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世界が彼を魔王と呼ぶまで  作者: ぶん吉
第二章

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幕間 風の国から

 風の国の王都は、今日もよく晴れていた。高い塔の間を風が抜け、吊り橋に並ぶ旗をぱたぱたと鳴らしている。


 メルクリオは窓辺へ頬杖をつき、三通目の報告書を読み終えたところで、小さく欠伸をした。


「退屈そうね」


 机の端に腰掛けたフラーシアが言った。


「退屈なんじゃないよ。面倒なんだ」


「同じ顔してるわよ」


「美しい顔は何をしても美しいからね」


「はいはい。いいから仕事なさい」


 小柄な精霊は、もう聞いていなかった。昔からこうだ。メルクリオの軽口を最も長く聞き、最も雑に扱うのがフラーシアだった。


 メルクリオは肩をすくめ、報告書をもう一度開いた。件名はすべて同じだった。


 新たな魔王について。


 王都で人間が魔物へ変わった。漆黒の男が現れた。旧勇者三人と新しい水の勇者が対応した。男は逃走。各国は警戒を強めること。


 話としては、実に分かりやすい。だからこそ、気に入らなかった。


「ねえ、フラーシア」


「なあに?」


「僕、あの日あの男が人を襲ってるところ見たっけ」


 フラーシアは少し考えてから首を振った。


「見てないわね」


「だよね」


「逃げてはいたけど」


「うん」


「レイオスたちから」


「うん」


「でも、人から逃げてたようにも見えたわ」


 メルクリオは口元を緩めた。


「そこなんだよね」


 王都で見た漆黒の男。身体を這う異様な紋様。人間離れした気配。魔王だと言われれば、信じてしまいそうな姿だった。


 けれど、動きが妙だった。人の多い場所を避け、自分たちの攻撃を受けながら、周囲を巻き込まない方へ逃げた。


 あの時は追うことに意識を取られていた。けれど後から思い返すほど、その動きには見覚えがあった。


 ――十年前。


 まだ四人で旅をしていた頃。街道を塞いだ魔物へレイオスが斬りかかり、メルクリオが風を走らせようとした時だった。


「メル、右」


 短い声に、反射的に風を止めた。右手の林の陰から、逃げ遅れた親子が飛び出してきた。あと少し遅ければ、メルクリオの風に巻き込んでいた。


 魔物を前にしているくせに、ハミルは敵より先に周囲を見ていた。


 戦いが終わったあと、メルクリオは呆れて言ったものだ。


「君って本当に損な戦い方するよね。敵だけ見てれば、もっと楽なのに」


 ハミルは剣についた泥を払いながら、ちらりとこちらを見た。


「誰か巻き込んだ方が、後で面倒だろ」


「それ、優しい人が照れ隠しに言う台詞?」


「面倒だから面倒って言ってるだけだよ」


「はいはい」


 あの頃は、その返事をずいぶん聞いた。


 メルクリオは報告書から目を上げる。王都で、あの漆黒の男も同じように人のいない方へ逃げた。偶然だと言われれば、それまでだ。


 けれど。


「順番も逆なんだよなあ」


「何が?」


「魔王が人を魔物にしたなら、普通は魔王を止めたあとに人が戻ると思わない?」


「戻ること自体、普通じゃないけどね」


「そこはそう」


 人間は魔化しない。少なくとも、自分たちはそう教わってきた。なのに王都では、人間が魔物のような姿になった。そして戻った。


 しかも、人々が戻り始めたあとで、あの男は限界を迎えたように崩れた。まるで、人々が戻ったことと引き換えにでもしたように。


「人って、分からないものに名前が付くと安心するよね」


「あなたも人でしょう?」


「そうだった」


「そこ忘れないでちょうだい」


 メルクリオは笑って報告書を閉じた。机の隅には、別の書簡が置かれている。


 火の国から。差出人はレイオス本人ではなく、騎士団の連絡役だった。王都事件について追加の聞き取りを続けていること。水の国側でも薬と水盤の調査が進んでいること。地の国のマルテからは、ほとんど何も来ていない。あいつらしいと言えばらしい。そしてキースは、水の国へ残って調査へ加わっているらしい。


「みんな真面目だなあ」


「あなたも働いてるでしょう。珍しく」


「最後の一言いる?」


「褒めてるのよ」


「君の褒め方、昔から分かりにくいよね」


「あなたにはちょうどいいわ」


 その時、扉が叩かれた。


「どうぞ」


 入ってきたのは、連絡局の若い官吏だった。胸に抱えた筒を差し出す。


「地の国から、優先報です」


「マルテから?」


「いえ。地の国北部の監視所から、四国共有で」


 メルクリオは眉を上げた。封を切り、紙を広げる。最初の数行を読んだところで、口元から笑みが消えた。


「……へえ」


「どうしたの?」


 フラーシアが机の上へ寄る。


 報告は短い。地の国北部の街道沿いで、複数の旅人が黒い人影を目撃。周囲で魔物の出没が相次いだため、魔王らしき存在として警戒。場所は王都から逃走した漆黒の男が向かい得る方角と一致。そのため、王都に現れた新たな魔王が地の国へ移動した可能性が高い――と結ばれている。


「目撃はいつ?」


 メルクリオが尋ねる。


「昨夜です」


「時刻は?」


 官吏が答える。メルクリオは窓の外へ一度目をやった。王都から地の国北部までの距離を頭の中でなぞる。


 行けない距離ではない。健康な旅人なら、急げば。けれど、王都で最後に見たあの男は、立っているのもやっとだった。


「目撃者は顔を見た?」


「そこまでは。遠目に黒い姿を見た者、魔物の群れの向こうに人型を見た者など、証言には差があります」


「黒髪黒眼?」


「確認されていません」


「身体の紋様は?」


「それも」


「人を襲った?」


「直接の被害報告はありません」


「何か力を使ったところは?」


「確認されていません」


 メルクリオは紙を指先で軽く叩いた。


「じゃあ、魔王だと判断した根拠は?」


 官吏が少し困った顔をする。


「魔物が増えた場所で、黒い人影が目撃されたこと。王都からの逃走方向。そして現在の警戒情報から……」


「なるほど」


 分かりやすい。


 今回も。


「ありがとう。受け取ったよ」


 官吏が一礼して出ていく。扉が閉まる。


 フラーシアが報告書を覗き込んだ。


「それで? あなたはどう思ってるの?」


「分からない」


「あら、素直」


「僕はいつも素直だよ」


「はいはい」


「扱いが雑だなあ」


 笑いながらも、メルクリオの視線は紙から離れない。


 昨夜。地の国北部。移動だけを考えれば、不可能ではない。だが、あの状態からすぐに移動を続け、そのうえ魔物の群れと行動していたと考えると、妙に引っかかる。何より、同一人物だと証明するものが一つもない。


「見てないもの、多すぎない?」


「黒い人影だけだものね」


「王都でもそうだった」


 皆が見たのは、断片だ。黒い姿。異様な力。逃げる男。人が魔物になったという結果。それを一つに繋いで、「魔王」という形へ押し込んだ。


 自分だって、その場ではそうした。十年前の記憶があったから。魔王の気配に似ていると思ったから。そして――あの男の動きが、あまりに知っている誰かを思わせたから。


 ハミル。


 今度は、頭に浮かんだ名前を追い払わなかった。


 顔は見ていない。黒い髪も、黒い瞳も、自分の目では確かめていない。遠目に見えたのは、黒い何かをまとった人影と、その動きだけだった。だから、ハミルだと言えるものなど何一つない。


 それでも思い出してしまうのは、十年前のあいつだった。


 昔から、本人は自分の顔に頓着しなかった。けれど、妙に目を引く綺麗な顔をしていた。


 旅の途中、宿の娘に焼き菓子を一つ余計にもらった時もそうだった。


「ずるくない?」


 隣を歩きながらメルクリオが言うと、ハミルは本気で分からない顔をした。


「何が?」


「僕には一個。君には二個」


「欲しいならやるよ」


「そういうことじゃないんだよ」


「じゃあ何」


「僕より目立つのやめてくれない?」


「無茶言うなよ」


 そう言いながら、本当に一つ寄越してきた。あれも腹が立った。


 ――少なくとも、そういうことにしていた。


 メルクリオは無意識に口元を緩めていたらしい。


「懐かしい顔してるわね」


 フラーシアの声で我に返った。


「そんな顔ある?」


「あるわよ。長い付き合いなんだから」


「怖いなあ」


「今さらでしょう」


 フラーシアは机の上に座り直し、しばらくメルクリオを見た。


「確かめたいんでしょう?」


「何を?」


「決まってるじゃない。あの子がハミルかどうか」


 メルクリオは一瞬、返す言葉を忘れた。自分がそう思っていることではない。フラーシアの口から、あまりにも自然にその名前が出てきたことに驚いた。


「……君も、そう思った?」


「顔は見てないもの。分からないわよ」


 フラーシアはそう前置きしてから、少しだけ目を細めた。


「でも、あの逃げ方。私も思い出したわ。あの子、昔から自分より周りを先に見てたでしょう」


 自分だけではなかったらしい。それが嬉しいのか、怖いのか。メルクリオにも、まだ分からなかった。


「期待して違ったら、格好悪いだろ」


「あなた、そんなこと気にする人だった?」


「僕はいつだって格好よくありたいんだよ」


「そういうことにしておいてあげる」


 やはり、長い付き合いというのは厄介だ。


 十年前。自分たちは帰った。ハミルだけが帰らなかった。魔王城は崩れた。戻れなかった。探した。見つからなかった。


 だから死んだのだと、何度も自分へ言い聞かせた。そうしなければ、自分たちだけが生きて帰ったことを受け止められなかった。


 それでも時々、どうでもいい瞬間に思い出した。綺麗な景色を見た時。うまい酒を飲んだ時。誰かがくだらない冗談へ、少し遅れて笑った時。


 あいつなら何と言っただろう、と。


 十年経っても、それだけは消えなかった。


「地の国、行く?」


 フラーシアが聞く。


「今は行かない」


「あら。意外」


「風の国にも僕の仕事があるからね。それに、この報告だけで他国へ飛び込んだら余計な混乱を増やす」


「ちゃんと勇者してるじゃない」


「惚れ直した?」


「そこまで言うと台無しね」


「残念」


 メルクリオは二つの報告書を並べた。王都の漆黒の男。地の国の黒い人影。同じものとして扱われている。けれど、その間を繋ぐ証拠はない。


「まず調べるよ」


「何を?」


「この『魔王』が、本当に一人なのか」


 フラーシアが目を細める。


「二人いると思ってる?」


「まだ分からない。でも、同じだって決めるには材料が足りなさすぎる」


「それで、王都の方は?」


 メルクリオは答えなかった。窓の外で、風が強く吹いた。机の上の報告書が一枚めくれる。


 新たな魔王。


 そう題された文字を指で押さえながら、王都で見た人影を思い出す。


 違うなら、それでいい。似ていただけなら、笑い話にすればいい。


 けれど、もし。


 本当にあれがハミルなら。


 十年前には、見つけられなかった。


 今度まで同じでいるつもりはない。


「……今度は、ちゃんと僕が見つけるよ」


 誰に聞かせるでもなく呟くと、フラーシアは何も言わなかった。ただ、少しだけ優しい風が、開いた窓から部屋へ入ってきた。

「続きが気になる」「面白い」と感じていただけましたら、

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