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世界が彼を魔王と呼ぶまで  作者: ぶん吉
第二章

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第034話 太陽の精霊

 窪地を離れたのは、ソルガルトが自分の足で立てるようになって間もなくだった。


 周囲にはまだ魔物の気配が残っている。谷の奥からも時折、低い唸り声が聞こえていた。


「ここに留まる理由はねえだろ」


 レグルの言葉に、反対する者はいなかった。


 ソルガルトは「もう歩ける」と言い張ったが、数歩進んだところでエルガに腕を取られた。


 そしてハミルも、似たようなものだった。


 歩き出してしばらくは何ともなかった。少なくとも、本人はそう思っていた。


 谷の斜面へ差しかかったところで、不意に足元が遠くなる。


「――おい」


 腕を掴まれた。


 次の瞬間には、レグルに肩を支えられていた。


「……大丈夫」


「お世辞にもそうは見えないけどな」


「ちょっと立ち眩みしただけ」


「立ち眩みで膝から落ちる奴があるか」


 言われて、自分の膝が地面につきかけていたことに気づく。


 右腕はまだ熱い。引き受けた穢れは、時間をかければ少しずつ薄くなる。そう分かっていても、今は身体の内側に重い泥を流し込まれたような感覚が抜けなかった。


「歩けるよ」


「知るか。肩使え」


「でも――」


「ハミル」


 低い声で名前を呼ばれた。


 こういう時のレグルは、たぶん何を言っても聞かない。


「……はい」


「最初からそうしろ」


 少し前では、エルガに支えられたソルガルトが振り返っていた。


「お前、俺よりひどくねえか?」


「誰のせいだと思ってるんだよ」


 レグルが即座に返す。


「……俺か」


 ソルガルトの顔が曇った。


「いや、ソルガルトのせいじゃないよ。俺が勝手にやったことだから」


「お前はそうやってすぐ庇うな」


 レグルが呆れたように言う。


「庇ってるわけじゃないって」


「同じだ」


 ソルガルトはしばらく黙っていたが、やがて小さく息を吐いた。


「……悪い」


「ソルガルトに謝られることじゃないよ」


「そういう問題じゃないだろ」


 少し困ったように言われて、ハミルも笑って誤魔化すしかなかった。


 そうして一行は谷を抜け、少し離れた岩場まで移動した。背の高い岩が風を遮り、周囲も見渡せる。少なくとも、あの窪地で休むよりはずっとましだった。


 *


 岩へ背を預けてしばらくすると、イルが言った。


『ハミル』


『ん?』


『少し寄越せ』


 何を、と聞く必要はなかった。


 身体の奥に沈んでいる穢れ。その一部へ、内側から別の手が触れるような感覚がした。


『大丈夫?』


『貴様にだけ抱えさせる方が問題であろう』


『でも、前のときは引き受けてくれたあと、しばらく寝ちゃったじゃん』


『あれとは量が違う』


『今回の方が多そうだけど』


 一瞬、返事がなかった。


『……細かいことを気にするな』


『気にするよ』


『ならば黙って休め』


 直後、身体の内側で重さが動いた。


 胸の奥へ溜まっていた冷たい泥のようなものが、ゆっくりと別の場所へ引かれていく。すべてではない。それでも、押し潰されるようだった重みが少しだけ薄れた。


 代わりに、イルの気配が沈む。


『イル?』


『……少し眠る』


『やっぱり』


『うるさい』


『ありがとう』


 今度は返事がなかった。


 呼びかけても、静かな気配だけが返ってくる。


 眠ったらしい。


 ハミルは息を吐き、岩へさらに深く背を預けた。


「どうした?大丈夫か」


 ソルガルトはハミルの様子を気にかけているのか、こちらに意識を向けているようだった。


「イルが寝ちゃったみたい」


「寝た?」


「俺が引き受けた穢れ、少し持っていってくれたから」


 ソルガルトの眉が寄る。


「……あいつが?」


「うん」


 しばらく黙ったあと、ソルガルトは小さく笑った。


「変わってねえなあ」


「昔から?」


 ハミルが聞くと、ソルガルトは少しだけ目を細めた。


「昔からだよ。人のことになると勝手に決めて、勝手に背負う」


「それ、イルに言ったら怒りそう」


「だから寝てるうちに言ってんだ」


 レグルが鼻で笑った。


「起きてても言うだろ、お前は」


「まあな!」


 声を張った直後、ソルガルトはハミルを見て、少しだけ音量を落とした。


「……悪い」


「そこは気にするんだ」


「病人には優しくするぞ、俺は」


「病人はお前もだろ」


 レグルが返した。


 そのやり取りを最後に、ハミルは一度眠った。


 *


 目を覚ました時には、岩場へ差し込む光の向きが変わっていた。身体の芯に残っていた重さも少しだけましになっている。


 それでも右腕には鈍い熱が残り、立ち上がれるほどではない。


 ソルガルトの方は、目に見えて回復していた。


「ハミル! お前、飯は食うのか! 酒は!」


「……どっちも」


「よし、話が早い!」


「病み上がりが酒の話すんな」


 レグルが呆れたように言う。


「もう立てる!」


「こいつに穢れ渡して元気になるの早すぎんだろ」


「だからそれは悪いと思ってるって!」


「俺が勝手にやったんだから、もういいよ」


「お前は黙ってろ」


「何で」


「話が終わらねえからだ」


 ソルガルトが吹き出した。


 ハミルもつられて笑う。さっきよりは楽だったが、それでも胸の奥が少し重くなった。


 レグルがすぐにこちらを見る。


「……笑うくらいいいだろ」


「何も言ってねえ」


「顔が言ってる」


 ソルガルトの状態は安定していた。完全に穢れが消えたわけではない。核の奥にはまだ黒いものが残っている。それでも、魔化していた時とは比べものにならない。周囲へ漏れ出す穢れも、今はほとんど感じなかった。


 その様子を確認して、ハミルは少しだけ力を抜いた。


 イルはまだ眠っている。


「……なあ」


 今度はハミルから声をかけた。


「ソルガルトって、イルとは昔から知り合いなんだよね」


「おう」


「どんな奴だった?」


 ソルガルトが目を瞬いた。


 レグルもちらりとこちらを見る。


「本人から聞いてねえのか?」


「聞いてもあんまり教えてくれない」


「あー」


 妙に納得した声だった。


「昔からそういう奴だ。自分の話、全然しねえんだよ」


「やっぱり?」


「やっぱりだ」


 ソルガルトは岩へ背を預けた。


「無愛想で、面倒くさがりで、こっちが何か誘っても大体断る」


「今とあんまり変わらないな」


「だろ?」


「余計なこと教えんなよ」


 レグルが横から言う。


「何でお前が止めるんだよ」


「起きた後に俺まで巻き込まれる」


「それは知らん!」


 ソルガルトは豪快に笑ってから、少し遠くを見るような目をした。


「でもまあ、断るくせに、最後まで来ねえわけじゃないんだ」


「どういうこと?」


「昔、人間の祭りに連れてったことがあってな。最初は絶対行かんって言ってたくせに、結局来た」


「へえ」


「で、途中で帰った」


「帰ったんだ」


「人が多くてうるさい、とか言ってな!」


 想像できる。


 ハミルが笑うと、ソルガルトも楽しそうに笑った。


「そういう奴なんだよ。嫌なら最初から来なきゃいいのに、何だかんだ付き合う。レグルのことだって、結局ずっと気にしてたしな」


「その話はいいだろ」


 レグルが少し不機嫌そうに言う。


「何だ、照れてんのか?」


「違う」


「じゃあもっと話してやろうか」


「やめろ」


 即答だった。


 ソルガルトが笑う。


 それ以上、レグルの昔話を続けることはしなかった。


「……月は昔から、自分のことは雑だったんだよ」


 少しして、ソルガルトが静かな声で言った。


「誰かが困ってりゃ知らん顔しきれねえくせに、自分が困ってる時は何も言わねえ。勝手に抱えて、何でもないみたいな顔する」


 ハミルは黙って聞いていた。


 月の精霊だった頃。魔王になる前。


 自分の知らないイルが、そこにいる。誰かに連れ回され、面倒そうに言い返し、それでも完全には突き放さなかったイルがいた。


 知らないイルの時間が、ソルガルトの言葉で少しずつ形になっていく。


「……お前、ちょっと月に似てるな」


 不意にソルガルトが言った。


「俺が?」


「似てる」


「どこが?」


「今言ったところだよ」


 ソルガルトがハミルを指す。


「人の穢れ抱えて倒れかけて、それでも本人には『お前のせいじゃない』って言うところ」


 ハミルは言葉に詰まった。


 横でレグルが鼻を鳴らす。


「そこは似てる」


「……そうかな」


「似てる似てる。あと、自分は大丈夫だって言えば周りが納得すると思ってるところもな」


「それは――」


「今日だけで何回言った?」


 レグルまで乗ってきた。


「……そんなに言った?」


「言った」


「言ってたな」


 二人に同時に返される。


 ハミルは諦めて岩へ背を預け直した。


「イルが起きたら聞いてみるよ」


「やめとけ。絶対否定するぞ」


「だろうね」


 その答えだけは、簡単に想像できた。


 日が傾き始める頃には、ソルガルトもかなり自力で歩けるようになっていた。


 ハミルも立てる程度には戻っていたが、身体の重さはまだ消えていない。


 イルもまだ眠ったままだ。


「ここからなら、俺がよく使う町がある。宿もあるぞ」


 ソルガルトが山の向こうを指した。


「どれくらい?」


「そう遠くねえ!」


「お前の距離感は信用できねえな」


 レグルがぼそりと言う。


「何でだ!」


「普段からあちこち歩き回ってる奴の『近い』ほど信用ならねえものはねえだろ」


「大丈夫だ! 日が落ちる頃には着く!」


「それ近いって言わねえよ」


 ハミルは思わず笑った。


「まあ、ここで夜を越すよりはいいんじゃない?」


 エルガが露骨に眉を寄せる。


「本気ですか」


「俺ももう歩ける!」


「あなたの『歩ける』も信用していません」


「ひどくないか?」


 岩場で夜を越すのも安全とは言い切れない。少なくとも、宿で身体を休められるならその方がいい。


 立ち上がろうと手をついたところで、レグルに肩を押さえられた。


「何」


「お前はゆっくり立て」


「もう大丈夫だって」


 言ってから、しまったと思った。


 レグルとソルガルトが同時にこちらを見る。


「……今のなし」


「遅えよ」


「ほらな!」


 ソルガルトが笑う。


 仕方なく、差し出されたレグルの手を借りる。


 立ち上がった瞬間、わずかに視界が揺れた。


 何も言っていないのに、レグルの手が腕を支えた。


「ほら見ろ」


「……ちょっとだけ」


「黙れ」


 前では、ソルガルトがエルガに何か言われながら歩き出している。


 その背中を追って、ハミルもゆっくり足を踏み出した。


 少しだけ、本当に普通の旅みたいだった。


 問題は残っている。


 自分の中には、ソルガルトから引き受けた穢れがまだ沈んでいる。イルにもその一部を抱えさせてしまった。ソルガルトがなぜ魔化したのかも分からない。また同じことが起きない保証もない。


 それでも今は、誰も失われていない。


 ソルガルトは笑っている。エルガはその隣にいる。レグルもいる。イルも、今は眠っているだけだ。


 知らなかったイルの昔を、少しだけ知ることもできた。


 山を下りれば、今夜は屋根のある場所で眠れるらしい。そんな当たり前のことまで、今は少し嬉しかった。


 その時間を、少しくらい喜んでもいい気がした。

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