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世界が彼を魔王と呼ぶまで  作者: ぶん吉
第二章

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第033話 戻ってきた太陽

 どれくらいそうしていたのか分からない。


 エルガは地面へ膝をつき、ソルガルトの身体を支えたまま動かなかった。何度か名前を呼んだが返事はなく、それでも胸元に見える核からは、黒に覆われきっていた時にはなかった光が漏れている。


 ハミルは少し離れた場所で、レグルに肩を借りながら呼吸を整えていた。右腕はまだ熱を持ち、身体の内側には引き受けた穢れの重さが残っている。


「……生きてはいるんだよな」


 レグルが低く言った。


「うん。核は戻ってる。全部じゃないけど」


「じゃあ何で起きねえ」


「分からない」


 答えながら、ハミルはソルガルトから目を離せなかった。


 戻せるかもしれないと思った。実際、穢れは引けた。けれど、それで正気まで戻るのかは誰にも分からない。


 エルガの指が、ソルガルトの肩へ食い込んでいる。


「……ソルガルト様」


 今度の呼びかけは小さかった。


 その直後だった。


 ソルガルトの指が動いた。


 エルガが息を止める。


 ゆっくりと瞼が上がった。濁っていた瞳に、今度ははっきりと色がある。焦点が定まるまで少し時間がかかり、それから視線が自分を支えているエルガへ向いた。


「……エルガ」


 エルガは答えなかった。


 肩を支えていた手に、わずかに力が入る。


 ほんの一瞬だけ、何かを堪えるように目を伏せた。そのまま呼吸をひとつ置いて、ようやく顔を上げる。


「……はい」


 いつも通りの返事だった。ただ、その一言が出るまでが少し長かった。


 ソルガルトはしばらくエルガを見ていた。何かがおかしいと気づいたらしい。眉を寄せる。


「何だ、その顔」


「誰のせいだと思っているんですか」


「俺?」


「他に誰がいるんです」


 声に怒りが戻った。


 それを聞いたソルガルトが、少しだけ目を丸くする。


 エルガは睨んだままだった。けれど、その手はまだソルガルトの肩から離れていない。


 ハミルはようやく少しだけ息を吐いた。


 ソルガルトは身体を起こそうとして、すぐ顔をしかめた。


「重っ……何だこれ」


「動かないでください」


「いや、でも――」


「動かないでください」


「はい」


 大柄な男が素直に止まる。


 レグルが小さく鼻を鳴らした。


「変わってねえな」


 ソルガルトの顔がそちらへ向く。


 数秒、じっと見る。


「……影?」


 レグルが眉を上げた。


「久しぶりだな、おっさん」


 ソルガルトの目が見開かれる。


「お前、レグルか!」


「声でけえよ」


「でかくなったじゃねえか!」


「おかげさまでな」


 ハミルは二人を見比べた。何度か会っただけと聞いていたわりに、ずいぶん昔から知っているような空気だった。


 ソルガルトはレグルを上から下まで眺め、もう一度顔を見る。


「ちゃんと育ったなあ」


「何目線だよ」


「いや、だって昔はもっとちっこかっただろ」


「いつの話してんだ」


 レグルは鬱陶しそうに返したが、追い払うような調子ではなかった。


 だが、ソルガルトの笑みはすぐ消えた。


「……待て。何でお前がここにいる」


「話すと長え」


「長くてもいい。何で――」


「おっさん」


「あ?」


「人のこと気にする前に、自分の状況考えろ」


 言われて、ソルガルトが眉を寄せる。


 ようやく自分の身体へ目を向けた。腕には黒い筋が残り、身体にはまともに力が入っていない。少し離れた地面は焼け焦げ、エルガの服にも戦った跡がある。


 ソルガルトの表情から、再会の驚きがゆっくり消えた。


「……俺、何してた?」


 エルガの表情が固くなる。


 ソルガルトは自分の腕を見る。身体の周囲にも、まだわずかな穢れが漂っている。


「途中から、ほとんど覚えてねえ。熱くて、うるさくて……何かに腹が立ってた気はする。でも何に怒ってたのかも分からん」


「私たちを襲っていました」


「……俺が?」


「私のことも分かっていませんでした」


 ソルガルトが黙る。


 自分の腕へ視線を落としたまま、動かない。


「……魔化してたのか」


 今度の声は低かった。


「はい」


 返事を聞いても、すぐには顔を上げなかった。


 ソルガルトの指が、腕に残った黒い筋をなぞる。その指先が途中で止まる。


「俺が、お前を襲った」


「私だけではありません」


「そういう問題じゃねえだろ」


 珍しく、エルガが何も返さなかった。


 ソルガルトは目を閉じた。ほんの少し前まで、自分の名も分からず、近くにいるものへ無差別に力を振るっていた。その事実を、自分の中へ落とし込んでいるように見えた。


 やがて目を開き、エルガを見る。


「……悪かった」


「謝るくらいなら、もう二度とこんな状況にならないでください」


「それができるならそうする」


「なら原因を探しましょう」


 エルガの返事は早かった。


「二度と同じことにならないように」


 ソルガルトは少しだけ目を細め、それから頷いた。


「ああ」


 そこで初めて、ソルガルトの視線がハミルへ向いた。


 擬態は剥がれたままだ。黒い髪。黒い瞳。右腕には紋様が浮かんでいる。


 ソルガルトは露骨に目を細めた。


「……誰だ、お前」


「ハミル」


「それは名前だろ」


「今のところ、それ以上は俺もよく分かってないんだよね」


「何だそりゃ」


 ソルガルトは眉を寄せたまま、エルガへ視線を戻した。


「で、何があった?」


「何が、とは」


「俺が魔化してたのは分かった。何で今はこうして喋れてる?」


 エルガは一度、ハミルへ目を向けた。


 その視線を追って、ソルガルトも再びハミルを見る。


「……彼が、あなたの穢れを自分へ引き受けているように見えました」


「こいつが?」


 ソルガルトがもう一度、まじまじとハミルを見る。


「俺のを?」


「全部じゃないよ。俺も全部は無理だった。魔化が解けるくらいまで」


「魔化が、解ける?」


 その言葉を確かめるように繰り返す。


 今度はハミルではなく、自分の胸元へ視線を落とした。


「……そうか、俺、戻れたのか」


「少なくとも今は、エルガのこと分かってるだろ」


 ソルガルトは隣を見る。


 エルガが無言で見返す。


「ああ」


 それから、ようやくハミルへ視線を戻した。


「そんなこと、できんのか」


「できるかは分からなかった」


「は?」


「戻せるかもしれないって言われたから、やってみた」


 ソルガルトが口を開けたまま止まった。


「……お前、それで俺の穢れ引いたのか?」


「うん」


「失敗したら?」


「どうなってたんだろうね」


 ソルガルトはしばらくハミルを見た。


「……変な奴だな、お前」


「そうかな」


「普通、分からねえままそこまでやらねえよ」


 呆れたように言ってから、ソルガルトはふっと表情を緩めた。


「まあ、何にせよ助かった。礼を言う」


「うん」


 その時、低い声が窪地へ響いた。


「相変わらず暑苦しい男よ」


 ソルガルトの動きが止まる。


 顔から表情が消えた。


「……今の」


 ハミルは少しだけ笑った。


「聞き覚えある?」


「あるも何も……」


 ソルガルトは周囲を見回した。けれど、当然どこにも声の主らしい姿はない。


 やがて、その視線がハミルへ戻る。


「……月?」


 さっきまでの大声が嘘のように小さかった。


 短い沈黙。


「久しいな、ソルガルト」


 今度ははっきりと、イルの声が、窪地へ響いた。


 ソルガルトの目が大きく見開かれる。


「……本当に?」


「何を疑っておる」


「いや、だって、お前――」


 言葉が途切れる。


 レグルと再会した時とは違った。


 笑うでも叫ぶでもなく、ソルガルトはしばらくハミルを見つめていた。正確には、その中にいるはずの誰かを見ようとしているようだった。


 何か言おうとして口を開き、閉じる。


 もう一度、開く。


「生きてたのか」


「存在はする。見えないがな」


「……そうか」


 その二文字だけが、妙に静かだった。


 誰もすぐには口を挟まなかった。


 ソルガルトは俯き、片手で顔を覆った。肩がわずかに揺れたので、ハミルは泣いているのかと思った。


 けれど、聞こえてきたのは小さな笑い声だった。


「……ほんと、お前はしぶてえな」


「貴様に言われたくはない」


「そりゃそうだ」


 また少し、沈黙する。


「俺、お前が魔王になったって聞いて…」


 そこまで言って、ソルガルトは首を振った。


「……いや。今はいいや」


「何だ。言いかけてやめるな」


「うるせえ。こっちは今、頭ん中ぐちゃぐちゃなんだよ」


「それは昔からであろう」


「お前、再会一発目で喧嘩売るのやめろよ!」


 声が戻った。


 その大声に、レグルが呆れたように息を吐く。


「変わってねえな、ほんと」


 ソルガルトはもう一度だけハミルを見た。


 その目にはまだ驚きが残っていたが、さっきまでの張りつめたものは少し薄れている。


「……まあ、生きてんならいい」


「“生きてる”とも言いがたいがな」


「細けえなあ」


 そう返してから、ソルガルトの動きが止まった。


「……いや、待て」


「何だ」


「何でお前、こいつの中から声が聞こえるんだ?」


 今さらそこへ思考が追いついたらしい。


 ソルガルトはハミルをじろじろと見る。次いで、姿のないイルを探すように周囲へ目をやった。


「声はお前だ。喋り方もお前。なのに姿はねえ。気配も……何だこれ。お前、生きてんのか? 死んでんのか?…いや、それよりも、どこにいるんだ?」


「さてな」


「さてな、じゃねえよ! こんなの聞いたことねえぞ!」


 ハミルは思わず笑った。


 ソルガルトが大きく息を吐く。顔を手で覆い、そのまま今度こそ声を上げて笑った。


「何だよ。今日、何個驚けばいいんだ俺は」


「知らねえよ」


 レグルが返す。


「影はでかくなってる。月は知らん奴の中にいる。俺は魔化してたらしい。それをその知らん奴に戻された」


「まとめるとひどいな」


「だろ!」


 ようやくソルガルトらしい大声が戻った。


 だが、またハミルを見る。


「で、お前は何なんだ?」


「だから分からないんだって」


「人間じゃねえのか?」


「たぶん、もう普通の人間じゃない」


「精霊?」


「そうでもないらしい」


「月は中にいる」


「いる」


「俺の穢れを引ける」


「引けた」


 ソルガルトが腕を組もうとして、痛みに顔をしかめた。エルガが無言で睨み、慌てて腕を戻す。


「……なるほど」


「何が?」


「何も分からん!」


「だよね」


 ハミルは笑った。


 ソルガルトも少し遅れて笑う。その笑い声を聞きながら、エルガが目を伏せた。今度は悲しそうには見えなかった。


 戻ってきたのだ。


 まだ穢れは残っている。原因も分からない。ハミルの身体にも、引き受けたものが確かに増えた。


 それでも、ソルガルトはエルガの名を呼び、レグルを覚えていて、イルと言い合っている。


 今は、それで十分だった。

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