第025話 戻せるのに
翌朝、最初に気づいたのは右目だった。
痛い、というほどではない。ただ、目の奥へ細い熱が残っている。瞼を開けると、視界の端が少しだけ霞んだ。
「……あー」
声を出した途端、喉まで乾いていることに気づく。
『起きたか』
『起きた。あんまり良い感じじゃないな』
『見れば分かる』
『お前、俺の顔見えないだろ』
短い間。
『気配で分かる』
『便利だな、それ』
『お前が分かりやすいだけだ』
昨日も似たようなことを言われた気がする。
ハミルは寝台の上で、ゆっくり右手を開いた。指先が痺れている。握る。開く。動くことは動く。けれど、腕の内側に熱が籠もっているような重さがあった。
袖をまくる。黒い紋様は昨日より濃い。王都から逃げてきた直後ほど広がってはいない。それでも、手首から肘へ伸びる線の一部が、皮膚の下でじわじわ脈打っているように見えた。
『昨日、止めるのが遅かった』
『分かってるよ』
『本当に分かっている者は、もう少し早く止める』
『朝から厳しいな』
『朝だから言っている』
言い返そうとして、やめた。身体が重い。昨日より悪い。それは、認めるしかなかった。
寝台から起きようとしたところで、扉が開く。レグルが入ってきた。
「起きたか」
「うん」
「寝てろ」
「まだ何もしてないだろ」
「顔見りゃ分かる」
「今日それ二人目」
「何の話だ」
「こっちの話」
レグルは返事をせず、寝台の脇まで来た。いつもならまずハミルの腕や顔色を見る。けれど今日は、その前に少しだけ動きが止まった。ハミルも気づく。
「……レグル」
「あ?」
「何か、違うな」
レグルが眉を寄せる。
「何が」
「昨日より軽い」
「お前が?」
「違う。お前が」
そう言ってから、ハミルはもう一度確かめるように目を細めた。
姿が変わったわけではない。深い紺の髪も、灰青の目も同じだ。けれど、まとっている気配が少し薄い。重く沈んでいた何かが、一枚剥がれたような感覚がある。足元の影も静かだった。昨日までより輪郭が素直に本人へ沿っている。
レグルは黙ったまま、自分の左手を見た。袖を少しまくる。手首に残っていた黒い筋が、確かに薄くなっていた。
「……昨日の分か」
「たぶん」
レグルはしばらくそこを見ていた。嬉しそうにはしない。むしろ、顔が険しくなる。
「で、お前は悪くなってる」
「まあ、少し」
「少し?」
「昨日よりは重いかな」
「右目」
「あー……まだ残ってる」
「腕」
「痺れはある」
「熱」
「ちょっと」
「全部あるじゃねえか」
「まとめるとそうなるな」
「まとめなくてもそうだろ」
レグルが深く息を吐いた。それから額へ手を当てる。
「何でお前は、悪化した報告までそんな軽いんだ」
「重く言っても重さは減らないだろ」
「そういう問題じゃねえ」
『我もそう思う』
「イルまで乗るなよ」
返したところで、急に視界が揺れた。ほんの一瞬。けれどレグルには見えたらしい。肩を掴まれる。
「寝ろ」
「大丈夫だって」
「今ふらついただろ」
「ちょっとだけ」
「そのちょっとを信用しねえって昨日決めた」
押し戻されるまま、ハミルは寝台へ背を預けた。抵抗する気力もあまりなかった。その事実が、少し悔しい。
レグルは水を渡してくる。
「飲め」
「はいはい」
「返事」
「はい」
「最初からそうしろ」
水を飲む。冷たさが喉を通っても、身体の奥の熱までは引かない。
レグルは寝台脇の椅子へ座った。そして、左手首をもう一度見た。
「昨日の発作、寝てれば戻るって言ってたけど。いつもなら、あの後どうなるんだ?」
「ああ。あそこまで荒れた後は、普通ならしばらく残る」
「何が?」
「重さだ。影が自分のものじゃねえみたいになる。頭も鈍る」
「今日は?」
レグルは少し黙る。
「……ない」
ハミルは目を細めた。
「じゃあ、やっぱり昨日引いた分だけ――」
「そこで嬉しそうな顔すんな」
「いや、嬉しいだろ。ちゃんと効いたんだから」
「お前がこうなってなきゃな」
レグルの声が低くなる。ハミルは黙った。
効いた。それ自体は間違いない。レグルから引き受けた分だけ、レグルの穢れは減った。残る穢れを全部取れれば、もっと軽くなる。その先には、魔物になる前の、本来のレグルへ戻るところまである。方法は分かっている。
問題は、自分だ。
ハミルは右腕を見る。
「……今の俺じゃ、全部は無理だな」
口にすると、思っていたより重く響いた。レグルは何も言わない。
『そうだ』
イルだけが、静かに答えた。
ハミルは目を閉じる。王都で引き受けた分は、まだ内側に残っている。そこへ昨日、レグルの分を足した。イルと二人で抱えているとはいえ、浄化はすぐに終わらない。
昨日までは、限界が分からないという話だった。今朝はもう少しはっきりしている。少なくとも――この状態でさらに同じ量を重ねれば、まずい。それは理屈ではなく、身体が言っていた。
右目の熱。腕の痺れ。力の入らない指。立とうとしただけで揺れた視界。あとどれほどなら平気なのかは分からない。けれど、まだ入るから入れていい、とは思えなかった。
「ハミル」
レグルに呼ばれ、目を開ける。
「何」
「俺を戻そうとするな」
思わず眉を寄せた。
「いや、それは――」
「今は、だ」
言葉を重ねられる。
「戻れるなら戻りてえよ。魔物のままでいたいわけじゃねえ」
そこは、初めて聞く言葉だった。レグルは自分の左手を見たまま続ける。
「発作も、あの衝動も、なくなるならその方がいい。自分で自分を押さえ込むのだって、好きでやってるわけじゃねえ」
声は平坦だった。だからこそ、その言葉が重かった。
「でも、そのためにお前が潰れるなら要らねえ」
ハミルはしばらく何も言えなかった。
「……潰れるとは決まってないだろ」
「分からねえんだろ」
「それは、そうだけど」
「なら同じだ」
レグルが顔を上げる。灰青の目がまっすぐこちらを見る。
「昨日は止めろっつってんのに勝手にやった。次も同じことしたら、今度は本気で殴る」
「病人を?」
「元気になってからだ」
「あー、ちゃんとしてるな」
「感心するとこじゃねえ」
思わず笑う。けれど、すぐに右目の奥が熱を持ち、顔をしかめた。レグルの眉間に皺が増える。
「ほら見ろ」
「今のは笑っただけだよ」
「笑って痛む時点で駄目だろ」
『今日は黙って寝ていろ』
「二人して結論が早いな」
「遅いのはお前だ」
言い返せない。
少し沈黙が落ちた。窓の外で風が鳴る。昨日はその向こうで薪を割る音がしていた。今日はまだ静かだ。レグルがここにいるからだろう。
ハミルは天井を見上げた。レグルの手首に残る黒い筋は、昨日より薄い。自分のしたことが無意味ではなかった証拠が、そこにある。だからこそ、余計に悔しい。
『なあ、イル』
『何だ』
『王都の分、どれくらいかかると思う?』
『分からぬ。量が多い。焦って早まるものでもない』
『そうだよな』
すぐには次へ進めない。なら、自分の中にあるものを少しずつ薄くしていくしかない。
昨日、自分から「次はまず一緒に考える」と言った。イルにも、止めろと言われたら止めると約束した。約束した時は、まだどこかで次ならもう少し上手くやれると思っていたのかもしれない。
けれど、今朝の身体は違う答えを返している。目の前に、助けられる相手がいる。手段も分かっている。
なのに、今は手を伸ばしてはいけない。
ハミルはゆっくり息を吐いた。
「……今日は寝るよ」
レグルが一瞬、意外そうに目を瞬く。
「最初からそう言ってんだろ」
「うん。だから、今日はちゃんと聞く」
「今日は、な」
「そこ強調する?」
「する」
返事が早くて、ハミルは少しだけ笑った。今度は無理に起き上がろうとはしなかった。
しばらくして、ハミルがふと思い出したように口を開く。
「そういえばさ」
「今度は何だ」
「レグル、イルとは昔から知り合いなんだよな」
レグルの目が、わずかにイルの気配を探るように細くなった。
「ああ」
「今度、昔のイルのことも聞かせてよ」
『余計なことを聞くな』
「本人が嫌がると余計に気になるな」
「やめとけ。ろくな話ねえぞ」
『レグル』
「ほら、もう気になる」
ハミルが笑う。レグルは呆れたように息を吐いただけで、答えなかった。
救える力があることと、今すぐ救えることは同じではない。分かっていたはずのことを、自分のこととして認めるのは思ったより難しい。
戻せるのに、戻さない。
それが今できる一番ましな選択なのだと、ハミルはようやく受け入れた。
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