて追加した』


「……それも分かってる」


「全然反省してねえだろ、お前」


「してるよ。今まさに」


 レグルは大きく息を吐いた。


「で。これ以上やったらどうなる」


 ハミルは答えず、イルの気配を探る。けれど返ってきた声も、いつになく慎重だった。


『分からぬ』


「……だよな」


 レグルが二人のやり取りを待つ。ハミルは自分の胸元へ手を置いた。


「俺、もう普通の人間じゃないらしいし。精霊でもない。イルと同じでもない。だから限界を越えた時に何が起きるかは、俺たちにも分からない」


「分からねえなら、なおさら試すな」


「うん」


「返事が軽い」


「ちゃんと分かってるって」


「信用ならねえ」


『我も同意する』


「二対一はずるくない?」


「誰のために二人がかりになってると思ってんだ」


 怒鳴られて、ハミルは少しだけ笑った。レグルの眉間に皺が増える。


「笑うとこじゃねえ」


「ごめん。いや、ちゃんと怒ってるなと思って」


「誰のせいだ!」


「……俺だな」


「分かってんなら反省しろ!」


 影はもう暴れていなかった。それを確認して、ハミルは椅子へ座り直す。足に少し力が入りづらい。レグルがそれを見逃さず、向かいの椅子を引いた。


「今日はもう休め。夕飯は後で持ってく」


「……うん。さすがに今はそうする」


 レグルが一瞬だけ目を細めた。今度は疑うというより、本当に理解したかを確かめるような目だった。


 ハミルはその視線から逃げず、レグルの左手首を見る。黒い筋は、まだ残っていた。


「レグル。これ、また来る?」


 レグルは少し黙った。


「ああ。間隔は決まってねえ。数日で来ることもあるし、何か月も平気な時もある」


「今までは一人で? 外で来そうになったらどうしてたんだ」


「気配が来たら家に戻る。あとは寝てりゃ戻る」


 なるほど、とハミルは思う。だからさっき、薪を取りに出てすぐ戻ったのだ。ずっと、そうやって一人で処理してきた。


 全部引き受けられれば、もっと楽にできる。穢れを抜ききれば、沢の精霊のように、レグルだって本来の姿へ戻せるはずだ。


 けれど、今の身体では無理だ。さっき水面で見た黒い筋が、それをはっきり示している。


「……次に来たら、まずどうするか一緒に考えよう」


 レグルが眉を上げる。


「今すぐまた取るって言わねえんだな」


「言いたいけどね」


「言うな」


「分かってる。今日ので、今の俺がどこまで抱えられるのか分かってないって、よく分かったから」


 胸の奥でイルの気配が少し緩んだ。


『次は、我が止めろと言った時点で止めろ』


『それは約束する』


 返してから、ハミルは右目の端へ残る違和感を意識した。


 穢れを引き受ければ、その分だけ相手は元へ戻る。それはずっと知っている。


 知らないのは、自分がどこまで抱えられるのか。そして、その境を越えた時に何が起こるのか。


 今の自分は、人間でも、精霊でもない。だからこそ、その先を誰も知らない。


 レグルが寝台の方を顎で示す。


「ほら。休むんだろ」


「分かったよ」


 今度は言い訳せず、寝台へ向かう。途中で一度だけ振り返った。


 レグルは床に散った薪を拾っている。いつもの背中に戻っていた。けれど、その左手首には、まだ黒いものが残っている。そして自分の右目にも。


 助けられることと、どこまでも引き受けられることは、同じではない。


 その当たり前の境界だけが、今までより少し重く身体に残っていた。

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