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世界が彼を魔王と呼ぶまで  作者: ぶん吉
第二章

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第026話 月の影

 ――今度、昔のイルのことも聞かせてよ。


 ハミルにそう言われたのを、レグルはふと思い出した。


 聞かせるつもりは、まだない。何から話せばいいのかも分からないし、あいつが知る必要のないことまである。


 ただ、「昔のイル」という言葉だけが妙に残った。


 昔のイルは、よく黙っていた。今も大して喋る方ではないが、あの頃はもっとひどかった。必要なことしか言わない。聞かれなければ答えない。自分のことになると、聞かれても答えない。


 レグルが最初に覚えたのは、そんな月の精霊の背中だった。


     *


 まだ自分に名もなかった頃、世界は明るすぎた。朝の光も、昼の空も、人間の灯りも、何もかもが眩しかった。


 自分は影だったからだ。光があれば生まれ、光が消えれば形を失う。ただそれだけのものだった。


 それがある夜、不意に自分の輪郭を持った。


 月が高かった。白い光が森を照らし、木々の根元へ長い影を落としていた。その中の一つから、レグルは這い出した。


 手があった。足があった。けれど使い方が分からなかった。立とうとして倒れた。また立とうとして、今度は顔から地面へ突っ込んだ。


「……何をしている」


 頭上から声が降ってきた。


 顔を上げる。白い光の中に、一人いた。長い髪。冷たいほど整った顔。夜そのものより静かな目。


 月の精霊、イルだった。


 もちろん、その時のレグルは名前も知らない。


「たつ」


 覚えたばかりの音を口にした。


「見れば分かる」


「できない」


「それも見れば分かる」


 ひどい奴だと思った。あとでそう言ったら、イルは「最初から口が悪かったのだな」と返した。どの口が言うのかと思う。


 結局、イルは手を差し出した。掴むと、驚くほど簡単に立てた。


「歩けるか」


「わからない」


「では歩け」


「わからない」


「やれば分かる」


 今思えば、教え方が雑すぎる。それでもイルは、レグルが転ぶたびに待った。先へ行かなかった。


 食べる必要がないこと。眠らなくても死なないこと。人間にはむやみに姿を見せない方がいいこと。川は上流から下流へ流れること。冬は寒いこと。火へ手を入れると熱いこと。


「それは先に言え」


「触るとは思わなかった」


「普通止めるだろ」


「普通を知らぬ者に普通と言われてもな」


 少しだけ口元を緩めたイルを見たのは、その時が最初だった気がする。笑った、というほどではない。けれど月明かりの下で、その僅かな変化は妙に綺麗だった。


 イルは笑わない。だから、たまに少しだけ表情が変わるとよく分かった。レグルはいつの間にか、その変化を探すようになった。


     *


「お前、また食ってねえだろ」


 ずっと後。人間の姿を取ることにも慣れた頃、レグルは卓上の皿を見て言った。


「我には不要だ」


「味は分かるんだろ。なら食え」


「なぜだ」


「俺が作ったからだよ」


 イルはしばらく皿を見ていた。それから一口だけ食べた。


「どうだ」


「塩が多い」


「不満だけは達者だな。それならもう二度と作らねえよ」


「それは困る」


「じゃあ最初に褒めろ」


「嘘をつけと?」


「そういうところだぞ、お前」


 いつの間にか、世話を焼く側は逆になっていた。


 イルは強かった。世界のどこへ行っても困ることなどほとんどない。だから自分のことには驚くほど無頓着だった。


 傷を負っても放っておく。人間に頼まれれば、面倒そうな顔をしながら手を貸す。精霊同士の揉め事に巻き込まれても、最後には両方を助けている。そして礼を言われると、さっさといなくなる。


「お前、本当は世話焼きだろ」


 そう言うと、イルは嫌そうな顔をした。


「お前ほどではない」


「俺がこうなったの誰のせいだと思ってんだ」


「我ではない」


「お前だよ」


 その頃には、レグルは自分が何から生まれたのか分かっていた。イルの月光。その光が長い年月落とし続けた影。イルが作ろうとして作ったわけではない。それでも、自分の始まりにイルがいる。


 親のようで、兄のようで。主と呼ぶには近すぎて、友と呼ぶには少しだけ特別すぎた。


 そんな関係だった。


     *


 最初の異変は、小さかった。イルが黙る時間が増えた。元からだろ、と言われればそうだったかもしれない。けれどレグルには分かった。


 同じ沈黙ではない。


 以前のイルは、静かなだけだった。その頃の沈黙には、重さがあった。


「何かあったか」


「何も」


「嘘つけ」


「嘘ではない」


「じゃあ何抱えてんだ」


「何も」


 同じやり取りを何度もした。


 やがて、イルの周りで精霊が怯えるようになった。人間の争いが増えた土地へ行ったあと。飢えた村を見たあと。死者の多い戦場を通ったあと。


 イルは少しずつ変わった。顔から色がなくなった。声が冷たくなった。昔なら見捨てなかったものを、見ても動かなくなった。それでも本人は何も言わない。


 ある夜、レグルはイルの手首を掴んだ。


「見せろ」


「離せ」


「嫌だ」


「レグル」


「見せろって言ってんだよ」


 袖を引いた。白かった腕に、黒い筋が走っていた。


 レグルは息を止めた。


「……何だ、これ」


 イルは答えなかった。


「いつからだ」


「離せ」


「いつからだ!」


 初めて、声を荒げた。


 イルは長く黙ったあと、ひどく疲れた声で言った。


「大したものではない」


 その言葉を、レグルは今でも許していない。


     *


 大したものではなかったはずの黒は、やがて全身へ広がった。


 イルは怒るようになった。


 壊すようになった。


 殺すようになった。


 昔なら手を差し伸べた相手を、冷たい目で見下ろした。助けを求める声を煩わしそうに消した。レグルが止めれば、睨まれた。


「失せろ」


 初めてそう言われた夜を覚えている。地面には血が流れていた。人間も。精霊も。


 もう、レグルの知っていたイルではなかった。


「嫌だね」


「我はお前を必要としていない」


「知るか」


「次は殺す」


「やれるもんならやってみろ」


 怖くなかったわけではない。目の前にいるのは、世界中が魔王と呼び始めた存在だった。レグルより遥かに強い。本気で殺されれば、抵抗できたかも分からない。


 それでも離れなかった。


 昔のイルを知っていたから、ではない。戻ると信じていたからでもない。


 ただ――そこで離れたら、イルが本当に一人になると思った。


 それが嫌だった。


 選んだのは自分だ。命令されたわけではない。縛られたわけでもない。だから、イルが後になって何度自分を責めても、その部分だけは譲る気がなかった。


 やがてレグル自身にも黒が入り込んだ。


 怒り。


 殺意。


 壊したいという衝動。


 それに呑まれた。


 魔物になった。


 イルの隣で、多くを傷つけた。取り返せないこともした。


 そして十年前、勇者たちが来た。


 炎を纏った剣が核へ届き。


 風が砕けた破片を追い。


 水が、黒く染まった自分の奥へ触れた。


 そこで記憶は一度途切れる。


     *


 レグルは目を開けた。薄暗い部屋。窓の外には夜。今の月が見える。


 あの頃と同じ月だ。


「起きてたのか」


 戸口から声がした。ハミルだった。片手に水差しを持っている。


「お前こそ寝てろ。まだ本調子じゃねえだろ」


「もうだいぶ平気だよ。水取りに来ただけ」


「やってやる」


「自分でできるって」


「知ってる。やらせろ」


「はいはい」


 素直に水差しを渡す。数日前なら絶対に一言返していただろうに、少しは学習したらしい。


 レグルは水を汲む。その間、ハミルが窓の外を見た。


「月、綺麗だな」


 何気ない一言だった。レグルの手が止まる。


 ハミルは気づかず続けた。


「イルって、昔もあんまり喋らなかった?」


 胸の奥で、何かが僅かに揺れた。レグルには分かる。ハミルの中で、イルの意識が動いた。


「喋らねえ」


「やっぱり」


「今より愛想も悪かった」


『余計なことを言うな』


 イルの声が、レグルにも開かれる。昔より少し低く。昔よりずっと、人間臭い声だった。


 レグルは笑った。


「それだけ覚えとけ」


「それだけ?」


「今日はな」


『それでよい』


「二人して隠すと余計に気になるんだけど」


 ハミルが笑う。レグルは答えず、水差しを押し返した。


 さっきまで思い出していたことを、今ここで話すつもりはなかった。


 昔のイルは戻らない。起きたことも消えない。自分たちがしたことも。


 それでも、今の声には、あの頃の月の精霊が確かに残っている。


 なら、それでいいとは思わない。


 けれど。


 少なくとも、あのとき離れなかったことを後悔はしていなかった。


 今になって初めて、そう思えた。

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