第033話 戻ってきた太陽
どれくらいそうしていたのか分からない。
エルガは地面へ膝をつき、ソルガルトの身体を支えたまま動かなかった。何度か名前を呼んだが返事はなく、それでも胸元に見える核からは、黒に覆われきっていた時にはなかった光が漏れている。
ハミルは少し離れた場所で、レグルに肩を借りながら呼吸を整えていた。右腕はまだ熱を持ち、身体の内側には引き受けた穢れの重さが残っている。
「……生きてはいるんだよな」
レグルが低く言った。
「うん。核は戻ってる。全部じゃないけど」
「じゃあ何で起きねえ」
「分からない」
答えながら、ハミルはソルガルトから目を離せなかった。
戻せるかもしれないと思った。実際、穢れは引けた。けれど、それで正気まで戻るのかは誰にも分からない。
エルガの指が、ソルガルトの肩へ食い込んでいる。
「……ソルガルト様」
今度の呼びかけは小さかった。
その直後だった。
ソルガルトの指が動いた。
エルガが息を止める。
ゆっくりと瞼が上がった。濁っていた瞳に、今度ははっきりと色がある。焦点が定まるまで少し時間がかかり、それから視線が自分を支えているエルガへ向いた。
「……エルガ」
エルガは答えなかった。
肩を支えていた手に、わずかに力が入る。
ほんの一瞬だけ、何かを堪えるように目を伏せた。そのまま呼吸をひとつ置いて、ようやく顔を上げる。
「……はい」
いつも通りの返事だった。ただ、その一言が出るまでが少し長かった。
ソルガルトはしばらくエルガを見ていた。何かがおかしいと気づいたらしい。眉を寄せる。
「何だ、その顔」
「誰のせいだと思っているんですか」
「俺?」
「他に誰がいるんです」
声に怒りが戻った。
それを聞いたソルガルトが、少しだけ目を丸くする。
エルガは睨んだままだった。けれど、その手はまだソルガルトの肩から離れていない。
ハミルはようやく少しだけ息を吐いた。
ソルガルトは身体を起こそうとして、すぐ顔をしかめた。
「重っ……何だこれ」
「動かないでください」
「いや、でも――」
「動かないでください」
「はい」
大柄な男が素直に止まる。
レグルが小さく鼻を鳴らした。
「変わってねえな」
ソルガルトの顔がそちらへ向く。
数秒、じっと見る。
「……影?」
レグルが眉を上げた。
「久しぶりだな、おっさん」
ソルガルトの目が見開かれる。
「お前、レグルか!」
「声でけえよ」
「でかくなったじゃねえか!」
「おかげさまでな」
ハミルは二人を見比べた。何度か会っただけと聞いていたわりに、ずいぶん昔から知っているような空気だった。
ソルガルトはレグルを上から下まで眺め、もう一度顔を見る。
「ちゃんと育ったなあ」
「何目線だよ」
「いや、だって昔はもっとちっこかっただろ」
「いつの話してんだ」
レグルは鬱陶しそうに返したが、追い払うような調子ではなかった。
だが、ソルガルトの笑みはすぐ消えた。
「……待て。何でお前がここにいる」
「話すと長え」
「長くてもいい。何で――」
「おっさん」
「あ?」
「人のこと気にする前に、自分の状況考えろ」
言われて、ソルガルトが眉を寄せる。
ようやく自分の身体へ目を向けた。腕には黒い筋が残り、身体にはまともに力が入っていない。少し離れた地面は焼け焦げ、エルガの服にも戦った跡がある。
ソルガルトの表情から、再会の驚きがゆっくり消えた。
「……俺、何してた?」
エルガの表情が固くなる。
ソルガルトは自分の腕を見る。身体の周囲にも、まだわずかな穢れが漂っている。
「途中から、ほとんど覚えてねえ。熱くて、うるさくて……何かに腹が立ってた気はする。でも何に怒ってたのかも分からん」
「私たちを襲っていました」
「……俺が?」
「私のことも分かっていませんでした」
ソルガルトが黙る。
自分の腕へ視線を落としたまま、動かない。
「……魔化してたのか」
今度の声は低かった。
「はい」
返事を聞いても、すぐには顔を上げなかった。
ソルガルトの指が、腕に残った黒い筋をなぞる。その指先が途中で止まる。
「俺が、お前を襲った」
「私だけではありません」
「そういう問題じゃねえだろ」
珍しく、エルガが何も返さなかった。
ソルガルトは目を閉じた。ほんの少し前まで、自分の名も分からず、近くにいるものへ無差別に力を振るっていた。その事実を、自分の中へ落とし込んでいるように見えた。
やがて目を開き、エルガを見る。
「……悪かった」
「謝るくらいなら、もう二度とこんな状況にならないでください」
「それができるならそうする」
「なら原因を探しましょう」
エルガの返事は早かった。
「二度と同じことにならないように」
ソルガルトは少しだけ目を細め、それから頷いた。
「ああ」
そこで初めて、ソルガルトの視線がハミルへ向いた。
擬態は剥がれたままだ。黒い髪。黒い瞳。右腕には紋様が浮かんでいる。
ソルガルトは露骨に目を細めた。
「……誰だ、お前」
「ハミル」
「それは名前だろ」
「今のところ、それ以上は俺もよく分かってないんだよね」
「何だそりゃ」
ソルガルトは眉を寄せたまま、エルガへ視線を戻した。
「で、何があった?」
「何が、とは」
「俺が魔化してたのは分かった。何で今はこうして喋れてる?」
エルガは一度、ハミルへ目を向けた。
その視線を追って、ソルガルトも再びハミルを見る。
「……彼が、あなたの穢れを自分へ引き受けているように見えました」
「こいつが?」
ソルガルトがもう一度、まじまじとハミルを見る。
「俺のを?」
「全部じゃないよ。俺も全部は無理だった。魔化が解けるくらいまで」
「魔化が、解ける?」
その言葉を確かめるように繰り返す。
今度はハミルではなく、自分の胸元へ視線を落とした。
「……そうか、俺、戻れたのか」
「少なくとも今は、エルガのこと分かってるだろ」
ソルガルトは隣を見る。
エルガが無言で見返す。
「ああ」
それから、ようやくハミルへ視線を戻した。
「そんなこと、できんのか」
「できるかは分からなかった」
「は?」
「戻せるかもしれないって言われたから、やってみた」
ソルガルトが口を開けたまま止まった。
「……お前、それで俺の穢れ引いたのか?」
「うん」
「失敗したら?」
「どうなってたんだろうね」
ソルガルトはしばらくハミルを見た。
「……変な奴だな、お前」
「そうかな」
「普通、分からねえままそこまでやらねえよ」
呆れたように言ってから、ソルガルトはふっと表情を緩めた。
「まあ、何にせよ助かった。礼を言う」
「うん」
その時、低い声が窪地へ響いた。
「相変わらず暑苦しい男よ」
ソルガルトの動きが止まる。
顔から表情が消えた。
「……今の」
ハミルは少しだけ笑った。
「聞き覚えある?」
「あるも何も……」
ソルガルトは周囲を見回した。けれど、当然どこにも声の主らしい姿はない。
やがて、その視線がハミルへ戻る。
「……月?」
さっきまでの大声が嘘のように小さかった。
短い沈黙。
「久しいな、ソルガルト」
今度ははっきりと、イルの声が、窪地へ響いた。
ソルガルトの目が大きく見開かれる。
「……本当に?」
「何を疑っておる」
「いや、だって、お前――」
言葉が途切れる。
レグルと再会した時とは違った。
笑うでも叫ぶでもなく、ソルガルトはしばらくハミルを見つめていた。正確には、その中にいるはずの誰かを見ようとしているようだった。
何か言おうとして口を開き、閉じる。
もう一度、開く。
「生きてたのか」
「存在はする。見えないがな」
「……そうか」
その二文字だけが、妙に静かだった。
誰もすぐには口を挟まなかった。
ソルガルトは俯き、片手で顔を覆った。肩がわずかに揺れたので、ハミルは泣いているのかと思った。
けれど、聞こえてきたのは小さな笑い声だった。
「……ほんと、お前はしぶてえな」
「貴様に言われたくはない」
「そりゃそうだ」
また少し、沈黙する。
「俺、お前が魔王になったって聞いて…」
そこまで言って、ソルガルトは首を振った。
「……いや。今はいいや」
「何だ。言いかけてやめるな」
「うるせえ。こっちは今、頭ん中ぐちゃぐちゃなんだよ」
「それは昔からであろう」
「お前、再会一発目で喧嘩売るのやめろよ!」
声が戻った。
その大声に、レグルが呆れたように息を吐く。
「変わってねえな、ほんと」
ソルガルトはもう一度だけハミルを見た。
その目にはまだ驚きが残っていたが、さっきまでの張りつめたものは少し薄れている。
「……まあ、生きてんならいい」
「“生きてる”とも言いがたいがな」
「細けえなあ」
そう返してから、ソルガルトの動きが止まった。
「……いや、待て」
「何だ」
「何でお前、こいつの中から声が聞こえるんだ?」
今さらそこへ思考が追いついたらしい。
ソルガルトはハミルをじろじろと見る。次いで、姿のないイルを探すように周囲へ目をやった。
「声はお前だ。喋り方もお前。なのに姿はねえ。気配も……何だこれ。お前、生きてんのか? 死んでんのか?…いや、それよりも、どこにいるんだ?」
「さてな」
「さてな、じゃねえよ! こんなの聞いたことねえぞ!」
ハミルは思わず笑った。
ソルガルトが大きく息を吐く。顔を手で覆い、そのまま今度こそ声を上げて笑った。
「何だよ。今日、何個驚けばいいんだ俺は」
「知らねえよ」
レグルが返す。
「影はでかくなってる。月は知らん奴の中にいる。俺は魔化してたらしい。それをその知らん奴に戻された」
「まとめるとひどいな」
「だろ!」
ようやくソルガルトらしい大声が戻った。
だが、またハミルを見る。
「で、お前は何なんだ?」
「だから分からないんだって」
「人間じゃねえのか?」
「たぶん、もう普通の人間じゃない」
「精霊?」
「そうでもないらしい」
「月は中にいる」
「いる」
「俺の穢れを引ける」
「引けた」
ソルガルトが腕を組もうとして、痛みに顔をしかめた。エルガが無言で睨み、慌てて腕を戻す。
「……なるほど」
「何が?」
「何も分からん!」
「だよね」
ハミルは笑った。
ソルガルトも少し遅れて笑う。その笑い声を聞きながら、エルガが目を伏せた。今度は悲しそうには見えなかった。
戻ってきたのだ。
まだ穢れは残っている。原因も分からない。ハミルの身体にも、引き受けたものが確かに増えた。
それでも、ソルガルトはエルガの名を呼び、レグルを覚えていて、イルと言い合っている。
今は、それで十分だった。




