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世界が彼を魔王と呼ぶまで  作者: ぶん吉
第二章

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幕間 追えなかった背中

 王都から戻って、まだ日も浅い。


 地の国でも、第二の魔王の噂が広がり始めていた。北西の谷で魔物が増えている。夜になると黒い靄を見たという者がいる。山へ入った猟師の中には、黒髪の男を見たと話す者までいた。


 王都で見たものが、頭をよぎった。


 地の国はすぐに調査隊を出した。騎士と救済院の者、それに地の勇者であるマルテとポルタニア。


 谷周辺の異変を調べ始めて、二日目。調査隊は、いくつ目かの異変の跡を前に足を止めていた。


「こっちもだよ。ほら、この辺。表面だけじゃなくて、ずっと下までぐちゃぐちゃになってる。昨日見たところよりひどい」


 足元の土がもこもこと盛り上がり、モグラのような頭が顔を出す。ポルタニアは前脚で地面を掻きながら、途切れることなく喋っていた。


「それに熱い。土の中って普通もっと気持ちいいんだよ? ここ、全然寝られない。昨日も寝ようと思ったら下の方がずっとざわざわしててさ」


「寝たんだ」


「寝ようとはしたの。大事な違いだからね」


 調査官の一人がしゃがみ込み、ポルタニアが示した場所へ手を触れる。


「昨日の地点より強いということですか」


「うん。たぶん、この先」


 ポルタニアが顔を上げた。


 その直後だった。


 山の向こうで白い光が走り、一拍遅れて腹へ響くような轟音が届いた。木々から鳥が一斉に飛び立ち、騎士たちが武器へ手をかける。


「今のは……」


 マルテはすでに斜面の先を見ていた。もう一度、地面が揺れる。


「近いよ!」


 ポルタニアが土から飛び出した。隊長がマルテを見る。


「全員で向かいますか」


「いや」


 マルテは首を振った。王都で見た黒い靄と、川へ消えた背中が浮かぶ。


「僕が先に見る。みんなはここで待ってて」


「しかし――」


「何かあったら、すぐ戻る」


 短く告げて走り出す。


「ちょっとマルテ! 僕も行く! 道は僕の方が分かるから! そっちじゃなくて右! 右だって!」


 足元を土が盛り上がりながら追ってくる。マルテは黙って進路を変えた。


「そう、そっち! 最初から聞いてよ!」


     *


 谷へ入る手前で、最初の魔物を見つけた。


 獣のような姿をした魔物が、岩壁へ身体を押しつけている。全身には黒い靄がまとわりつき、荒い息を吐くたびに身体が小さく震えていた。少し先にはもう一体。その奥にも、倒れた魔物がいた。


「昨日より多いね」


 ポルタニアが地面から顔を出す。マルテは足を止めなかった。今は、さらに奥から響く音の方が気になった。


 白い光が岩肌を削り、影のようなものが地面を走る。そのたびに大きな衝撃が谷を揺らしていた。


 戦っている。


 マルテは足を速め、最後の尾根へ駆け上がった。


 窪地が見えた。


 中央で、大柄な男が暴れている。その身体には黒い靄がまとわりつき、振るわれた腕だけで地面が抉れていた。赤銅色の髪の精霊が片腕へしがみつき、黒に近い紺髪の男が地面から伸ばした影で巨体を押さえている。


 そして、その正面にもう一人いた。


 黒い髪。


 黒い瞳。


 右腕へ浮かぶ異様な紋様。


 マルテの足が止まった。


 王都で見た男だ。


「……いた」


 ポルタニアも土から顔を出す。


「……あれ、王都にいた人じゃない?」


 マルテは答えず、窪地を見つめた。


 黒髪の男が、大柄な男の胸へ両手を当てる。黒い靄が膨れ上がり、二人の姿が一瞬その中へ沈んだ。


 何をしたのか、ここからでは分からない。ただ、膨れ上がった黒い靄の中で、二人の輪郭だけが揺らいだ。


 次の瞬間、大柄な男の身体から力が抜け、巨体が崩れ落ちる。


「ソルガルト様!」


 赤銅色の精霊が叫び、その身体を抱き止めた。動かない。


 黒髪の男は、まだ立っていた。紺髪の男に肩を支えられながら、倒れた男を見下ろしている。


 第二の魔王。


 王都から戻ってから、何度も聞いた言葉が浮かんだ。黒髪。黒い瞳。異様な紋様。王都に現れ、その後、地の国でも目撃された男。


 そして今、目の前で強大な精霊が倒れた。


「……あの人が?」


 ポルタニアの声が小さくなる。マルテは返事をせず、尾根を下りるため一歩踏み出した。


 その時、黒髪の男がわずかに顔を上げた。


 横顔が見えた。


 息が止まる。


 王都で見た時より、ずっと長く見えた。


 目元も。


 鼻筋も。


 疲れた時に少しだけ下がる眉も。


 知っている。


 十年前まで、何度も隣で見ていた。


「……ハミル?」


 先に口にしたのは、ポルタニアだった。いつもよりずっと小さい声だった。


「でも……」


 ポルタニアが言葉を切る。


「変わってない」


 マルテの指先が震えた。同じことを思っていた。


 十年だ。


 あの日から十年も経っているのに、その横顔は記憶の中とほとんど変わっていない。


 本当に、ハミルなのか。


 第二の魔王が、死んだ人間の姿を真似ているだけではないのか。


 そんな考えが浮かんでも、否定できるものは何もなかった。黒髪の男。第二の魔王。その顔だけが、死んだはずのハミルに見える。


 マルテは斜面を下り始めた。


「行く」


「うん。僕も――」


 言葉の途中で、遠くから甲高い音が鳴った。一度。続けて、二度。調査隊が持っていた救援用の笛だった。


 ポルタニアが尾根の向こうを振り返り、それからもう一度だけ窪地を見る。ほんのわずかな間だった。


「……マルテ、調査隊!」


 尾根の向こうで地面が大きく揺れている。


「さっきの子たち、動いてる! 他にも来てるよ!」


 もう一度、笛が鳴った。


 マルテは振り返った。窪地までは、走ればすぐだ。


 十年。


 もう二度と会えないと思っていた。聞きたいことはいくらでもあった。それでも、背後には自分と一緒にここまで来た人たちがいる。


 マルテは奥歯を噛んだ。


「……戻る」


「うん」


 ポルタニアも一度だけ窪地を見てから、先に土へ潜った。


 マルテも斜面へ向けていた身体を反転させる。走り出す直前、もう一度だけ窪地を見た。黒髪の男は、紺髪の男に支えられている。


「……ハミル」


 小さく名前を落とし、マルテは背を向けた。


     *


 調査隊のところへ戻った時には、三体の魔物が山道まで上がってきていた。


「遅いよ!」


 先に土の中を抜けたポルタニアが叫ぶ。


「右から二体! 左に一体! あと下にもいるからね! ああもう、だからこの辺の土は嫌だったんだよ。全然寝られない!」


「分かった」


「本当に分かってる? 三体って言ったけど下のも入れたら四体だからね!」


 騎士の前へ飛び込み、振り下ろされた爪に合わせてマルテは地面へ手をついた。土壁がせり上がり、受け止めた衝撃でひび割れる。


 すぐ横から別の魔物が飛び込んでくる。マルテは地面を隆起させ、その身体を横から弾き飛ばした。


「負傷者は?」


「一人! 足をやられたけど歩ける!」


「後ろへ」


 答えながら、次の一体へ向き直る。


 ーーやがて、最後の魔物も地面へ伏した。


 荒かった息遣いと剣戟の音が途切れると、谷には風が木々を揺らす音だけが残った。いつの間にか日は大きく傾き、長く伸びた影が山道を覆い始めている。


「この辺りは、もう大丈夫そうです」


 隊長が周囲を確かめてから言った。マルテは来た道を振り返る。


「さっきの光のところ、もう一度見てくる。遠くからじゃ、何が起きていたのかよく分からなかった」


「では、我々は負傷者を連れて戻ります」


「うん。お願いします」


 黒髪の男を見たことも、その顔が誰に見えたのかも、口にはしなかった。


 調査隊が来た道を戻り始め、その背中が木々の向こうへ消えてから、ポルタニアが足元から顔を出した。


「……行くの?」


「うん」


 ポルタニアは珍しく、すぐには続けなかった。


「僕も、もう一度見たい」


 マルテが視線を落とす。


「本当にハミルだったのか」


「……うん」


「それとも、違うのか」


 しばらく、どちらも何も言わなかった。やがてポルタニアが土を掻く。


「じゃあ早くしよう。暗くなると僕は平気だけど、マルテ見えにくいでしょ。それにさっきのところ、地面ぐちゃぐちゃだったから」


「うん」


 いつもの調子へ戻り始めたポルタニアを連れて、もう一度谷へ向かった。


 来た道を引き返し、先ほど駆け抜けた斜面を登っていく。尾根まで戻った頃には、日はさらに低くなっていた。


 その向こうに見えた窪地は、あれほど激しく揺れていたのが嘘のように静まり返っていた。


 人の声も、精霊の気配もない。抉れた地面と焼けた岩だけが、傾いた日の光を受けて残っている。


 もう、誰もいなかった。


 マルテはしばらくそこに立っていた。


 第二の魔王を追って辿り着いた先で見た、黒髪の男。そして、その顔。今度は一瞬ではなかった。


 十年前と変わらない顔が、かえって疑いを深くする。


 ハミルなのか。


 それとも、ハミルの姿をした何かなのか。


「マルテ」


「うん」


「追うんでしょ?」


 マルテは地面に残った足跡へ目を落とした。


「追う」


「じゃあ僕も行く。僕だって、ちゃんと確かめたいし」


 ポルタニアはそこで一度鼻を鳴らした。


「それに、地面の跡を探すなら僕がいた方が絶対早いからね。途中で寝るかもしれないけど」


「起きてて」


「努力はする」


 マルテはもう一度、誰もいない窪地を見た。


 あの男が何者なのか。


 次に会った時は、確かめる。


 今度こそ、その背中を見失わないために。

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