幕間 風の国から
風の国の王都は、今日もよく晴れていた。高い塔の間を風が抜け、吊り橋に並ぶ旗をぱたぱたと鳴らしている。
メルクリオは窓辺へ頬杖をつき、三通目の報告書を読み終えたところで、小さく欠伸をした。
「退屈そうね」
机の端に腰掛けたフラーシアが言った。
「退屈なんじゃないよ。面倒なんだ」
「同じ顔してるわよ」
「美しい顔は何をしても美しいからね」
「はいはい。いいから仕事なさい」
小柄な精霊は、もう聞いていなかった。昔からこうだ。メルクリオの軽口を最も長く聞き、最も雑に扱うのがフラーシアだった。
メルクリオは肩をすくめ、報告書をもう一度開いた。件名はすべて同じだった。
新たな魔王について。
王都で人間が魔物へ変わった。漆黒の男が現れた。旧勇者三人と新しい水の勇者が対応した。男は逃走。各国は警戒を強めること。
話としては、実に分かりやすい。だからこそ、気に入らなかった。
「ねえ、フラーシア」
「なあに?」
「僕、あの日あの男が人を襲ってるところ見たっけ」
フラーシアは少し考えてから首を振った。
「見てないわね」
「だよね」
「逃げてはいたけど」
「うん」
「レイオスたちから」
「うん」
「でも、人から逃げてたようにも見えたわ」
メルクリオは口元を緩めた。
「そこなんだよね」
王都で見た漆黒の男。身体を這う異様な紋様。人間離れした気配。魔王だと言われれば、信じてしまいそうな姿だった。
けれど、動きが妙だった。人の多い場所を避け、自分たちの攻撃を受けながら、周囲を巻き込まない方へ逃げた。
あの時は追うことに意識を取られていた。けれど後から思い返すほど、その動きには見覚えがあった。
――十年前。
まだ四人で旅をしていた頃。街道を塞いだ魔物へレイオスが斬りかかり、メルクリオが風を走らせようとした時だった。
「メル、右」
短い声に、反射的に風を止めた。右手の林の陰から、逃げ遅れた親子が飛び出してきた。あと少し遅ければ、メルクリオの風に巻き込んでいた。
魔物を前にしているくせに、ハミルは敵より先に周囲を見ていた。
戦いが終わったあと、メルクリオは呆れて言ったものだ。
「君って本当に損な戦い方するよね。敵だけ見てれば、もっと楽なのに」
ハミルは剣についた泥を払いながら、ちらりとこちらを見た。
「誰か巻き込んだ方が、後で面倒だろ」
「それ、優しい人が照れ隠しに言う台詞?」
「面倒だから面倒って言ってるだけだよ」
「はいはい」
あの頃は、その返事をずいぶん聞いた。
メルクリオは報告書から目を上げる。王都で、あの漆黒の男も同じように人のいない方へ逃げた。偶然だと言われれば、それまでだ。
けれど。
「順番も逆なんだよなあ」
「何が?」
「魔王が人を魔物にしたなら、普通は魔王を止めたあとに人が戻ると思わない?」
「戻ること自体、普通じゃないけどね」
「そこはそう」
人間は魔化しない。少なくとも、自分たちはそう教わってきた。なのに王都では、人間が魔物のような姿になった。そして戻った。
しかも、人々が戻り始めたあとで、あの男は限界を迎えたように崩れた。まるで、人々が戻ったことと引き換えにでもしたように。
「人って、分からないものに名前が付くと安心するよね」
「あなたも人でしょう?」
「そうだった」
「そこ忘れないでちょうだい」
メルクリオは笑って報告書を閉じた。机の隅には、別の書簡が置かれている。
火の国から。差出人はレイオス本人ではなく、騎士団の連絡役だった。王都事件について追加の聞き取りを続けていること。水の国側でも薬と水盤の調査が進んでいること。地の国のマルテからは、ほとんど何も来ていない。あいつらしいと言えばらしい。そしてキースは、水の国へ残って調査へ加わっているらしい。
「みんな真面目だなあ」
「あなたも働いてるでしょう。珍しく」
「最後の一言いる?」
「褒めてるのよ」
「君の褒め方、昔から分かりにくいよね」
「あなたにはちょうどいいわ」
その時、扉が叩かれた。
「どうぞ」
入ってきたのは、連絡局の若い官吏だった。胸に抱えた筒を差し出す。
「地の国から、優先報です」
「マルテから?」
「いえ。地の国北部の監視所から、四国共有で」
メルクリオは眉を上げた。封を切り、紙を広げる。最初の数行を読んだところで、口元から笑みが消えた。
「……へえ」
「どうしたの?」
フラーシアが机の上へ寄る。
報告は短い。地の国北部の街道沿いで、複数の旅人が黒い人影を目撃。周囲で魔物の出没が相次いだため、魔王らしき存在として警戒。場所は王都から逃走した漆黒の男が向かい得る方角と一致。そのため、王都に現れた新たな魔王が地の国へ移動した可能性が高い――と結ばれている。
「目撃はいつ?」
メルクリオが尋ねる。
「昨夜です」
「時刻は?」
官吏が答える。メルクリオは窓の外へ一度目をやった。王都から地の国北部までの距離を頭の中でなぞる。
行けない距離ではない。健康な旅人なら、急げば。けれど、王都で最後に見たあの男は、立っているのもやっとだった。
「目撃者は顔を見た?」
「そこまでは。遠目に黒い姿を見た者、魔物の群れの向こうに人型を見た者など、証言には差があります」
「黒髪黒眼?」
「確認されていません」
「身体の紋様は?」
「それも」
「人を襲った?」
「直接の被害報告はありません」
「何か力を使ったところは?」
「確認されていません」
メルクリオは紙を指先で軽く叩いた。
「じゃあ、魔王だと判断した根拠は?」
官吏が少し困った顔をする。
「魔物が増えた場所で、黒い人影が目撃されたこと。王都からの逃走方向。そして現在の警戒情報から……」
「なるほど」
分かりやすい。
今回も。
「ありがとう。受け取ったよ」
官吏が一礼して出ていく。扉が閉まる。
フラーシアが報告書を覗き込んだ。
「それで? あなたはどう思ってるの?」
「分からない」
「あら、素直」
「僕はいつも素直だよ」
「はいはい」
「扱いが雑だなあ」
笑いながらも、メルクリオの視線は紙から離れない。
昨夜。地の国北部。移動だけを考えれば、不可能ではない。だが、あの状態からすぐに移動を続け、そのうえ魔物の群れと行動していたと考えると、妙に引っかかる。何より、同一人物だと証明するものが一つもない。
「見てないもの、多すぎない?」
「黒い人影だけだものね」
「王都でもそうだった」
皆が見たのは、断片だ。黒い姿。異様な力。逃げる男。人が魔物になったという結果。それを一つに繋いで、「魔王」という形へ押し込んだ。
自分だって、その場ではそうした。十年前の記憶があったから。魔王の気配に似ていると思ったから。そして――あの男の動きが、あまりに知っている誰かを思わせたから。
ハミル。
今度は、頭に浮かんだ名前を追い払わなかった。
顔は見ていない。黒い髪も、黒い瞳も、自分の目では確かめていない。遠目に見えたのは、黒い何かをまとった人影と、その動きだけだった。だから、ハミルだと言えるものなど何一つない。
それでも思い出してしまうのは、十年前のあいつだった。
昔から、本人は自分の顔に頓着しなかった。けれど、妙に目を引く綺麗な顔をしていた。
旅の途中、宿の娘に焼き菓子を一つ余計にもらった時もそうだった。
「ずるくない?」
隣を歩きながらメルクリオが言うと、ハミルは本気で分からない顔をした。
「何が?」
「僕には一個。君には二個」
「欲しいならやるよ」
「そういうことじゃないんだよ」
「じゃあ何」
「僕より目立つのやめてくれない?」
「無茶言うなよ」
そう言いながら、本当に一つ寄越してきた。あれも腹が立った。
――少なくとも、そういうことにしていた。
メルクリオは無意識に口元を緩めていたらしい。
「懐かしい顔してるわね」
フラーシアの声で我に返った。
「そんな顔ある?」
「あるわよ。長い付き合いなんだから」
「怖いなあ」
「今さらでしょう」
フラーシアは机の上に座り直し、しばらくメルクリオを見た。
「確かめたいんでしょう?」
「何を?」
「決まってるじゃない。あの子がハミルかどうか」
メルクリオは一瞬、返す言葉を忘れた。自分がそう思っていることではない。フラーシアの口から、あまりにも自然にその名前が出てきたことに驚いた。
「……君も、そう思った?」
「顔は見てないもの。分からないわよ」
フラーシアはそう前置きしてから、少しだけ目を細めた。
「でも、あの逃げ方。私も思い出したわ。あの子、昔から自分より周りを先に見てたでしょう」
自分だけではなかったらしい。それが嬉しいのか、怖いのか。メルクリオにも、まだ分からなかった。
「期待して違ったら、格好悪いだろ」
「あなた、そんなこと気にする人だった?」
「僕はいつだって格好よくありたいんだよ」
「そういうことにしておいてあげる」
やはり、長い付き合いというのは厄介だ。
十年前。自分たちは帰った。ハミルだけが帰らなかった。魔王城は崩れた。戻れなかった。探した。見つからなかった。
だから死んだのだと、何度も自分へ言い聞かせた。そうしなければ、自分たちだけが生きて帰ったことを受け止められなかった。
それでも時々、どうでもいい瞬間に思い出した。綺麗な景色を見た時。うまい酒を飲んだ時。誰かがくだらない冗談へ、少し遅れて笑った時。
あいつなら何と言っただろう、と。
十年経っても、それだけは消えなかった。
「地の国、行く?」
フラーシアが聞く。
「今は行かない」
「あら。意外」
「風の国にも僕の仕事があるからね。それに、この報告だけで他国へ飛び込んだら余計な混乱を増やす」
「ちゃんと勇者してるじゃない」
「惚れ直した?」
「そこまで言うと台無しね」
「残念」
メルクリオは二つの報告書を並べた。王都の漆黒の男。地の国の黒い人影。同じものとして扱われている。けれど、その間を繋ぐ証拠はない。
「まず調べるよ」
「何を?」
「この『魔王』が、本当に一人なのか」
フラーシアが目を細める。
「二人いると思ってる?」
「まだ分からない。でも、同じだって決めるには材料が足りなさすぎる」
「それで、王都の方は?」
メルクリオは答えなかった。窓の外で、風が強く吹いた。机の上の報告書が一枚めくれる。
新たな魔王。
そう題された文字を指で押さえながら、王都で見た人影を思い出す。
違うなら、それでいい。似ていただけなら、笑い話にすればいい。
けれど、もし。
本当にあれがハミルなら。
十年前には、見つけられなかった。
今度まで同じでいるつもりはない。
「……今度は、ちゃんと僕が見つけるよ」
誰に聞かせるでもなく呟くと、フラーシアは何も言わなかった。ただ、少しだけ優しい風が、開いた窓から部屋へ入ってきた。
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