第030話 陽炎
東の林は、昨日の森より明るかった。背の高い木々の間へ、朝の日差しが斜めに差し込んでいる。鳥の声もする。見た目だけなら、魔物が増えている場所には思えなかった。
「こっちで合ってるか?」
レグルが尋ねる。
「宿の主人は、この先って言ってた」
「人の話だけで森入るの、割と適当だよな」
「お前が言う?」
「俺は地元民だからいい」
「便利な立場だな」
『静かにせよ』
イルの声に、ハミルは口を閉じた。レグルもこちらを見て、足を止める。
いる。
昨日より濃い。精霊の気配。それと、穢れ。ただし一箇所ではない。林の奥へ、薄く広がっている。
「流れがある」
ハミルは目を細めた。
「何の?」
「穢れ」
風に乗る煙のように見えるわけではない。けれど、昨日から意識して追っているせいか、方向だけは分かる。東ではない。もっと北。林の奥から、こちらへ流れてくるような感覚。
「魔物を探すより、そっち追った方が早そうだな」
「たぶん」
進む。しばらくして、木々の隙間に小さな光が見えた。
精霊だった。掌ほどの大きさ。細い羽を持つ風の精霊が、枝の上で身を震わせている。ハミルたちを見ると逃げようとした。けれど、うまく飛べない。
「おい」
レグルが低く言う。
「近づくな」
「分かってる」
ハミルは数歩手前で止まった。精霊の核は見える。まだ黒く染まりきってはいない。ただ、表面に薄い穢れがまとわりついている。
魔化はしていない。昨日の魔物よりずっと手前だ。
「この辺にいるだけで、こうなるのか」
レグルの声が少し硬くなる。
「可能性はある」
『長く留まるな。レグルも影響を受ける』
「イルも、長居するなって」
ハミルが伝えると、レグルは眉を寄せた。
「分かってるよ。俺も魔物だからな」
「無理そうなら言って」
「お前にだけは言われたくねえ」
「何で」
「鏡見ろ」
「今は普通の顔だろ」
「そういう話じゃねえ」
言い合いながらも、二人とも足は止めなかった。林を抜けるにつれて地面が乾いていく。草が少なくなり、石が増える。
やがて、空気が変わった。
暑い。
季節のせいではない。頬へ当たる風そのものに熱がある。
「……何だこれ」
レグルが額を拭った。ハミルも外套の襟元を緩める。
遠くで、景色が揺れていた。
陽炎。
その向こうに、人影が立っている。細身。長い髪。燃えているわけではないのに、輪郭の周囲だけ空気が歪んでいる。
ハミルたちを見つけた瞬間、その人影が消えた。
『来るぞ』
イルの声と同時だった。
熱が横から叩きつける。ハミルは反射的に身を沈めた。頭の上を、白く焼けた刃のような熱風が走る。背後の木が焦げた。
「お――」
何だ、と言い切る前に、二撃目が来た。
レグルの影が伸び、熱を受ける。黒い影の表面が白く焼け、空気が弾けた。
「いきなり何だよ!」
「下がれ!」
怒声。人影が目の前に現れる。
男だった。赤銅色の髪。日差しを映したような金の瞳。美しいというより鋭い。その顔には、明確な敵意があった。
ハミルは男を見る。
目は合う。呼吸も乱れていない。少なくとも、完全に正気を失っているようには見えない。
「……話、できる?」
「黙れ!」
できなさそうだった。
熱の槍が飛ぶ。ハミルは横へ跳んだ。石が爆ぜる。
「ハミル!」
「分かってる!」
レグルが前へ出る。男の視線がレグルへ移り、そこで初めて、僅かに表情が変わった。
「魔物まで連れてきたか」
レグルの目が細くなる。
「分かるのかよ」
「今の俺にはな」
男は吐き捨てた。
「この辺りに満ちた穢れのせいで、嫌でも分かる」
その声に、わずかな苛立ちとは別のものが混じった。
疲労。
「近頃は、前なら気にも留めなかった程度の穢れまで鼻につく」
男の金の瞳が、今度はハミルへ向いた。
険しい。
「だから余計に気味が悪い」
「俺?」
「人間の形をしているくせに、人間だけの気配じゃない。穢れをまとっているのに、魔物とも違う」
空気が震える。
「……お前は何者だ」
「それは俺も――」
言い終える前に、男の手元で熱が膨らんだ。
「いや、待って。俺たちは何もしないから」
「信じると思うか」
「思わないけど。一回落ち着こう」
白い熱が放たれる。
「無理そうだな……」
「呑気に言ってる場合か!」
レグルの影が壁になって受ける。黒と白い熱がぶつかり、空気が弾けた。頬を熱が掠める。
冗談を挟む余裕はなかった。
相手は、本気で殺しに来ている。
ハミルは横へ回る。男の力の流れが見える。
強い。
けれど、乱れている。攻撃のたびに熱が膨らみ、その奥に薄い黒が混じる。
穢れ。
でも、違う。
レグルの発作の時とは違う。意識が飛んでいるわけではない。怒りも敵意も、全部本人のものだ。
「名前は?」
ハミルが叫ぶ。
「答えると思うか!」
「だよな!」
熱の線が走る。ハミルは身を捻って避けた。背後で石が弾ける。レグルが横から影を伸ばし、男は跳ぶ。
その瞬間を狙い、ハミルは力の流れへ触れた。熱が一方向へ集まる。そこを、少しだけ逸らす。
「――っ」
男の手から放たれた火線が、ハミルの肩を外れて地面へ突き刺さった。土が弾ける。
男の目が見開かれた。
「今、何をした」
「俺もまだうまく説明できない」
「ふざけるな」
「本当にね」
次が来る。ハミルは避ける。レグルが受ける。反撃は最低限。男を傷つけるためではなく、距離を作るためだけ。
数度それが続いたところで、男の攻撃が一瞬止まった。
荒い息の合間から、低い声が落ちる。
「……なぜ、撃ち返さない」
ハミルは息を整えながら答えた。
「だから、何もしないって言っただろ」
男は答えない。
熱も消えない。けれど、次の一撃は来なかった。
その時だった。
『陽炎か』
イルの声が低く響いた。
ハミルは息を止めた。
『知ってる?』
『太陽の眷属だ。名をエルガといったはずだ』
ハミルはすぐには口にしなかった。
目の前の男は、まだいつでも攻撃できる構えを崩していない。
「……イルが、お前を知ってる」
男の目が細くなった。
「何?」
「陽炎の精霊、エルガだって」
男が凍りついた。
「……イル?」
「今は俺の中にいる」
「あり得ない」
エルガと呼ばれた精霊が、ハミルを凝視する。何かを探るように目を細めたが、その表情はすぐに険しくなった。
「月の気配など、どこにもない」
「……月?」
聞き返したハミルを、今度はエルガが怪訝そうに見る。
『ならば、聞かせればよい』
次の瞬間、今までハミルの内側だけにあったイルの声が、外へ開いた。
「エルガ」
低く、静かな声だった。
エルガの目が見開かれる。レグルも、わずかに眉を上げた。
「……イル」
「久しいな」
エルガの周囲の熱が大きく揺らいだ。消えたわけではない。むしろ一瞬、制御を失ったように膨らみ、すぐに縮む。
「本当に……お前なのか」
「そうだ」
「月の精霊だったお前が、なぜそこにいる」
ハミルは思わず瞬いた。
月の精霊。
イルが。
けれど問い返すより先に、エルガの声が鋭くなる。
「いや、それより――お前は魔王になったはずだ」
空気が再び熱を帯びた。
「勇者に討たれたと聞いた。なのに、なぜ生きている。なぜその男の中にいる。その男は何だ」
矢継ぎ早の問いに、イルは少しも調子を変えなかった。
「長い話になる」
『それ、俺がよく言うやつ』
『黙っておれ』
「説明になっていない!」
エルガの怒声が林に響いた。
ハミルは口を挟めなかった。
月の精霊。
その言葉だけが、妙に頭に残っている。
「後で俺にも説明して」
『……善処する』
「たぶんしないやつだ、それ」
レグルが小さく鼻を鳴らした。
エルガはそんな二人を睨む。攻撃こそしてこないが、熱はむしろ先ほどより不安定に揺れていた。
イルが続けた。
「ソルガルトは無事か」
エルガの顔色が変わった。
その隣で、レグルも眉を寄せる。
「……ソルガルト?」
聞き覚えがある、というだけの反応ではなかった。
ハミルがちらりと見ると、レグルは北へ目を向けたまま口を閉じた。
「……名を出すな」
「やはり、近くにいるのだな」
「黙れ」
「周囲の穢れは、太陽の方角から流れている」
「黙れ!」
熱が爆ぜた。
今度は地面だけではなかった。白い熱がイルの声を発したハミルへ真っ直ぐ走る。
「ハミル!」
レグルの影が動くより先に、ハミルは前へ出た。
避けるのではなく、熱の流れを横へ逸らす。肩口を焼ける空気が掠めた。
そのまま懐へ入る。
「何を――」
エルガが腕を引くより早く、ハミルはその手首を掴んだ。
熱い。
皮膚が焼けるほどではない。それでも、人間の体温とは明らかに違う熱が掌へ伝わる。
「離せ!」
「ちょっとだけ」
「何が――」
触れた場所から、細い流れが見えた。
エルガの核にまとわりついていた穢れ。そのごく一部を、ハミルは自分の方へ引く。
黒いものが腕を伝って入り込む。
胸の奥が重くなった。
ほんの少し。
それだけで手を離す。
エルガが数歩飛び退いた。
「お前、何をした」
声から怒気が消えたわけではない。
ただ、先ほどとは違う。
エルガは自分の腕を見下ろし、それから胸元へ手を当てた。
周囲を歪ませていた熱が、わずかに静まっている。
「……穢れが」
「少しだけ、もらった」
「もらった、じゃねえよ」
レグルの声がすぐ横から飛んできた。
振り向くと、明らかに機嫌が悪い。
「お前、また勝手に引いたのか」
「少しだけだよ」
「量の話してねえ」
「でも、これくらいなら――」
「そういうのを勝手に決めるなって言ってんだよ」
ハミルは口を閉じた。
エルガが二人を見ている。
先ほどまでの、敵を見る目とは少し違っていた。
「……お前は、何だ」
ハミルは少し考えた。
「それ、俺も知りたい」
「ふざけているのか」
「割と本気」
エルガは何も言わなかった。
もう一度、自分の核を確かめるように胸元へ触れる。
長い沈黙のあと、エルガが息を吐いた。
「……話だけは聞いてやる。ただし、ここから先へ勝手に進むな。俺が止まれと言ったら止まれ。妙なことをしたら、その場で焼く」
「分かった」
「あと勝手に触るな」
「それも分かった」
「魔物、お前もだ」
「レグルだ」
「名前などどうでもいい」
「感じ悪いな、お前」
「お前に好かれる必要はない」
少しだけ、いつもの調子が戻ってきたレグルに、ハミルは息を吐いた。
殺される側と殺す側だったところから、ようやく言葉を交わせるところまで来ただけだ。
それで十分だった。
エルガはまだ警戒を解かないまま、ハミルたちを睨んでいた。
「それで」
低い声が落ちる。
「お前たちは、何を知りたい」




