幕間 追えなかった背中
王都から戻って、まだ日も浅い。
地の国でも、第二の魔王の噂が広がり始めていた。北西の谷で魔物が増えている。夜になると黒い靄を見たという者がいる。山へ入った猟師の中には、黒髪の男を見たと話す者までいた。
王都で見たものが、頭をよぎった。
地の国はすぐに調査隊を出した。騎士と救済院の者、それに地の勇者であるマルテとポルタニア。
谷周辺の異変を調べ始めて、二日目。調査隊は、いくつ目かの異変の跡を前に足を止めていた。
「こっちもだよ。ほら、この辺。表面だけじゃなくて、ずっと下までぐちゃぐちゃになってる。昨日見たところよりひどい」
足元の土がもこもこと盛り上がり、モグラのような頭が顔を出す。ポルタニアは前脚で地面を掻きながら、途切れることなく喋っていた。
「それに熱い。土の中って普通もっと気持ちいいんだよ? ここ、全然寝られない。昨日も寝ようと思ったら下の方がずっとざわざわしててさ」
「寝たんだ」
「寝ようとはしたの。大事な違いだからね」
調査官の一人がしゃがみ込み、ポルタニアが示した場所へ手を触れる。
「昨日の地点より強いということですか」
「うん。たぶん、この先」
ポルタニアが顔を上げた。
その直後だった。
山の向こうで白い光が走り、一拍遅れて腹へ響くような轟音が届いた。木々から鳥が一斉に飛び立ち、騎士たちが武器へ手をかける。
「今のは……」
マルテはすでに斜面の先を見ていた。もう一度、地面が揺れる。
「近いよ!」
ポルタニアが土から飛び出した。隊長がマルテを見る。
「全員で向かいますか」
「いや」
マルテは首を振った。王都で見た黒い靄と、川へ消えた背中が浮かぶ。
「僕が先に見る。みんなはここで待ってて」
「しかし――」
「何かあったら、すぐ戻る」
短く告げて走り出す。
「ちょっとマルテ! 僕も行く! 道は僕の方が分かるから! そっちじゃなくて右! 右だって!」
足元を土が盛り上がりながら追ってくる。マルテは黙って進路を変えた。
「そう、そっち! 最初から聞いてよ!」
*
谷へ入る手前で、最初の魔物を見つけた。
獣のような姿をした魔物が、岩壁へ身体を押しつけている。全身には黒い靄がまとわりつき、荒い息を吐くたびに身体が小さく震えていた。少し先にはもう一体。その奥にも、倒れた魔物がいた。
「昨日より多いね」
ポルタニアが地面から顔を出す。マルテは足を止めなかった。今は、さらに奥から響く音の方が気になった。
白い光が岩肌を削り、影のようなものが地面を走る。そのたびに大きな衝撃が谷を揺らしていた。
戦っている。
マルテは足を速め、最後の尾根へ駆け上がった。
窪地が見えた。
中央で、大柄な男が暴れている。その身体には黒い靄がまとわりつき、振るわれた腕だけで地面が抉れていた。赤銅色の髪の精霊が片腕へしがみつき、黒に近い紺髪の男が地面から伸ばした影で巨体を押さえている。
そして、その正面にもう一人いた。
黒い髪。
黒い瞳。
右腕へ浮かぶ異様な紋様。
マルテの足が止まった。
王都で見た男だ。
「……いた」
ポルタニアも土から顔を出す。
「……あれ、王都にいた人じゃない?」
マルテは答えず、窪地を見つめた。
黒髪の男が、大柄な男の胸へ両手を当てる。黒い靄が膨れ上がり、二人の姿が一瞬その中へ沈んだ。
何をしたのか、ここからでは分からない。ただ、膨れ上がった黒い靄の中で、二人の輪郭だけが揺らいだ。
次の瞬間、大柄な男の身体から力が抜け、巨体が崩れ落ちる。
「ソルガルト様!」
赤銅色の精霊が叫び、その身体を抱き止めた。動かない。
黒髪の男は、まだ立っていた。紺髪の男に肩を支えられながら、倒れた男を見下ろしている。
第二の魔王。
王都から戻ってから、何度も聞いた言葉が浮かんだ。黒髪。黒い瞳。異様な紋様。王都に現れ、その後、地の国でも目撃された男。
そして今、目の前で強大な精霊が倒れた。
「……あの人が?」
ポルタニアの声が小さくなる。マルテは返事をせず、尾根を下りるため一歩踏み出した。
その時、黒髪の男がわずかに顔を上げた。
横顔が見えた。
息が止まる。
王都で見た時より、ずっと長く見えた。
目元も。
鼻筋も。
疲れた時に少しだけ下がる眉も。
知っている。
十年前まで、何度も隣で見ていた。
「……ハミル?」
先に口にしたのは、ポルタニアだった。いつもよりずっと小さい声だった。
「でも……」
ポルタニアが言葉を切る。
「変わってない」
マルテの指先が震えた。同じことを思っていた。
十年だ。
あの日から十年も経っているのに、その横顔は記憶の中とほとんど変わっていない。
本当に、ハミルなのか。
第二の魔王が、死んだ人間の姿を真似ているだけではないのか。
そんな考えが浮かんでも、否定できるものは何もなかった。黒髪の男。第二の魔王。その顔だけが、死んだはずのハミルに見える。
マルテは斜面を下り始めた。
「行く」
「うん。僕も――」
言葉の途中で、遠くから甲高い音が鳴った。一度。続けて、二度。調査隊が持っていた救援用の笛だった。
ポルタニアが尾根の向こうを振り返り、それからもう一度だけ窪地を見る。ほんのわずかな間だった。
「……マルテ、調査隊!」
尾根の向こうで地面が大きく揺れている。
「さっきの子たち、動いてる! 他にも来てるよ!」
もう一度、笛が鳴った。
マルテは振り返った。窪地までは、走ればすぐだ。
十年。
もう二度と会えないと思っていた。聞きたいことはいくらでもあった。それでも、背後には自分と一緒にここまで来た人たちがいる。
マルテは奥歯を噛んだ。
「……戻る」
「うん」
ポルタニアも一度だけ窪地を見てから、先に土へ潜った。
マルテも斜面へ向けていた身体を反転させる。走り出す直前、もう一度だけ窪地を見た。黒髪の男は、紺髪の男に支えられている。
「……ハミル」
小さく名前を落とし、マルテは背を向けた。
*
調査隊のところへ戻った時には、三体の魔物が山道まで上がってきていた。
「遅いよ!」
先に土の中を抜けたポルタニアが叫ぶ。
「右から二体! 左に一体! あと下にもいるからね! ああもう、だからこの辺の土は嫌だったんだよ。全然寝られない!」
「分かった」
「本当に分かってる? 三体って言ったけど下のも入れたら四体だからね!」
騎士の前へ飛び込み、振り下ろされた爪に合わせてマルテは地面へ手をついた。土壁がせり上がり、受け止めた衝撃でひび割れる。
すぐ横から別の魔物が飛び込んでくる。マルテは地面を隆起させ、その身体を横から弾き飛ばした。
「負傷者は?」
「一人! 足をやられたけど歩ける!」
「後ろへ」
答えながら、次の一体へ向き直る。
ーーやがて、最後の魔物も地面へ伏した。
荒かった息遣いと剣戟の音が途切れると、谷には風が木々を揺らす音だけが残った。いつの間にか日は大きく傾き、長く伸びた影が山道を覆い始めている。
「この辺りは、もう大丈夫そうです」
隊長が周囲を確かめてから言った。マルテは来た道を振り返る。
「さっきの光のところ、もう一度見てくる。遠くからじゃ、何が起きていたのかよく分からなかった」
「では、我々は負傷者を連れて戻ります」
「うん。お願いします」
黒髪の男を見たことも、その顔が誰に見えたのかも、口にはしなかった。
調査隊が来た道を戻り始め、その背中が木々の向こうへ消えてから、ポルタニアが足元から顔を出した。
「……行くの?」
「うん」
ポルタニアは珍しく、すぐには続けなかった。
「僕も、もう一度見たい」
マルテが視線を落とす。
「本当にハミルだったのか」
「……うん」
「それとも、違うのか」
しばらく、どちらも何も言わなかった。やがてポルタニアが土を掻く。
「じゃあ早くしよう。暗くなると僕は平気だけど、マルテ見えにくいでしょ。それにさっきのところ、地面ぐちゃぐちゃだったから」
「うん」
いつもの調子へ戻り始めたポルタニアを連れて、もう一度谷へ向かった。
来た道を引き返し、先ほど駆け抜けた斜面を登っていく。尾根まで戻った頃には、日はさらに低くなっていた。
その向こうに見えた窪地は、あれほど激しく揺れていたのが嘘のように静まり返っていた。
人の声も、精霊の気配もない。抉れた地面と焼けた岩だけが、傾いた日の光を受けて残っている。
もう、誰もいなかった。
マルテはしばらくそこに立っていた。
第二の魔王を追って辿り着いた先で見た、黒髪の男。そして、その顔。今度は一瞬ではなかった。
十年前と変わらない顔が、かえって疑いを深くする。
ハミルなのか。
それとも、ハミルの姿をした何かなのか。
「マルテ」
「うん」
「追うんでしょ?」
マルテは地面に残った足跡へ目を落とした。
「追う」
「じゃあ僕も行く。僕だって、ちゃんと確かめたいし」
ポルタニアはそこで一度鼻を鳴らした。
「それに、地面の跡を探すなら僕がいた方が絶対早いからね。途中で寝るかもしれないけど」
「起きてて」
「努力はする」
マルテはもう一度、誰もいない窪地を見た。
あの男が何者なのか。
次に会った時は、確かめる。
今度こそ、その背中を見失わないために。




