第027話 今の身体
「だから、まだ早いって言ってんだろ」
朝から三度目だった。
「昨日も言われたけど、昨日よりは動けるよ」
「病人はみんなそう言う。最近一人面倒なのがいるから、よく分かる」
庭へ出ようとしたハミルの肩を、レグルが片手で押し戻す。力そのものは強くないが、逃がす気もない。
ハミルは諦めて椅子へ座った。
「じゃあ、いつならいいんだよ」
「昼。飯食ってからだ」
「三刻しか変わらないだろ」
『正しい』
『お前まで完全にレグル側になったな』
『最初から我はこちら側だ』
『どちら側だよ』
返事はなかった。
レグルが皿を置く。
「食え」
「はい」
最近、返事だけは良くなった。その方が結局早いと学んだからだ。
*
昼過ぎ、ようやく許可が出た。
家の裏手には、人の通らない開けた場所がある。低い草地の向こうに林が続き、そのさらに先で川の音がする。
ハミルは肩を回した。右腕の痺れはほとんどない。黒い紋様も薄くなった。王都で抱えた穢れはまだ残っているが、数日前とは明らかに身体が軽い。
「本当に手合わせするのか」
「軽くな」
「お前の軽くは、この数日でだいぶ信用を失った」
「そのうち回復する?」
「態度次第だな」
「厳しいな」
レグルは上着を脱ぎ、近くの枝へ掛けた。影が足元へ濃く落ちる。
「先に言っとく。力がおかしいと思ったら止める。無茶した時点でも終わりだ」
「分かった」
「今の返事は信用していいんだろうな」
「たぶん」
「帰れ」
「冗談だよ」
レグルが深く息を吐いた。
ハミルは少し笑ってから、腰を落とした。剣はない。昔なら、木剣でも一本持っただろう。今日は身体の確認が目的だ。
レグルが先に動いた。
速い。
そう思った瞬間には、拳が目の前にあった。
ハミルは半歩だけ横へずれる。風が頬を撫でた。
「……あれ」
「余所見すんな」
次は脚。膝を上げる。
受けるつもりで腕を出した。ぶつかる――はずだった。
身体が勝手に先へ動いた。
重心が滑るように移り、レグルの脚が空を切る。ハミル自身が一番驚いた。
「今の何だ」
「俺が聞きたい」
「ふざけてんのか」
「本当に」
昔なら、避けきれなかった。見えてはいた。けれど身体が追いつかなかったはずだ。
今は違う。考えるより早く動ける。
「もう一回」
「調子乗るなよ。確認だけだぞ」
レグルが影へ沈む。足元から気配が消えた。
次に来る場所を探す。以前なら視線と音を頼った。
今は、それより先に分かる。
右後ろ。
影の中で力が動いた。
ハミルは振り向く。現れたレグルと目が合った。
「何で分かった」
「……力が流れた。影が動く前に、こっちは集まる感じがした」
口にしてから、ハミルはその感覚を探る。レグルの影が形を変える前、一方向へ何かが集まった。水が細い水路へ寄るように。魔力、と呼ぶのが近いのかもしれない。
『以前より見えている』
イルが言う。
『見えるっていうか、感じる』
『同じことだ』
『雑だな』
レグルが眉を寄せる。
「イルか?」
「うん。前より感じ取れてるんじゃないかって」
「前はどの程度だった」
「精霊の気配なら分かった。でも、こういう動く前の力までは……」
レグルの視線が、少し楽しそうに変わる。
「じゃあ今のお前の身体ってことか。もう一回いくぞ」
「急に乗り気になったな」
「面白くなってきた。無茶しなきゃいい」
「さっきより基準が緩んでない?」
今度は影が三方向へ伸びた。どれが本体か分からない。
けれど、力の流れは同じではない。一つだけ濃い。
ハミルはそちらへ身体を向ける。正解だった。
レグルが影から飛び出す。腕を掴まれそうになり、ハミルは避けた。
その瞬間、ふと別の感覚が浮かんだ。
流れているなら。
少しだけ、向きを変えられないか。
穢れを引くときと同じように。
ハミルは反射的に手を伸ばした。触れていない。それでも、レグルの腕へ集まっていた力へ意識を掛ける。
こちらへ引くのではなく、少し外へ。
「――っ」
レグルの拳が逸れた。わずかに、ハミルの耳の横を通り過ぎる。
二人とも止まった。
「今、何した」
「……逸らした、のかな。俺も初めてだから聞かれても困る」
レグルは自分の右腕を見る。
「力が抜けたわけじゃねえ。勝手に曲げられた感じでもない」
「たぶん、流れてた方向を少しずらした」
『穢れを引く時と似ている』
イルの声が落ちる。ハミルも同じことを考えていた。
対象の中にある穢れを、自分へ向ける。存在しているものの流れへ触れる。あれを、別の力に使った。
『じゃあ、新しい力が増えたわけじゃなくて、使い方が増えただけか』
『おそらくな』
少し納得する。突然何かができるようになった感覚ではなかった。ずっと使っていた手の動かし方を、別の作業にも使えると気づいたようなものだ。
「もう一回やるぞ」
レグルが言った。
「今度は本気で来る?」
「馬鹿。試すだけだ」
「だよな」
「お前、ちょっと残念そうにすんな」
「久しぶりなんだよ。戦うのが、じゃなくて、身体をちゃんと動かすのが」
口にして、ハミル自身が少し驚いた。
十年前。いや、自分にとってはもっと長い。あの魔王城以来、誰かとこうして対等に身体を動かした記憶はほとんどない。
魔物を倒すためでもなく、誰かを守るためでも、生き延びるためでもない。ただ、試すための手合わせ。
楽しいと思っている。そのことが、妙に嬉しかった。
「じゃあ来い」
レグルが笑う。
ハミルも構えた。
*
「痛い」
「だから言っただろ」
「最後のあれ、地面から足取るのはずるくない?」
「影使うなとは言われてねえ。実戦で言ってみろ」
家の前の段差へ並んで座る。
結果から言えば、ハミルは最後に転ばされた。昔より身体は動く。力の流れも感じ取れる。わずかなら、その向きへ触れられる。それでも経験のない身体で、使い慣れたレグルに勝てるほど簡単ではない。
「でも、面白いな」
ハミルが言う。
「俺、自分の身体のこと全然分かってなかったんだなって」
「今さら気づいたか」
「今さらだな」
右手を開く。
以前より強い。以前より速い。以前より、多くを感じる。
けれど、疲れないわけではない。手合わせを終えた今は普通に息が上がっているし、腹も減った。
「精霊になったわけじゃない」
「人間でもねえけどな」
「そこなんだよな」
レグルが立ち上がる。
「まあいいだろ。分かんねえなら、一個ずつ分かれば」
何でもないように言った。
ハミルはその背中を見る。たぶん、今の自分にはそれしかない。
十年前の自分へ戻ることはできない。だから、今の身体を知る。今できることを知る。分からないことを、分からないままにせず一つずつ確かめる。
「レグル。明日もやろう」
「体調良かったらな」
「やっぱり厳しい」
「当然」
『我も見る』
『見えないだろ』
しばらく沈黙したあと、イルが言った。
『感じる』
思わず笑った。
今度は右目も痛まなかった。
「続きが気になる」「面白い」と感じていただけましたら、
【ブックマーク追加】 や 【★★★★★評価】 をポチッと押していただけると、執筆の大きな励みになります!




