第024話 残った穢れ
その日の夕方、レグルは薪を取りに外へ出た。
「すぐ戻る」
「分かった。今日は大人しくしてるよ」
ハミルが椅子へ座ったまま答えると、レグルは疑わしそうに一度だけ振り返った。
「……何だよ、その顔」
「いや。昨日よりは学習したらしいなと思って」
「俺だって毎回同じことはしないよ」
『どうだかな』
「イルまで疑うのか」
レグルが鼻で笑い、戸を閉めた。
静かになった室内で、ハミルは小さく息を吐く。手伝えることは、今はない。昨日ならそれだけで落ち着かなかったが、今日は少しくらい認めてもいい気がした。
卓の上には、昼にレグルが切っていた乾燥果実が残っている。一つ摘まんで口へ入れると、強い酸味に顔をしかめた。
「うわ、酸っぱ」
『食う前に聞け』
「何を?」
『酸っぱいかどうかだ』
「そこまで慎重に生きたくないな」
『だから川で死にかける』
「いや、話が大きすぎない?」
返事はなかった。たぶん、呆れている。最近は沈黙にも種類があると分かってきた。
ハミルはもう一つ乾燥果実を取る。今度は覚悟して噛んだ。やっぱり酸っぱい。
そうしているうちに、外から足音がした。
早い。
薪を取りに行ったにしては早すぎる。ハミルが顔を上げる。
次の瞬間、戸が乱暴に開いた。
「レグル?」
返事がない。片腕に薪を抱えている。けれど、それを床へ置く動きが妙に硬かった。いつものように乱雑なのではない。力を抜けないような動きだ。
「……どうした?」
「何でもねえ」
短い。それだけで、朝からのレグルとは違うと分かった。
ハミルは椅子から立つ。
「いや、何でもない顔じゃないけど」
「座ってろ」
「それ、今は俺に言ってる場合?」
レグルの肩がわずかに揺れた。振り返らない。床へ置いた薪の一本が、ぱき、と音を立てて割れた。握ったまま折ったらしい。
ハミルの表情が消える。
「レグル」
『来るぞ』
イルの声が低くなった。何が、と聞くより先だった。
レグルの足元から影が広がった。
夕暮れの薄暗さとは違う。
黒い。
床へ落ちた影が、一瞬だけ水のように揺れる。その輪郭が鋭く伸び、椅子の脚へ絡みついた。
ぎし、と木が鳴った。
「……悪い。離れろ」
レグルが低く言う。その声には、いつもの苛立ちとは違うものが混じっていた。
ハミルは動かなかった。影がもう一度揺れる。今度は壁まで伸びた。黒い筋が這い上がり、窓枠の端を削る。
十年前の回廊が、頭の奥で重なった。床も壁も関係なく這う影。こちらの死角を狙い続ける刃。殺すためだけに動いていた黒い何か。
けれど、目の前のレグルは違う。腕を押さえ、必死に動きを止めている。左手首には、朝見たものより濃い黒い筋が浮かんでいた。それが腕を這い、肘の方へ伸びている。
「これ、昨日の続きだろ。どのくらいある?」
「いいから離れろ、ハミル」
初めて、名を強く呼ばれた。
影が跳ねた。
ハミルの頬を黒い刃が掠める。一筋、熱が走った。遅れて血が滲む。
レグルの顔色が変わった。
「……だから言っただろ!」
怒鳴り声と同時に、影が大きく膨らんだ。
敵意。殺意。それだけではない。飢えにも似た衝動。何かを壊したい。目の前にいるものを全部敵だと思いたい。そんな濁った感情が、部屋いっぱいに広がる。
ハミルの右腕の紋様が熱を持った。胸の奥でイルの気配も緊張する。
『近づくな。それ以上、引き受けるな』
ハミルは反射的に一歩出かけて、止まった。右腕を見る。王都で引き受けた穢れは、まだ消えていない。身体もようやく歩けるようになったばかりだ。ここでまた抱えれば、どうなるか分からない。
『分かってる。俺も、今の身体で無茶できるとは思ってない』
そう返しながら、レグルを見る。床に落ちた黒が、いくつもの細い腕のように蠢いていた。
レグル自身は、その場から一歩も動いていない。むしろ歯を食いしばって、動かないように耐えている。額には薄く汗が滲んでいた。呼吸も浅い。いつもなら真っ先に悪態の一つでも返してくる男が、今は自分の腕を押さえるだけで精一杯らしい。
ハミルは影ではなく、その顔を見ていた。苦痛に歪んだ表情も、そこに一瞬混じった、見られたくないものを見られているような苛立ちも。
視線に気づいたレグルが、顔を背ける。
「……見るなよ」
「見ないと、何が起きてるか分からないだろ」
「そういう意味じゃねえ」
吐き捨てる声が、いつもより少しだけ弱い。十年前なら、こんな顔をする相手だとは思わなかった。あの影の内側にも、ずっとレグルがいたのだろうか。
考えている間に、黒い筋がさらに肘へ近づいた。
「これ、よくあるのか」
「……たまにだ。寝てりゃ収まる」
「今も、自分で収められそう?」
返事がない。代わりに影が壁を抉った。レグルが息を詰める。その目から、ほんの一瞬だけ焦点が薄れた。
ハミルの胸が冷える。
待てば収まるかもしれない。けれど、今のまま待って、レグル自身が消えたら。
右腕は熱い。余裕があるとは言えない。それでも王都のように大勢の穢れを一度に抱えるわけではない。全部を取る必要もない。今、表へ溢れてレグルの理性を押し流そうとしている分だけなら。
『イル。少しだけなら?』
『勧めぬ』
『できるかどうかを聞いてる』
短い沈黙。
『できる。だが、今のお前にどこまで余地があるかは分からぬ』
それなら、安全だとは言えない。ハミルは一度息を吐いた。それでも、目の前でレグルの影がまた膨らむ。
今度は迷わなかった。
一歩近づく。
「来るな!」
「全部は取らない。今、溢れてる分だけ」
レグルが目を見開く。
「ふざけんな。これは俺のだ」
その言葉に、昨日の会話が蘇る。
お前がやったことはお前のもの。
俺たちがやりきれなかったことは、俺たちのもの。
自分でそう言った。
「分かってるよ。全部背負うつもりはない」
ハミルは左手を伸ばす。
「今、お前が自分を見失いそうになってる分だけだよ」
「それを同じだって言ってんだ。待て、ハミル」
「少しだけ」
「お前の少しは信用ならねえんだよ!」
「あー……それは知ってる」
左手が、レグルの手首を掴んだ。
瞬間。
黒が流れ込んだ。
「っ……」
冷たい。王都で引き受けた穢れより、ずっと鋭い。人間の恐怖や絶望とは違う。長い間、魔物として存在したものの衝動そのものが混じっている。
殺せ。
奪え。
壊せ。
敵だ。
全部敵だ。
言葉ではなく、感覚が一気に頭へ流れ込む。
「離せ! ハミル、これは俺のだって言ってんだろ!」
レグルが腕を引く。けれど、影が荒れたせいか力がうまく入らないらしい。
「分かってる……よ」
「なら離せ!」
声が近い。その一方で、床を這っていた影は目に見えて勢いを失っていった。レグルの呼吸が少しずつ深くなる。腕を這っていた黒い筋も、肘の手前で止まった。
代わりに。
ハミルの視界の端が黒く滲む。右腕の紋様が、焼けるように熱い。
手を離したくなる。同時に、もっと引けばレグルは楽になるという感覚があった。
あと少し。
もう少し引けば、影は完全に静まる。
『ハミル。手を離せ』
『まだ少し――』
「もういい!」
レグルの声が重なった。さっきまで自分のことで精一杯だった顔が、今はまっすぐハミルを見ている。
「俺は戻った。もういいから、止めろ」
床の影はまだわずかに揺れている。それでも、レグルの目から先ほどの濁りはほとんど消えていた。
『ハミル』
低い声だった。
『離せ』
二人に言われて、ようやくハミルは歯を食いしばり、手を離した。
途端、足元が揺れた。
「ハミル!」
今度はレグルが咄嗟に腕を伸ばした。崩れ落ちかけた身体を、そのまま胸元へ抱き止められる。
「……止めた」
「遅えよ! 止めりゃ何でも褒めてもらえると思うな!」
「いや、そこは少しくらい褒めても――」
「黙れ!」
怒鳴る声に、さっきまでの濁りはもうなかった。床を覆っていた影も、ゆっくりとレグルの足元へ戻っていく。
左手首の黒い筋は残っている。それでも、腕を這っていた濃さは薄くなっていた。
効いた。
少なくとも、今あふれていた分は引けた。
レグルはハミルの肩を支えたまま、しばらく何も言わなかった。やがて顔を覗き込み、眉を寄せる。
「……お前、目」
「え、目?」
「ちょっと待て」
レグルは卓の上にあった水差しを掴み、空の皿へ水を入れた。
「これ見ろ」
ハミルは言われるまま、皿へ顔を近づける。揺れる水面に、自分の顔が映った。
頬に一筋の血。少し青い顔色。
そして。
「……あ」
右目の縁に、黒とは違う濁りがあった。もともと漆黒の瞳だから分かりにくい。けれど、白目の端から黒い細い筋が伸びている。血管のようで、血管ではない。右腕の紋様と同じものだ。
「これ、前から?」
「違う。さっき出た」
ハミルは指先で目元へ触れようとして、止めた。触ってどうなるものでもない。
『ハミル』
イルの声が低い。
「分かってる。入れた分に、浄化が追いついてない」
レグルが眉を寄せる。
「……どういうことだ」
ハミルは水面から目を上げた。
「穢れは、取った瞬間に消えるわけじゃない。俺の中へ引いて、しばらく抱える。その間に少しずつ薄くしていく」
『正確には、我も一部を受け持っている』
「そう。今はイルと二人でやってる」
レグルの視線がハミルの右腕へ落ちた。
「……じゃあ、さっき俺から取った分も、今お前の中に残ってるのか」
「残ってる。すぐ消えるわけじゃないから」
「……お前、最初からそれ分かってやってたのか」
「うん」
レグルの眉間に、さらに深い皺が刻まれた。
「それで、まだ身体が戻りきってねえのに俺のまで取ったのか」
「あー……」
「今考えたみたいな顔すんな」
「考えてはいたよ」
「その結果がこれなら余計悪い!」
言い返せず、ハミルは水面の黒い筋へ目を落とした。
仕組みは知っている。長い間、イルの穢れを少しずつ引き受け、浄化してきたのだから。
分かっていなかったのは、今の自分の器がどれだけ抱えられるのかだった。人間だった頃とは違う。イルと同化した今は、何を基準に限界を測ればいいのかも分からない。
『王都で引き受けた分が、まだ残っている』
「分かってる」
『分かっていて追加した』
「……それも分かってる」
「全然反省してねえだろ、お前」
「してるよ。今まさに」
レグルは大きく息を吐いた。
「で。これ以上やったらどうなる」
ハミルは答えず、イルの気配を探る。けれど返ってきた声も、いつになく慎重だった。
『分からぬ』
「……だよな」
レグルが二人のやり取りを待つ。ハミルは自分の胸元へ手を置いた。
「俺、もう普通の人間じゃないらしいし。精霊でもない。イルと同じでもない。だから限界を越えた時に何が起きるかは、俺たちにも分からない」
「分からねえなら、なおさら試すな」
「うん」
「返事が軽い」
「ちゃんと分かってるって」
「信用ならねえ」
『我も同意する』
「二対一はずるくない?」
「誰のために二人がかりになってると思ってんだ」
怒鳴られて、ハミルは少しだけ笑った。レグルの眉間に皺が増える。
「笑うとこじゃねえ」
「ごめん。いや、ちゃんと怒ってるなと思って」
「誰のせいだ!」
「……俺だな」
「分かってんなら反省しろ!」
影はもう暴れていなかった。それを確認して、ハミルは椅子へ座り直す。足に少し力が入りづらい。レグルがそれを見逃さず、向かいの椅子を引いた。
「今日はもう休め。夕飯は後で持ってく」
「……うん。さすがに今はそうする」
レグルが一瞬だけ目を細めた。今度は疑うというより、本当に理解したかを確かめるような目だった。
ハミルはその視線から逃げず、レグルの左手首を見る。黒い筋は、まだ残っていた。
「レグル。これ、また来る?」
レグルは少し黙った。
「ああ。間隔は決まってねえ。数日で来ることもあるし、何か月も平気な時もある」
「今までは一人で? 外で来そうになったらどうしてたんだ」
「気配が来たら家に戻る。あとは寝てりゃ戻る」
なるほど、とハミルは思う。だからさっき、薪を取りに出てすぐ戻ったのだ。ずっと、そうやって一人で処理してきた。
全部引き受けられれば、もっと楽にできる。穢れを抜ききれば、沢の精霊のように、レグルだって本来の姿へ戻せるはずだ。
けれど、今の身体では無理だ。さっき水面で見た黒い筋が、それをはっきり示している。
「……次に来たら、まずどうするか一緒に考えよう」
レグルが眉を上げる。
「今すぐまた取るって言わねえんだな」
「言いたいけどね」
「言うな」
「分かってる。今日ので、今の俺がどこまで抱えられるのか分かってないって、よく分かったから」
胸の奥でイルの気配が少し緩んだ。
『次は、我が止めろと言った時点で止めろ』
『それは約束する』
返してから、ハミルは右目の端へ残る違和感を意識した。
穢れを引き受ければ、その分だけ相手は元へ戻る。それはずっと知っている。
知らないのは、自分がどこまで抱えられるのか。そして、その境を越えた時に何が起こるのか。
今の自分は、人間でも、精霊でもない。だからこそ、その先を誰も知らない。
レグルが寝台の方を顎で示す。
「ほら。休むんだろ」
「分かったよ」
今度は言い訳せず、寝台へ向かう。途中で一度だけ振り返った。
レグルは床に散った薪を拾っている。いつもの背中に戻っていた。けれど、その左手首には、まだ黒いものが残っている。そして自分の右目にも。
助けられることと、どこまでも引き受けられることは、同じではない。
その当たり前の境界だけが、今までより少し重く身体に残っていた。
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