幕間 順番が違う
王都の中央救済院では、事件から三日が経っても廊下の灯りが消えなかった。
重症者は減った。人の姿へ戻った者たちも、ほとんどが自分で歩けるようになっている。それでも帰宅を許された者は少ない。
人が魔物になった。
そんな前例のない出来事を、熱が下がったから終わりにしていいはずがなかった。
「セラ治療師」
記録官に呼ばれ、セラは卓上の紙から顔を上げた。
「追加分、揃いました」
差し出された束を受け取る。
患者名。服用した薬。追加生産分かどうか。最初に異常を訴えた時刻。姿が変わり始めた時刻。
そして――広場で漆黒の男が目撃された時刻。
セラは紙を横へ並べた。
「……やっぱり」
「何か?」
「この人」
指先で一行を示す。水盤から二本東の路地にいた女性だった。鐘が鳴った直後に胸の痛みを訴え、通行人の証言では、その時点ですでに腕へ黒い筋が浮かんでいる。
次は、市場の荷運び人。鐘のあとすぐに倒れ、肩の形が崩れ始めた。
その次は、救済所の前にいた老人。同じだ。
「漆黒の男が広場へ出たと確認できるより前です」
記録官の顔が強張った。
「ですが、目撃証言には幅があります」
「はい。だから一人だけなら根拠になりません」
セラは別の紙を重ねる。
「でも、最初の異変が確認された場所が複数あります。全部、あの人が現れたとされる時刻より前です」
世間では、もう話が出来上がっている。新しい魔王が王都へ現れた。魔王が人々を魔物へ変えた。勇者たちに追われ、逃げた。
分かりやすい。恐ろしい出来事には、恐ろしい原因が一つあった方が納得しやすい。
けれど、記録はそれを許さなかった。
「順番が違う……」
セラは小さく呟いた。
「魔王が現れたから、人が魔物になったんじゃない」
少なくとも、記録どおりなら。人々の異変が先に始まっている。そのあとで、あの男が現れた。
記録官が声を落とす。
「では、あの男は」
「分かりません」
セラはすぐに答えた。分からないものを、信じたい形へ曲げたくなかった。
「あの人が何者なのかは、まだ分かりません。でも――」
脳裏に浮かぶ。黒髪。黒い瞳。思っていたよりずっと若い顔。そして南の町で、自分の腕を掴んだ手。薬へ伸びていた、自分自身でも止められなかった手を。
あのとき彼は、自分を傷つけなかった。南門でもそうだった。人々の間を走っていた。逃げるためではなく、倒れた者へ向かって。
「事件を起こした人ではなく、事件が起きた場所にいた人だった可能性はあります」
*
午後、セラは水盤の調査へ立ち会った。
広場中央の石造りの水盤は、表面だけ見れば事件前と変わらない。水は止められている。底に残った薄い水へ空が映り、作業員たちの姿を揺らしていた。
「ここです」
呼ばれて、水盤の外周へ回る。石板が一枚だけ外されていた。その奥に、本来なら水路を分けるための陶管が何本か走っている。
セラには、それ以上の違いは分からなかった。
「何が変なんですか」
王都水路局の老職人が、奥へ手を入れた。
「これだ」
取り出したのは、掌に乗るほどの薄い金具だった。黒ずんでいる。表面には細い溝が刻まれ、その溝へ灰色のものがこびりついていた。
「水路の部品では?」
「違う。少なくとも、俺がここを直した時にはなかった」
「いつですか」
「去年の冬だ。この水盤は古いが、中は何度も替えてる。こんなもんを入れる理由はない」
セラは金具を見つめる。
「外から落ちた可能性は?」
「この位置に?」
職人が外された石板を指した。外側からは見えない。水盤の内側から流れ込んだとしても、陶管の分岐を越えてここへ挟まる形にはならないという。
「誰かが入れたってこと?」
背後からキースの声がした。振り返る。
少年は昨日より疲れた顔をしていた。それでも、目だけは真っ直ぐ水盤へ向いている。
「断定はできません」
セラは言った。
「ただ、自然に入り込んだとは考えにくいそうです」
キースがしゃがみ込む。
「灰色だ」
金具の溝を見て言った。セラも気づいていた。薬から分離した、あの異物とよく似た色。だが、似ているだけでは同じものとは言えない。
「触らないでください」
「触らないよ」
「前にそう言って触った人がいたので」
「僕じゃないよね?」
「誰とは言ってません」
キースが少しだけ口を尖らせた。ほんの一瞬、その年齢らしい顔になる。すぐにまた水盤へ視線を戻した。
「これ、総監にも?」
「報告します。薬の異物との比較も依頼します」
「うん」
返事をしたあと、キースはしばらく黙っていた。
「セラさん」
「はい」
「あの人、本当に魔王だったと思う?」
問いは静かだった。セラはすぐには答えなかった。自分だって、答えを持っていない。
「黒髪黒眼でした」
「うん」
「普通ではないものを見ていました。普通ではないこともしていたと思います」
「うん」
「でも、それと魔王であることは、同じではありません」
キースが顔を上げた。
「私は、あの人に助けられました」
南の町で。そしておそらく、王都でも多くの人が。
「だから信じる、とは言いません。助けてくれた人が善人だとも限りませんから」
「厳しいなあ」
「治療師なので」
「関係ある?」
「あります」
即答すると、キースが小さく笑った。その笑みもすぐに消える。
「じゃあ、調べるしかないね」
「はい」
*
救済院へ戻ると、セラを待っていたのは総監ではなかった。
「王宮から使いが来ています」
受付の職員が、いつもより少しだけ声を潜める。
「私に?」
「はい。……殿下がお呼びです」
聞き返しそうになって、やめた。王都であれだけのことが起きたのだ。王家が報告を求めること自体は不思議ではない。ただ、一介の治療師を王太子本人が呼ぶ理由までは思いつかなかった。
通されたのは王宮の奥ではなく、救済院からほど近い行政棟の一室だった。扉の前には護衛が二人いたが、中にいた青年は拍子抜けするほど普通の顔で書類を読んでいた。
十年前の勇者たちと同じ世代だったはずだと、セラは記憶を探る。
立ち上がった青年に礼を取ると、すぐに制された。
「急に呼んですまない。長く拘束するつもりはない」
「いえ」
「水盤を調べているそうだね」
やはり、その話だった。
セラは今日見つかった金具と、付着していた灰色の異物について簡潔に説明した。王太子は途中で口を挟まなかった。
「その部品は、いつから入っていたか分かる?」
「まだ分かりません。水路局の職人は、去年の冬に修繕した時にはなかったと証言しています」
「設置記録は」
「水路局の通常記録にはありません」
「通常記録には、か」
妙なところで言葉を拾われた。セラが顔を上げると、王太子は書類へ目を落としたままだった。
「王宮には、一般の行政記録とは別に保管されている古い水路図と改修記録がある。水盤は王都の古い設備だからね」
「閲覧できるんですか?」
「できるようにする」
即答だった。
「必要なら水路局の過去の入構記録も出させよう。君たちが調べている薬の件と合わせて確認してほしい」
ありがたい。ありがたいが、少しだけ引っかかった。
「殿下は、何かご存じなのですか」
護衛の気配がわずかに硬くなった。王太子は怒らなかった。むしろ、少し困ったように笑った。
「知っていたら、君を呼んで聞いてはいないよ」
それから、机の端に置かれた別の報告書へ指を置く。
「ただ、知らないことがあるのは分かっている」
「……どういう意味ですか」
「今は、それ以上は言えない」
答えになっていない。けれど、誤魔化しているというより、自分自身も答えを持っていない人間の言い方に聞こえた。
王太子が一枚、報告書をめくる。
「もう一つだけ。事件の日、広場に現れた黒髪黒眼の男について、君は以前にも会っているそうだね」
「はい」
「顔を見た?」
「見ました」
そこで初めて、王太子の指が止まった。
「……どれくらいの年齢に見えた?」
「私と同じくらいか、それより少し若く見えました。二十歳前後だと思います」
沈黙は、ほんの一瞬だった。
「そうか」
それだけ言って、王太子は紙を伏せた。けれどセラは、その一瞬を見逃さなかった。
「お知り合いに、似た方が?」
「いや」
今度は少し間があった。
「十年前に、同じくらいの年頃だった知人を思い出しただけだ」
十年前。その言葉に、セラの胸の奥で何かが引っかかった。だが、王太子はそれ以上話さなかった。
「記録の閲覧許可は明日までに出す。分かったことがあれば、総監への報告とは別にこちらにも一部を回してほしい」
「総監とは別に?」
「困る?」
「……理由を聞いても?」
「今は、王都で起きたことを一つの説明だけで終わらせたくない。それでは足りないかな」
セラは少し考えた。
「いいえ」
少なくとも、その考えには同意できた。
*
救済院へ戻る廊下で、セラは渡された閲覧許可証を見下ろした。
水盤の奥から取り出された金具。薬に混じっていた灰色の異物。異変が始まった時刻。漆黒の男が現れた時刻。そして、十年前という王太子の言葉。
まだ線にはならない。むしろ、分からないことが一つ増えた。
けれど、少なくとも一つだけ分かった。
王都で起きたことは、世間で語られているほど単純ではない。
セラは記録板と許可証を胸へ抱えた。あの男が今どこにいるのかは知らない。生きているのかも。また会うことがあるのかも。
それでも次に会ったなら、一つだけ聞きたいことがあった。
あなたは、あの日何を見ていたのか。
今度こそ、逃げずに答えを聞くために。
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