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世界が彼を魔王と呼ぶまで  作者: ぶん吉
第二章

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第029話 噂の向こう

 北の古い街道へ着いたのは、日が傾き始める少し前だった。街を出てから、ほとんど半日。人通りは次第に減り、最後には荷車の轍と、森から落ちた枯葉ばかりが道を埋めるようになった。


「ここか」


 レグルが足を止める。道の脇には、半ば朽ちた道標が立っていた。黒い人影が目撃されたという場所。


 ハミルは辺りを見回した。森。低い崖。街道。遠くまで見通せる場所ではない。


「……遠目に人影を見た、っていうには、見えにくいな」


「場所がずれてんじゃねえのか」


「かも」


『そもそも証言が正確とは限らぬ』


『だよな』


 昨日、茶屋で聞いた話も又聞きだった。誰かが見た。誰かから聞いた。魔物が増えた。だから魔王だ。


 どこまでが本当なのかは、まだ分からない。


 ハミルは街道脇へしゃがみこんだ。土には古い馬蹄の跡がいくつも重なっている。自分に追跡の技術があるわけではない。見ただけで何日前の誰の足跡か分かるほど器用でもない。


「何かあるか?」


「普通の道」


「だろうな」


「もう少し期待してよ」


「お前が急に名探偵になったら怖えよ」


「俺も怖い」


 立ち上がる。風が森を抜け、葉がざわめく。その奥に、微かに違うものが混じった。


 ハミルは顔を上げる。


「レグル」


「ああ」


 レグルも気づいたらしい。街道の先、森の奥から精霊の気配がする。ひとつではない。弱いものが、いくつか。そして、その中に黒く濁ったものが混じっている。


「魔物か」


「たぶん」


『近い』


 イルの声が落ちる。ハミルは外套の留め具へ手を掛けた。


「行く?」


「行かねえ選択肢あるのか」


「確認」


「無茶すんなよ」


「はい」


「その返事が一番信用できねえ」


     *


 森へ入ってすぐ、争った跡が見つかった。細い木が折れ、地面が抉れている。大きな爪痕が幹に残っていた。ただし血はない。人が襲われた形跡も、少なくとも目につく範囲にはなかった。


 少し進んだところで、獣型の魔物が一体、倒れた木の向こうから姿を現した。四足。鹿に似ている。けれど角は黒く捩れ、胴の一部が影のように揺らいでいる。


 ハミルを見ると、低く唸った。


「来るぞ」


 レグルが前へ出る。


「待って」


「何だ」


「あれ、こっちに来たいわけじゃない」


 魔物は前脚を掻きながら、何度も背後を振り返っていた。怒っている。怯えている。それが混ざっているように見える。


 次の瞬間、魔物は横へ飛んだ。ハミルたちを避けるように、そのまま木々の間を走り去る。


 レグルが眉を寄せた。


「逃げたな」


「うん」


『追うか』


『いや』


 ハミルは魔物がいた場所を見る。地面に、薄い黒い靄が残っていた。


 穢れ。


 けれど、魔物自身からこぼれたものだけではない。もっと広く、森の空気そのものへ薄く滞留している。王都で感じた密度とは違う。ずっと薄い。その代わり、範囲が広い。


「レグル。ここ、変だ」


「何が」


「穢れが散ってる」


 レグルは周囲を見回した。


「誰かが撒いたってことか?」


「そこまでは分からない」


「お前らしい答えだな」


「褒めてる?」


「たぶん」


 森を抜けた先に、小さな集落があった。十数軒の家と、街道沿いの簡素な宿。昨日の商隊はここへ泊まったらしい。


 日暮れにはまだ少し早い。それなのに、通りに人の姿はほとんどなかった。家々の戸は閉まり始め、道端で遊んでいた子どもを母親らしい女が急かして家へ入れている。


 宿の主人も、ハミルたちが中へ入るなり外へ顔を出し、街道の先を一度確かめてから戸を閉めた。


「泊まりか?」


「はい。二人です」


「なら先に馬を――いや、徒歩か。珍しいな」


 主人の目が二人の足元から顔へ上がる。


「この辺を歩くなら、今は暗くなる前に宿へ入った方がいい」


「何か出るんですか?」


 ハミルが尋ねると、主人は少しだけ眉を上げた。


「知らずに来たのか」


 そこでレグルが横から口を挟む。


「こいつ、道中で聞いた話を半分も信じねえんだよ」


「だって話す人によって違うだろ」


「だからって自分で見に行く馬鹿がいるか」


「見に行ったとは言ってない」


 主人が二人を見比べ、鼻で笑った。


「まあ、今夜は大人しくしてろ。飯はもうすぐできる」


 幸い、レグルの擬態は問題なく保たれている。焦げ茶の髪。同じ色の瞳。鏡を見るたびまだ少し違和感はあるが、人の視線に身体が硬くならないだけでずいぶん違った。


 食堂にはハミルたちのほかに、荷運びらしい男が二人いた。窓際ではなく、どちらも暖炉に近い席に座っている。


 外が暗くなるにつれ、風が戸板を鳴らすたびに片方がちらりと入口を見た。


 主人が大鍋から煮込みをよそう。根菜と肉が多めに入っていて、半日歩いた身体にはありがたかった。


「うまい」


 一口食べて、ハミルは思わず言った。


「そりゃどうも」


 主人は素っ気なく返したが、口元だけ少し緩んだ。


 そのまま別の客へ皿を運ぼうとしたところで、外から獣の鳴き声がした。


 主人の足が止まる。


 荷運びの男たちも会話をやめた。


 短い沈黙のあと、もう一度。今度は遠い。


「……犬だ」


 誰に言うでもなく主人が言い、また歩き出す。


 犬かどうかは、ハミルには分からなかった。


「やっぱり、この辺って最近何か出るんですか?」


 主人は空いた椀を重ねながら、ハミルを見た。


「何か、ねえ」


「道中で魔物が増えたって聞いて」


「ああ。それなら本当だ」


「本当どころじゃねえよ」


 向こうの席から、荷運びの男が身を乗り出した。


「俺は見たぞ。昨日、北の林で」


 隣の男が顔をしかめる。


「またその話かよ」


「またって何だ。お前だって聞いただろ」


「三回聞いた」


 主人が呆れたように笑った。


「こいつ、昨日から会う奴みんなに話してんだ」


「そりゃ話すだろ。魔王だぞ」


 男は声を落としたつもりらしいが、食堂が狭いのであまり意味はなかった。


 ハミルは匙を置いた。


「魔王を見たんですか?」


「ああ」


 返事に迷いはなかった。


「真っ黒な奴だった。林の向こうに立っててな。こっちをじっと見てた」


「顔も見た?」


 レグルが聞く。


「顔は……暗くてよく見えなかった。けど、あれは魔王だ。間違いねえ」


「何で分かるんだよ」


 隣の男が茶化すように言う。


「分かるだろ。黒い奴がいて、そのすぐ近くに魔物までいたんだぞ」


 男は椀を置き、両手を広げた。


「鹿みてえなでかい奴が二体。いや、三体だったか。あいつの周りを走ってた。俺に気づいたら、魔王の方がこっちを向いて――」


「昨日は二体って言ってなかったか?」


「二体か三体だよ。暗かったんだ」


「あと、魔王が手ぇ上げたって話は?」


「上げたよ」


「さっきはこっち向いたって言っただけだろ」


「向いて、上げたんだよ。細けえな」


 男はむっとして酒を飲んだ。


 嘘をついているようには見えなかった。


 むしろ、本当にそうだったと信じ切っている顔だった。


「それで?」


 主人が先を促す。どうやら主人も何度か聞いているらしい。


「逃げたに決まってんだろ。あのままいたら魔物に食われてた」


「追ってきたのか?」


「来たら今ここにいねえよ」


「じゃあ襲われてねえじゃねえか」


「襲われる前に逃げたんだよ!」


 隣の男が吹き出す。


「笑い事じゃねえぞ。王都じゃ人まで魔物にされたって話じゃねえか」


 ハミルの指が、匙の柄に触れたまま止まった。


 レグルがちらりとこちらを見る。


「……そう聞きました」


「ほらな。あんなの見たら誰だって逃げる」


 男は満足したように頷いた。


 本人の中では、もう全部が一つの出来事になっている。


「魔物が増えたのって、最近なんですか?」


 話題を変えるように尋ねると、主人が鍋の蓋を戻しながら考えた。


「十日くらい前からかね。最初は西で一体出たって話だった」


「もっと前から見たって奴もいるぞ」


 目撃談をしていた男がすぐ口を挟む。


「お前は何でも知ってんな」


「客から聞くんだよ」


 主人が笑う。


「まあ、増えたのは確かだ。三日前なんか東の林で二体出た。あそこは普段なら風の小さいのとか、木の精霊がいるくらいで、魔物なんか滅多に出ねえのに」


「東の林に、精霊が?」


「ああ。人に害なんかない連中だ。昔からいる」


 ハミルはレグルを見る。


 レグルも食べる手を止めていた。


 十日ほど前から魔物が増えた。


 黒い人影を見たのは昨日。


 順番だけなら、魔物の方が先だ。


 けれど、それだけだった。


 黒い人影が十日前からこの辺りにいなかった証拠にはならないし、魔物が増えたことと無関係だとも言えない。


 戸が鳴れば皆が入口を見る。


 皆、魔王を怖がっている。


「お前らも、用がないなら東には行くなよ」


 主人が言った。


「魔王がどうこう以前に、魔物が出てるのは本当だからな」


「はい」


「お前、返事だけは素直だな」


 主人に言われ、ハミルは少し笑った。


「よく言われます」


「その後に言うこと聞かねえって続くけどな」


 レグルが横から足す。


「余計なこと言わなくていいだろ」


 主人が声を上げて笑った。


 目撃談の男はまだ隣の男に「本当に三体いたかもしれない」と言い張っている。


 外ではまた風が戸板を鳴らした。


     *


「……まだ、誰かが俺のふりしてるって決まったわけじゃないな」


 部屋へ戻ったあと、ハミルは言った。


 レグルが寝台へ腰を下ろす。


「じゃあ、今分かってんのは?」


 ハミルは少し考えた。


「この辺で魔物が増えてる。それはたぶん本当」


「たぶん」


「そこ拾う?」


「好きだなと思って」


「便利なんだよ」


「便利で使うな」


 ハミルは笑ってから、続けた。


「黒い人影を実際に見た人もいる。ただ、それが魔王かは分からない」


「で?」


「東の林には、元々精霊がいた」


 そこで一度言葉を切る。


「……明日、そっちを見に行きたい」


「結局行くんじゃねえか」


「宿の人には行かないって言ってない」


「屁理屈」


『同意する』


『二対一はずるくない?』


 ハミルは枕を抱えて寝台へ倒れた。疲れている。半日歩いた身体は正直だった。でも、嫌な疲れではない。


 黒い人影を追えば、また誰かの見たものを追いかけることになる。


 それより、自分たちで確かめられるものを見た方がいい。


 明日、東の林へ行く。


 何があるかは、まだ分からない。

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