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世界が彼を魔王と呼ぶまで  作者: ぶん吉
第二章

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第032話 引き受ける

 黒い靄の向こうで、男がゆっくり顔を上げた。


 大柄な身体を包むように、黒いものが絶えず揺れている。皮膚のところどころにはひび割れのような黒い筋が走り、瞳も濁っていた。


「ソルガルト様」


 エルガが一歩前へ出た。


 返事はない。


「私です。エルガです」


 男の顔がわずかに動く。声を追ったようにも見えたが、その目には何も浮かばなかった。


 次の瞬間、地面が弾けた。


「下がれ!」


 レグルの声と同時に、ハミルは横へ跳んだ。さっきまで立っていた場所を、白熱した光が抉っていく。遅れて熱風が頬を打った。


「……ソルガルト様」


 エルガの声が掠れる。


 男は聞いていない。最も近くにいたエルガへ腕を振り上げ、光を叩きつけた。


 エルガが受け止める。激しい光がぶつかり、窪地が白く染まった。


「ソルガルト様!」


 叫んでも、届かない。


 今度はレグルへ向く。影が地面から伸びて腕へ絡みつくが、ソルガルトは力任せに引き千切った。そのままハミルへ視線を移し、また光が集まり始める。


 誰を狙っているわけでもない。近くで動くものへ、ただ攻撃している。


『……正気を失っておる』


 イルの声が低く響いた。


『魔化したばかりで、穢れに呑まれ己を見失っているのであろう。我の時とは違う。まだ完全に馴染んではおらぬ』


『じゃあ』


『引き戻せるやもしれぬ。だが、我にも分からぬ』


 ハミルはソルガルトを見る。


 核は見える。大きい。今まで見た精霊の核とは単純な強弱では比べられないほどの力があり、そのほとんどを黒い穢れが覆っていた。


 完全に黒へ沈んでいるわけではない。奥に、まだ光が残っている。


「じゃあ、やってみる」


『ハミル』


「何をだ」


 レグルが影で光を逸らしながら怒鳴る。


「穢れを引く。魔化する前まで戻せるかもしれない」


「かもしれないって、お前」


「分からない。でも、何もしなかったら戻らない」


 レグルが何か言いかけたところへ、ソルガルトが踏み込んだ。エルガが割って入り、その腕を受ける。足元の岩が砕けた。


 エルガの顔が歪む。痛みだけではなかった。


「……本当に、戻せるのか」


 ハミルは一瞬だけ黙った。


「分からない」


 エルガがこちらを見る。


「でも、やる」


 信じてくれとは言えなかった。自分にも確証はない。それでも、できるかもしれないことが目の前にあるなら、試すしかない。


 エルガはソルガルトへ視線を戻した。自分を見ても何も分からないその目を、ほんの一瞬だけ見つめる。


「……何をすればいい」


「触れたい。少しだけ止めて」


「分かった」


 エルガが前へ出た。


 ソルガルトの光を正面から受け、横へ流す。その隙にレグルの影が地面を走り、両脚へ絡みついた。


「今だ!」


 ハミルは駆けた。


 三歩も進まないうちに、影が弾けた。


「っ、駄目だ!」


 レグルの声より早く、ソルガルトが振り向く。腕が薙がれ、白い光が横一線に走った。


 避けるより先に、ハミルは手を向けた。


 光そのものではなく、その内側を走る力の流れを探る。レグルとの手合わせで掴んだ感覚と同じだった。見つけた流れへ触れ、横へ押す。


「――重っ」


 ほとんど動かない。


 それでも軌道がわずかに上へ逸れた。ハミルは身を沈め、頭上を通り過ぎた熱の下へ滑り込む。そのまま地面を蹴り、懐へ入ろうとした。


 今の身体なら、動ける。


 以前の自分なら間に合わなかった距離を、一息で詰める。けれど、ソルガルトはさらに速かった。踏み込んだ足が地面を砕き、肩からぶつかってくる。


「――っ!」


 腕を交差させて受けた瞬間、身体が浮いた。


 背中から岩場へ叩きつけられる。肺から息が抜けた。


「ハミル!」


「平気!」


 咳き込みながら起き上がる。腕が痺れている。昔よりも頑丈になった身体でこれなら、まともに何度も受けるのはまずい。


 ソルガルトはもうハミルを見ていなかった。起き上がったエルガへ光を放ち、避けた先へ続けてもう一撃を叩き込む。レグルの影が横から腕を取るが、それすら振りほどかれた。


「力任せにも程があんだろ……!」


 レグルが舌打ちする。


 エルガが低く身を沈め、ソルガルトの懐へ潜った。拳を腹へ打ち込む。鈍い音がしたが、ソルガルトは揺らいだだけだった。


「ソルガルト様、いい加減に――」


 言葉の途中で腕を掴まれる。


「エルガ!」


 ハミルは考えるより先に走った。


 ソルガルトがエルガを投げる。ハミルはその身体を横から受け止め、勢いのまま二人で地面を滑った。


「……すまない」


「そういうのはあとで!」


 すぐに立つ。


 また光が来る。


 今度は避けるだけではなく、流れを見る。さっき無理に動かそうとして分かった。全部を曲げる必要はない。


 自分一人が通れるだけでいい。


 ぎりぎりまで引きつけ、力の偏りへ手をかける。横へ押すと、先ほどより小さく、それでも確かに光の軌道がずれた。


 できた隙間へ身体を滑り込ませる。頬が焼けるように熱く、外套の肩口が焦げた。それでも距離は縮まった。


 手を伸ばす。


 あと少し。


 ソルガルトの肘が脇腹へ入った。


 息が詰まり、ハミルは横へ転がった。


「くそ……触るだけなのに」


「相手が悪いんだよ!」


 レグルの影がハミルの前へ壁のように立ち、追撃の光を逸らす。だが影の端が焼けるように崩れ、レグルが顔をしかめた。


 簡単には止まらない。三人で囲んでも、一瞬の隙すら長く続かなかった。


 それでも、何度か攻撃を受けるうちに分かってきたことがある。ソルガルトに狙いはない。最も近くで大きく動いたものへ反応し、その次に動いたものへ意識が移る。


「エルガ」


「ああ」


 それだけで伝わったらしい。


 エルガが大きく踏み込んだ。ソルガルトの注意がそちらへ向く。放たれた光を正面から受け、歯を食いしばりながら横へ流した。


 レグルの影が同時に走る。今度は両脚だけではない。地面から何本もの影が立ち上がり、腰と腕へ絡みついた。


「長くは無理だ!」


 ソルガルトが吠える。影が一本、二本と千切れていく。


 ハミルは走った。


 光が飛ぶ。


 もう正面から力比べはしない。流れへ触れ、必要な分だけ逸らす。光が肩のすぐ横を抜け、背後の地面を抉った。


 次の一撃にも手を伸ばす。完全には曲がらない。それでも軌道を数寸ずらせば、今の身体なら抜けられる。


 影がまた千切れた。


 ソルガルトの腕が上がる。


 ハミルはその手首を両手で掴み、勢いを殺しきれないまま身体ごと横へ流した。足元が滑る。それでも離さない。


「今だ!」


 エルガが反対の腕へしがみついた。


 レグルの影が残った片脚へ巻きつく。


 ようやく、一瞬だけソルガルトの身体が止まった。


 ハミルは手を離し、そのまま胸元へ掌を押し当てた。


 熱い。


 火ではない。夏の日差しへ長く手をかざした時のような、芯まで届く熱。その奥に、どろりと重い黒い流れがある。


 穢れ。


 引く。


 自分へ。


「――っ」


 右腕の紋様が一気に熱を持った。黒いものが流れ込んでくる。重い。レグルから引いた時とは比べものにならない。


 ソルガルトが吠えた。言葉ではない声とともに身体が暴れ、ハミルの手が離れかける。


「ハミル!」


 レグルの影がさらに食い込む。エルガも腕を押さえ込む。


 ハミルはもう一度引いた。


 少しずつ。引いて、止める。身体の中で位置を確かめ、また引く。


『急ぐな。量が違う』


『分かってる』


 何度目かで、ソルガルトの動きがわずかに鈍った。


 濁った瞳の奥に、一瞬だけ色が戻ったように見えた。


「ソルガルト様!」


 エルガが呼ぶ。


 けれど、次の瞬間にはまた黒く濁る。ソルガルトが腕を振り払い、エルガが地面へ転がった。


「エルガ!」


「構うな! 続けろ!」


 エルガはすぐ起き上がった。声は震えていたが、足は止まらない。


 ハミルは引き続けた。


 戦闘で打ちつけた背中と脇腹が、呼吸のたびに痛む。その上から、右腕の重さが増していく。視界の端も少しずつ暗くなり、身体の奥ではイルとは別の黒いものが確実に膨らんでいた。


「ハミル」


 レグルの声が近い。


「まだ平気」


「……そう見えねえけどな」


 返そうとした瞬間、頬の表面を何かが剥がれる感覚がした。


 焦げ茶だった髪が根元から黒へ戻る。瞳を覆っていた影も消え、本来の漆黒が露わになった。


「おい、ハミル」


「分かってる」


「何が分かってんだよ」


 レグルの声が低くなる。


 ハミルは答えず、もう一度穢れを引いた。


 右腕の紋様が焼けるように痛んだ。息を吸ったはずなのに、うまく入ってこない。足に力が入らず、一瞬だけ膝が沈む。


 それでも手を離さなかった。


「……もういい。止めろ」


 今度の声には、さっきまでの苛立ちがなかった。


「待って」


「待たねえ」


 レグルがハミルの腕を掴む。


「擬態が剥がれただけじゃねえ。息もおかしい。立ててもねえだろ」


 正しかった。穢れを引く流れの中へレグルの術まで巻き込み、身体の感覚まで鈍っている。


 それでもソルガルトの核を見ると、黒は確実に薄くなっていた。まだ多い。だが、奥の光がさっきよりはっきり見える。


「あと少し」


「その『あと少し』で前も限界越えただろ」


 掴む手に力が入る。


「俺は、お前が誰か助けるの止めたいわけじゃねえ。でも、お前が代わりに壊れるなら同じだろ」


 ハミルは答えられなかった。


 ソルガルトが再び暴れる。影が軋み、レグルの身体が引かれた。


 その時、エルガがハミルを見た。


 迷いも疑いも、まだその顔に残っている。それでも、もう他に言葉はなかったのだと思う。


「……頼む」


 絞り出すような声だった。


 ハミルは頷いた。


『ハミル』


 イルの声が響く。


『次で終われ。一度だけ、大きく引け』


『うん』


「一回だけ」


 レグルがハミルを見る。


「……イルもそう言ってんのか」


「うん」


 数秒の沈黙のあと、レグルは掴んでいた腕を離した。


「絶対そこで終われ」


「分かった」


 今度の返事は軽くしなかった。


 ハミルはソルガルトへ両手を当てた。


 引いた。


 大きく。


 黒い穢れが一気に流れ込む。右腕が焼けるように熱くなり、右目の奥へ鋭い痛みが走った。膝が落ちそうになる。身体の奥で何かが軋む。


 それでも手を離さない。


 ソルガルトの核を覆っていた黒が、剥がれる。


 全部ではない。奥にはまだ穢れが残っている。それでも、核そのものの光が黒の中から姿を現した。


『そこまでだ!』


 イルの声と同時に、ハミルは手を離した。


 ソルガルトの身体から力が抜ける。


「ソルガルト様!」


 エルガが受け止めた。


 ハミルもその場に膝をつきかけ、レグルに肩を掴まれる。


「馬鹿」


「……倒れてない」


「今はな」


 言い返す力もなく、ハミルは息を整えた。


 窪地が、静かだった。


 さっきまで絶えず揺れていた黒い靄が薄れている。エルガの腕の中で、ソルガルトは目を閉じたまま動かない。


「ソルガルト様」


 返事はなかった。


 エルガがもう一度名前を呼ぶ。


 ハミルは核を見る。


 黒は残っている。それでも、もうすべてを覆ってはいない。奥から確かに光が見えていた。


 戻せたのか。


 まだ、分からない。


 ただ、さっきまでの濁った気配だけは消えていた。


 ハミルはレグルに支えられたまま、目を閉じたソルガルトを見つめた。

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