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世界が彼を魔王と呼ぶまで  作者: ぶん吉
第二章

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第027話 今の身体

「だから、まだ早いって言ってんだろ」


 朝から三度目だった。


「昨日も言われたけど、昨日よりは動けるよ」


「病人はみんなそう言う。最近一人面倒なのがいるから、よく分かる」


 庭へ出ようとしたハミルの肩を、レグルが片手で押し戻す。力そのものは強くないが、逃がす気もない。


 ハミルは諦めて椅子へ座った。


「じゃあ、いつならいいんだよ」


「昼。飯食ってからだ」


「三刻しか変わらないだろ」


『正しい』


『お前まで完全にレグル側になったな』


『最初から我はこちら側だ』


『どちら側だよ』


 返事はなかった。


 レグルが皿を置く。


「食え」


「はい」


 最近、返事だけは良くなった。その方が結局早いと学んだからだ。


     *


 昼過ぎ、ようやく許可が出た。


 家の裏手には、人の通らない開けた場所がある。低い草地の向こうに林が続き、そのさらに先で川の音がする。


 ハミルは肩を回した。右腕の痺れはほとんどない。黒い紋様も薄くなった。王都で抱えた穢れはまだ残っているが、数日前とは明らかに身体が軽い。


「本当に手合わせするのか」


「軽くな」


「お前の軽くは、この数日でだいぶ信用を失った」


「そのうち回復する?」


「態度次第だな」


「厳しいな」


 レグルは上着を脱ぎ、近くの枝へ掛けた。影が足元へ濃く落ちる。


「先に言っとく。力がおかしいと思ったら止める。無茶した時点でも終わりだ」


「分かった」


「今の返事は信用していいんだろうな」


「たぶん」


「帰れ」


「冗談だよ」


 レグルが深く息を吐いた。


 ハミルは少し笑ってから、腰を落とした。剣はない。昔なら、木剣でも一本持っただろう。今日は身体の確認が目的だ。


 レグルが先に動いた。


 速い。


 そう思った瞬間には、拳が目の前にあった。


 ハミルは半歩だけ横へずれる。風が頬を撫でた。


「……あれ」


「余所見すんな」


 次は脚。膝を上げる。


 受けるつもりで腕を出した。ぶつかる――はずだった。


 身体が勝手に先へ動いた。


 重心が滑るように移り、レグルの脚が空を切る。ハミル自身が一番驚いた。


「今の何だ」


「俺が聞きたい」


「ふざけてんのか」


「本当に」


 昔なら、避けきれなかった。見えてはいた。けれど身体が追いつかなかったはずだ。


 今は違う。考えるより早く動ける。


「もう一回」


「調子乗るなよ。確認だけだぞ」


 レグルが影へ沈む。足元から気配が消えた。


 次に来る場所を探す。以前なら視線と音を頼った。


 今は、それより先に分かる。


 右後ろ。


 影の中で力が動いた。


 ハミルは振り向く。現れたレグルと目が合った。


「何で分かった」


「……力が流れた。影が動く前に、こっちは集まる感じがした」


 口にしてから、ハミルはその感覚を探る。レグルの影が形を変える前、一方向へ何かが集まった。水が細い水路へ寄るように。魔力、と呼ぶのが近いのかもしれない。


『以前より見えている』


 イルが言う。


『見えるっていうか、感じる』


『同じことだ』


『雑だな』


 レグルが眉を寄せる。


「イルか?」


「うん。前より感じ取れてるんじゃないかって」


「前はどの程度だった」


「精霊の気配なら分かった。でも、こういう動く前の力までは……」


 レグルの視線が、少し楽しそうに変わる。


「じゃあ今のお前の身体ってことか。もう一回いくぞ」


「急に乗り気になったな」


「面白くなってきた。無茶しなきゃいい」


「さっきより基準が緩んでない?」


 今度は影が三方向へ伸びた。どれが本体か分からない。


 けれど、力の流れは同じではない。一つだけ濃い。


 ハミルはそちらへ身体を向ける。正解だった。


 レグルが影から飛び出す。腕を掴まれそうになり、ハミルは避けた。


 その瞬間、ふと別の感覚が浮かんだ。


 流れているなら。


 少しだけ、向きを変えられないか。


 穢れを引くときと同じように。


 ハミルは反射的に手を伸ばした。触れていない。それでも、レグルの腕へ集まっていた力へ意識を掛ける。


 こちらへ引くのではなく、少し外へ。


「――っ」


 レグルの拳が逸れた。わずかに、ハミルの耳の横を通り過ぎる。


 二人とも止まった。


「今、何した」


「……逸らした、のかな。俺も初めてだから聞かれても困る」


 レグルは自分の右腕を見る。


「力が抜けたわけじゃねえ。勝手に曲げられた感じでもない」


「たぶん、流れてた方向を少しずらした」


『穢れを引く時と似ている』


 イルの声が落ちる。ハミルも同じことを考えていた。


 対象の中にある穢れを、自分へ向ける。存在しているものの流れへ触れる。あれを、別の力に使った。


『じゃあ、新しい力が増えたわけじゃなくて、使い方が増えただけか』


『おそらくな』


 少し納得する。突然何かができるようになった感覚ではなかった。ずっと使っていた手の動かし方を、別の作業にも使えると気づいたようなものだ。


「もう一回やるぞ」


 レグルが言った。


「今度は本気で来る?」


「馬鹿。試すだけだ」


「だよな」


「お前、ちょっと残念そうにすんな」


「久しぶりなんだよ。戦うのが、じゃなくて、身体をちゃんと動かすのが」


 口にして、ハミル自身が少し驚いた。


 十年前。いや、自分にとってはもっと長い。あの魔王城以来、誰かとこうして対等に身体を動かした記憶はほとんどない。


 魔物を倒すためでもなく、誰かを守るためでも、生き延びるためでもない。ただ、試すための手合わせ。


 楽しいと思っている。そのことが、妙に嬉しかった。


「じゃあ来い」


 レグルが笑う。


 ハミルも構えた。


     *


「痛い」


「だから言っただろ」


「最後のあれ、地面から足取るのはずるくない?」


「影使うなとは言われてねえ。実戦で言ってみろ」


 家の前の段差へ並んで座る。


 結果から言えば、ハミルは最後に転ばされた。昔より身体は動く。力の流れも感じ取れる。わずかなら、その向きへ触れられる。それでも経験のない身体で、使い慣れたレグルに勝てるほど簡単ではない。


「でも、面白いな」


 ハミルが言う。


「俺、自分の身体のこと全然分かってなかったんだなって」


「今さら気づいたか」


「今さらだな」


 右手を開く。


 以前より強い。以前より速い。以前より、多くを感じる。


 けれど、疲れないわけではない。手合わせを終えた今は普通に息が上がっているし、腹も減った。


「精霊になったわけじゃない」


「人間でもねえけどな」


「そこなんだよな」


 レグルが立ち上がる。


「まあいいだろ。分かんねえなら、一個ずつ分かれば」


 何でもないように言った。


 ハミルはその背中を見る。たぶん、今の自分にはそれしかない。


 十年前の自分へ戻ることはできない。だから、今の身体を知る。今できることを知る。分からないことを、分からないままにせず一つずつ確かめる。


「レグル。明日もやろう」


「体調良かったらな」


「やっぱり厳しい」


「当然」


『我も見る』


『見えないだろ』


 しばらく沈黙したあと、イルが言った。


『感じる』


 思わず笑った。


 今度は右目も痛まなかった。

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