第031話 太陽のところへ
「お前たちは、何を知りたい」
エルガはそう言ったものの、警戒を解いたわけではなかった。熱はまだ周囲に残っている。少しでも妙な動きをすれば、また飛んでくる。たぶん。
ハミルは一度、息を整えた。
「この辺で魔物が増えてる理由が知りたい。北から穢れが流れてるのは分かったけど、その先が分からないんだ」
「……それだけか」
「今は。聞いてるうちに増えるかもしれないけど」
エルガが露骨に眉を寄せた。
「……お前、妙に腹が立つな」
「まだそんなに喋ってないけどね」
「十分だ」
横でレグルが小さく笑った。
「気が合いそうでよかったな」
「どこが?」
「黙れ、魔物」
「レグルだっつってんだろ」
言い返したレグルを無視して、エルガは北を見た。
「魔物が増えた理由なら、俺にも分からない」
「じゃあ、何か起きてるのは知ってる?」
「……ああ」
短い返事だった。ハミルは待った。さっきまでなら、続けて問いを重ねていたかもしれない。けれど、エルガの拳がまだ固く握られているのが見えた。
話を聞くと言っただけだ。話すとは、まだ言っていない。
「周りの穢れは、北から流れてる」
代わりに、自分たちが分かっていることを口にした。
「林にいた精霊も魔化しかけてたし、昨日は魔物も見た。俺たちを襲うより、何かから逃げてるみたいだったけど」
エルガの眉がわずかに動く。
「……見たのか」
「うん。何か心当たりある?」
「そいつは……」
そこで言葉が止まった。エルガは目を逸らす。
その反応を見て、イルが低く言う。
「ソルガルトは」
その名が出た途端、エルガの表情が歪んだ。
握った拳に、さらに力が入る。
怒っているようには見えなかった。何かを堪えている。そんな顔だった。
ハミルは少し迷ってから尋ねた。
「……ソルガルトって、誰?」
エルガがこちらを見る。すぐには答えなかった。
「知らないのか。なのに、ここまで来た?」
「魔物が増えてるって聞いたから。気になって」
しばらく、エルガは何も言わなかった。
「……馬鹿なのか」
「よく言われる」
「褒めてねえぞ」
レグルが横から言った。
エルガは額を押さえた。張り詰めていたものを押し込めるように、ひとつ息を吐く。
「ソルガルト様は、太陽の精霊だ」
ようやく落ちた言葉に、ハミルは瞬いた。
「太陽?」
『そうだ』
イルが答える。
『我と同じ、高位の精霊だ』
「……イルと同じか」
ハミルはエルガを見る。エルガはまだ迷っていた。それでも、一度口を開いたからか、今度は少しだけ続いた。
「少し前から、あの方の周りに穢れが溜まり始めた」
「ソルガルト本人に?」
「……ああ」
「それって、魔化しかけて――」
熱が揺れた。
「その言い方をするな」
「ごめん。じゃあ……穢れに飲まれかけてる?」
「同じだろう」
「まあ、そうなんだけど」
「お前、本当に何なんだ」
「俺も知りたい」
エルガは深く息を吐いた。
「……まだ、話せる。自分が誰かも分かっている。だが、日に日に穢れが増えている」
「それが周りにも流れてるのか?」
「分からない。俺には、どこまでがあの方のものか分からない。ただ、あの方の近くほど濃い。それだけだ」
それなら、まだ何も決めつけられない。
「一度、会ってみたい」
「断る」
即答だった。
「……早いな」
「当たり前だ。なぜお前をあの方のところへ連れていく」
「まあ、そうだよな」
「そこで納得するなよ」
レグルが呆れたように言う。ハミルは頭を掻いた。
「じゃあ、どうしたら信用してもらえる?」
「信用するとは言っていない。話を聞くことと、あの方の前へ連れていくことは別だ」
「難しいな」
「お前が軽すぎるんだ」
エルガの声は冷たい。けれど、もう熱は飛んでこなかった。
そこでイルが言う。
「ハミルは、魔化しかけた精霊を戻したことがある」
エルガの視線が、ハミルの右手へ落ちた。先ほど、自分の穢れをほんの少し引かれた手だ。
「……さっきの、あれか」
「あれより多く引き受けて、元に戻したことがある」
エルガの顔から、初めて敵意が薄れた。代わりに浮かんだものを、ハミルは見逃さなかった。
期待。
けれど、それは一瞬で押し殺された。
「……あの方にも、できるのか」
ハミルは右腕を押さえた。
「全部じゃないんだ。俺が抱えられる分だけだから。ソルガルトにもできる、とは言い切れない」
エルガは黙ったまま、ハミルを凝視した。
「……やはり、妙だ。お前の気配は、人間のようで人間だけではない。魔物のようで、それとも違う」
ハミルはレグルを見る。
「前にも誰かに同じこと言われたな。やっぱりそう見えるんだ」
「知らねえよ。俺に聞くな」
エルガの視線が、今度はレグルへ移る。
「そいつにも、同じことをしているのか」
レグルの表情が少しだけ変わった。
「……必要な時だけな」
「一度ではない?」
「まあな。俺だって、できるならやらせたくねえよ」
その一言に、エルガが黙った。
「だから、できるかどうかを見るだけでも――」
「駄目だ」
答えは変わらない。ただ、今度は即座に背を向けなかった。
長い沈黙のあと、エルガがイルの声を発したハミルを見る。
「……お前が本当にイルなら、聞く。こいつを、あの方の前へ出していいと思うのか」
イルもすぐには答えなかった。
「害するつもりはない」
「それは聞いた」
「ならば、それ以上は我にも保証できぬ。決めるのはお前だ」
エルガの眉が寄る。
「……役に立たんな」
しばらく黙り、それから小さく息を吐いた。
「その言い方だけは、昔と変わらん」
「お前に言われる筋合いはない」
やがてエルガがハミルを見る。
「……勝手に近づくな。俺から離れるな。あの方に触れるな。何か妙なことをしたら、その場で焼く」
ハミルは一拍遅れて意味を理解した。
「……連れてってくれるの?」
「信用したわけではない」
「分かってる」
「本当に分かっているのか、お前は」
「たぶん」
レグルが何か言いたげにこちらを見たが、結局、口には出さなかった。エルガはまだ納得していない顔のまま、北へ身体を向けた。
「ついて来い」
*
エルガは、案内役としては最悪だった。
「速い。こっちは人間の足なんだよ」
「遅い。それに人間ではないだろう」
「そこ細かく突かなくていい」
前を行くエルガは振り返りもしない。ソルガルトのいる場所は、人里からかなり離れているらしい。道はやがて消え、岩場と低木だけになった。進むほど、空気に熱が混じる。
さっきエルガと戦った時の鋭い熱とは違う。もっと大きい。空そのものが近いような圧がある。
「ソルガルトって、昔からこんなところにいるの?」
「今だけだ。普段は世界中をふらついている」
『昔から変わらぬ』
イルが内側で呟いた。
『会ってたの?』
『度々な』
ハミルが少し笑う。
「イルが、昔から変わらないって」
エルガが足を緩めた。
「……月は、あの方と会っていたものな」
やがて、イルの声が外へ開く。
「度々な」
エルガの肩がわずかに動いた。まだ疑っている。それでも、その声を聞くたびに迷いが増しているようだった。
「そういえば、レグルも知ってるの?」
ハミルが隣へ尋ねる。
「ああ。何度かな」
『幼い頃にな』
「余計なこと言うなよ」
レグルはイルの気配を感じたのか、即座に返した。
「何でそこ隠すんだよ」
「隠してねえ。言う必要がねえだけだ」
エルガが振り返る。
「お前も、あの方を知っているのか」
「お前とは初対面だけどな。ソルガルトには何度か会ったことがある」
レグルは肩をすくめた。エルガは少し意外そうにレグルを見たが、それ以上は聞かなかった。
*
昼前、岩陰で休憩を取った。正確には、ハミルが勝手に座った。
「休む。腹減った」
「まだ着いていないぞ」
エルガが信じられないものを見る顔をした。レグルはもう荷物を下ろしている。
「諦めろ。こいつ、腹減ると露骨に動き悪くなるぞ」
「子どもか」
「身体は十九くらいだよ」
「余計面倒だな」
ハミルは干し肉とパンを受け取った。
「ソルガルトも、人間の飯って食べるの?」
何気なく聞くと、エルガの顔に微妙な疲れが浮かんだ。
「食べる。むしろ好んで食べる」
「俺が会った時も、飯の匂いにつられて勝手にどっか行ってたな」
レグルが笑う。
「そんなに好きなの?」
「昔からだ。人間の祭りにも勝手に混ざる。我も何度か連れ出された」
イルの声が外へ開いた。
「イルを祭りに?」
「断ったが、聞かぬ」
ハミルは少し笑った。あのイルを無理やり祭りへ連れていく姿は、ちょっと見てみたかった。
エルガが、ほんの少し口元を緩めた。
「……あの方も、よく月の話をしていた。無愛想で、呼んでも来ない。放っておけばもっと来ない、と」
「当たり前だ」
「あと、褒めると嫌そうな顔をするから面白い、と」
イルが黙った。ハミルは吹き出した。
『今、嫌そうな顔してる?』
『見えぬことを幸運に思え』
その返事は、ハミルにしか聞こえない。笑っているハミルを見て、レグルが察したように肩を揺らし、エルガも一瞬だけ息を漏らす。
けれど、ハミルはそれを信用されたのだとは思わなかった。ただ、ソルガルトの話をしている時だけ、この精霊の声から棘が少し抜ける。それだけで、エルガにとってどれほど大事な相手なのかは十分伝わった。
*
午後になって、景色が変わった。木が消え、地面は赤茶けた岩と乾いた土だけになる。その先に、巨大な窪地があった。
中心へ近づくほど、空気が霞んでいる。熱だけではない。
黒い。
薄い穢れが幾重にも重なり、遠くの景色を曇らせている。ハミルは息を呑んだ。これまで見ていたものとは規模が違う。森へ散っていた穢れは、ここから流れ出していたのだ。
「この中にソルガルトがいるのか」
レグルの声から笑いが消える。
「ああ。ここ数日で急に悪くなった」
「本人は、まだ話せるんだよな?」
「……ああ。まだな」
まだ。
その言葉が重い。
窪地へ足を踏み入れた瞬間、ハミルの右腕が熱を持った。周囲の穢れが、自分へ反応している。
『ハミル』
『分かってる。引かない』
今ここで、周囲の穢れをまとめて抱える真似はしない。許容量が無限ではないことは、もう知っている。
しばらく進んだところで、エルガの足が止まった。
岩陰に、精霊が一体倒れている。
すでに魔化していた。ときおり身体が小さく痙攣する。それでも、こちらへ襲いかかってくる気配はなかった。
「……またか」
エルガの声が低く落ちる。
その顔を見て、ハミルはようやく気づいた。エルガが言っていた「周りの精霊まで変わり始めた」というのは、こういうことだったのだ。
「この辺にいた精霊?」
「ああ。昨日までは、まだこいつも……」
エルガは倒れた精霊から目を逸らさない。言葉はそこで途切れた。
ハミルはしゃがみ込み、核を見る。黒く染まりきった核から漂う穢れは、この窪地を満たす靄と同じ気配をしていた。
一体だけではないのだ。
ソルガルトの周囲に溢れた穢れに、近くにいた精霊たちまで呑まれ始めている。
「……それで、ここまで離れたのか」
エルガが小さく頷いた。
「昨日までは、もっと人里に近いところにいた。だが、周りの精霊まで変わり始めてしまった。だから、ここまで移った」
「昨日まで?」
「ああ」
昨日。
北の林で、真っ黒な人影を見たという男の話が脳裏をよぎる。顔は見えなかった。近くには魔物がいた。
あの男が見たものは――。
ハミルは先を見る。自分が異変の中心だと気づいて、人から離れた。王都から逃げた自分と、少し似ている。
窪地の最奥。黒い靄の向こうに、大きな人影があった。岩へ背を預け、動かない。
遠くからでも分かるほど巨大な核。そのほとんどが、深い穢れに覆われている。
ハミルは足を止めた。
「……あれが」
エルガが答える。
「太陽の精霊、ソルガルトだ」




