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世界が彼を魔王と呼ぶまで  作者: ぶん吉
第二章

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第028話 俺じゃない

「動くな」


「動いてない」


「喋るな」


「それは無理だろ」


「じゃあせめて黙ってろ」


「同じ意味じゃない?」


「うるせえ」


 朝からレグルの機嫌が悪い。正確には、集中しているだけらしい。


 ハミルは椅子へ座ったまま、なるべく顔を動かさないようにした。レグルの影が足元から伸びてくる。黒い帯のようなものが靴を覆い、脚を上り、外套の裾へ溶ける。


 冷たくはない。重さもない。ただ、皮膚の上へ薄い膜を重ねられるような妙な感覚があった。


「目閉じろ」


「はい」


 瞼の上を影が撫でる。少しして、レグルが言った。


「いいぞ」


 目を開ける。差し出された鏡を見て、ハミルは黙った。


「……誰?」


「お前だよ」


「いや、違うだろ」


「中身はな」


 鏡の中にいるのは、どこにでもいそうな青年だった。髪は焦げ茶。目も同じ色。顔立ちは元のハミルを残しているが、輪郭が少し粗く見える。肌も今より日に焼けている。


 何より、黒髪黒眼ではない。


「すごいな」


「俺の本質は写すことだからな。このくらいならできる」


「他人にもできるんだ」


「自分にやるより面倒だ。距離が離れすぎると保てねえし、でかく姿を変えるのも無理」


「便利だけど万能じゃない、と」


「そういうこと」


『元より少し不細工になったな』


 イルが言った。ハミルは鏡を見たまま目を細める。


『そこ感想いる?』


『事実だ』


「イル何て?」


「元より少し不細工になったって」


 レグルが噴き出した。


「笑うなよ」


「いや、あいつそういうとこ変わってねえな」


『聞こえているぞ』


「聞こえるように言った」


『レグル』


「何だよ」


『お前も大して変わっておらぬ』


「褒め言葉として受け取っとく」


 ハミルは二人のやり取りを聞きながら、もう一度鏡を見た。


 知らない顔。少しだけ落ち着かない。けれど、これなら街を歩ける。黒髪黒眼を見られることもない。王都で広まった「漆黒の魔王」と結びつけられる可能性も低い。


「本当に行くのか」


 レグルが確認する。


「うん」


「体調は」


「問題なし。昨日も手合わせした」


「軽くな。熱は」


「ない」


「右目」


「痛くない」


「腕」


「痺れてない」


 レグルはしばらく疑うように見ていた。


「……まあいい」


「やっと信用戻ってきた?」


「一割くらい」


「低いなあ」


 それでも外へ出る許可は出た。


     *


 街までは歩いて半刻ほどだった。


 地の国の町は、水の国とは色が違う。石造りより木造の家が多く、道の端には太い樹木がそのまま残されている。建物が森を押し退けているのではなく、木々の間へ人が住み着いたような景色だった。


「変わってないな」


 ハミルが言う。


「来たことあるのか」


「十年前に少しだけ。もっと南だけど」


「勇者様は忙しいな」


「昔はね」


「今も大概だろ」


「今は無職だよ」


「魔王疑惑付きのな」


「肩書きが重い」


『笑えぬ』


『笑っといた方がいいよ』


 通りへ入る。人が多い。


 ふと、頭の上に何もないことへ気づく。頭巾を被っていない。黒髪黒眼になってからは、外へ出るたびに人の目を避けるように深く被っていた。帰還してから、こうして何も隠さず人の中を歩くのは初めてだった。


 顔を伏せなくていい。誰かの視線に怯えて、髪が見えていないか気にしなくていい。それだけのことが、妙に懐かしかった。


 けれど今、誰もハミルを見ていない。


 野菜を売る声。子どもの笑い声。荷車の軋み。焼いた肉の匂い。


 普通の街だった。


「腹減ってないか」


 レグルが聞く。


「家出たばっかりだろ」


「匂い嗅いでた」


「見てただけ」


「食うか?」


「食べたい」


「素直だな」


 二人で串焼きを買った。店主はハミルを一瞥しただけで、何の反応も見せない。


 それが新鮮だった。


「うまい」


「だろ」


「お前の料理より?」


「帰るぞ」


「冗談だよ」


『レグルの方が塩が多い』


「イル、それ本人に言って」


「何だ?」


「いや、何でもない」


 言えば喧嘩になる。それも少し見てみたい気はしたが、今日はやめた。


 市場を回る。必要な布。保存食。薬草。レグルが買うものを選び、ハミルが余計なものを手に取り、戻される。


「それ何に使う」


「分からない」


「戻せ」


「綺麗だよ」


「綺麗で飯は食えねえ」


「夢がないな」


「無職に言われたくねえ」


 気づけば笑っていた。ここ数日、家でも笑うことは増えた。でも、人の中で普通に歩くのは違う。自分がまだ世界の外へ完全に弾き出されたわけではないような気がした。


     *


 噂を聞いたのは、昼を少し過ぎた頃だった。


「また出たらしいぞ」


 道端の茶屋で、隣の卓から声がした。ハミルは手にしていた杯を止める。レグルも聞いている。


「何が?」


「魔王だよ。北の街道」


「ああ、王都から逃げたっていう?」


「そうそう。黒い奴」


 心臓が一度強く打った。


 自分の話だ。


 そう思った。王都の噂がここまで来たのだろう。ハミルは杯を置く。


「広まるの早いな」


 小声で言う。


「四国共有で警戒出てるらしいからな」


 レグルも声を落とした。


 隣の卓では話が続いている。


「昨日も見た奴がいるってよ」


「昨日?」


 ハミルの声が、思わず漏れた。隣の男がこちらを見る。


「兄ちゃんも気になるか?」


「あ、はい。旅の途中で噂だけ聞いたので」


 なるべく自然に笑う。


「昨日って、どの辺で?」


「北の古い街道だよ。森の手前。商隊が遠くに黒い人影を見たって」


「魔王だって、どうして分かったんです?」


「その辺で魔物が増えてんだと。王都から逃げた魔王が来たなら辻褄が合うだろ」


 男は当然のように言った。ハミルは返事をしなかった。


 昨日、自分は一日中レグルの家にいた。朝は食事。昼は手合わせ。そのあと転ばされて、家の前で座っていた。夜も外へ出ていない。


 間違えようがない。


「他にも出てるんですか」


 レグルが尋ねた。


「ああ。二日前にも別の村で見たって話がある。ただ、近づいた奴はいないらしい」


「人を襲った?」


「それは聞かねえな。けど魔物が出てるんだろ? 十分だよ」


 男は肩をすくめる。


「魔王が出りゃ、魔物が増える。昔と同じだ」


 昔と同じ。


 その言葉が胸へ残った。


 ハミルは立ち上がる。


「ありがとうございました」


「おう。北行くなら気をつけろよ」


「はい」


 茶屋を出る。少し歩いて、人通りの少ない路地へ入った。そこで足を止める。


「……俺じゃない」


 声にすると、奇妙だった。分かりきっている。昨日の自分がどこにいたかなど、自分が一番よく知っている。


 それでも世間では、王都の漆黒の魔王と、地の国で目撃された何かが一つに繋がっている。


「当たり前だ」


 レグルが言う。


「昨日、お前ずっと俺ん家にいた」


『我も知っている』


『お前はずっと一緒だろ』


『だから確実だ』


 軽口を返したのに、気持ちは軽くならなかった。


「じゃあ、誰だ」


 ハミルが呟く。


 黒い人影。魔物が増えた場所。王都から自分が逃げたあと。全部、自分へ結びつけられている。


 偶然かもしれない。ただの見間違いかもしれない。王都の噂に引っ張られて、黒い外套の旅人を魔王だと思っただけかもしれない。


 けれど。


 王都でも同じだった。薬。弧。水盤。人間の魔化。そして最後に、自分が魔王と呼ばれた。


 知らないことが多すぎた。あの時は身体も限界で、考える余裕すらなく逃げた。逃げるしかなかった。今も、追われる立場なのは変わらない。


 でも。


 ハミルは自分の右手を見る。黒い紋様は、擬態の下に隠れている。穢れはまだ完全には消えていない。レグルを元へ戻せるだけの余裕も、まだない。自分の身体のことだって、分からないことだらけだ。


 それでも、数日前よりは知っている。自分が何を抱えられて、何を抱えられないか。今の身体が昔より動くこと。力の流れへ触れられること。そして一人ではないこと。


 内側にはイルがいる。隣にはレグルがいる。


「ハミル」


 レグルが呼ぶ。


「どうする」


 問いは短かった。逃げるか。ここを離れるか。そういう意味でも聞けた。


 ハミルはしばらく黙った。王都から逃げた夜を思い出す。川へ落ちた。何も考えられなくなった。自分が魔王と呼ばれたことだけが、頭の中へ残っていた。


 あの時は、世界全部から追われたような気がした。


 今は違う。


「調べる」


 自分でも驚くほど、迷わず言えた。


 レグルが目を細める。


「何を」


「この魔王」


 ハミルは通りの向こうを見る。


「俺じゃないなら、誰なのか」


『危険だぞ』


 イルの声が静かに落ちる。


『分かってる』


『追手と鉢合わせる可能性もある』


『うん』


『王都の件と関係があるとも限らぬ』


『それも分かってる』


 少し間が空く。


『それでも行くか』


 ハミルは息を吐いた。


『行くよ』


 逃げ続けていれば、安全かもしれない。少なくとも今より危険は減る。けれど、何も知らないままでは、また同じことが起きる。


 誰かが魔物になり。誰かが傷つき。最後に自分が魔王と呼ばれる。


 そんなものを、もう一度黙って待つ気にはなれなかった。


「北の街道から当たるか」


 レグルが言った。ハミルが振り返る。


「来るの?」


「は?」


「いや、家あるし」


「誰が擬態維持すんだよ」


「あ」


「あと、お前一人で行かせると思ってんのか」


「でもレグルには――」


「俺が決める」


 ぴしゃりと言われた。どこかで聞いた言葉だった。


 レグルは鼻を鳴らす。


「イルのそばに残った時もそうだ。誰かに残れって言われたから残ったんじゃねえ」


 ハミルは黙る。


「今回も俺が決める。行く」


『昔から頑固だ』


 イルが言った。


「お前に言われたくねえよ」


 レグルが即座に返す。ハミルは思わず笑った。


「じゃあ、三人で行くか」


『最初から我はお前と共にいる』


「そうだった」


 レグルが呆れたように笑う。


「そこ忘れんなよ」


「忘れてないよ。言い方の問題」


『怪しいものだ』


 二人で笑った。


 路地の向こうでは、何も知らない人たちが行き交っている。世界はまだ、ハミルを魔王と呼んでいる。それは変わっていない。自分が何者なのかも、まだ全部は分からない。


 けれど。


 逃げるしかなかった数日前とは違う。


 ハミルはもう一度、北へ続く道を見た。


「まず、昨日の目撃場所まで行こう」


「ああ」


『無茶はするな』


『それ、二人から言われるようになったな』


「何だ?」


「イルも無茶するなって」


「当然だろ」


「はいはい」


「返事」


「はい」


 レグルが満足そうに歩き出す。ハミルもその隣へ並んだ。


 追われる道ではなく。


 今度は、自分で選んだ道を進むために。

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