第035話 馴染みの店
目を覚ますと、窓の向こうはもうすっかり明るかった。
身体は昨日よりずいぶん軽い。
右腕にはまだ鈍い熱が残っている。身体の奥にも、引き受けた穢れの重さはある。それでも、立ち上がっただけで膝が折れそうになることはなかった。
イルの気配は、まだ静かだ。
隣の寝台を見ると、レグルはすでに起きていた。窓辺に立ち、外の通りを眺めている。
「おはよう」
「遅い」
ずいぶん前から起きていたらしい。ハミルは欠伸を噛み殺しながら身体を起こした。
「いま、何時?」
レグルが窓の外へ顎をしゃくる。
「朝飯はとっくに終わってる」
「そんなに寝てた?」
「ずいぶん気持ち良さそうにな」
言われて、昨夜のことをぼんやりと思い返す。
結局、すっかり日が暮れた後に町へ着き、ソルガルトの馴染みだという宿に入った。ちょうど二部屋だけ空いていたため、ハミルはレグルと同室になり、ソルガルトとエルガが隣の部屋を使っている。
寝台へ腰を下ろしてから先は、ほとんど記憶がなかった。
「途中で何回か起こそうかと思ったけど、イルも静かだったから放っといた」
「正解だったかも」
ハミルは自分の髪を一房つまんだ。焦げ茶色のままだ。レグルの擬態も崩れていない。
「ソルガルトたちは?」
「とっくに起きてる。あっちはもう歩き回れるくらいには戻ってるぞ」
「早いなあ」
レグルは肩をすくめた。
「お前と違って、助けられた側だからな」
それを言われると返す言葉がない。
顔を洗い、簡単に身支度を整える。腹も減っていたが、昨日のことを考えれば、まず身体が動くようになっただけでもありがたかった。
部屋を出ると、廊下の先でエルガと話していたソルガルトがこちらに気づいた。
「起きたか」
「ちょうど今起きた。ソルガルトはもう平気そうだね」
ハミルが近づくと、ソルガルトは確かめさせるように両腕を軽く広げた。
「まだエルガには大人しくしろって言われてるけどな」
「当然です」
エルガが間を置かず返す。
ソルガルトは昨日よりずっと顔色がいい。病み上がりには違いないが、人に支えられなければ歩けなかった頃とは比べものにならなかった。
「腹減ってるだろ。飯食いに行こうぜ」
「起きて最初にそれ?」
「昨日ろくに食ってねえだろ。ちょうどいい」
ソルガルトは当然のことのように言ってから、少しだけ声を落とした。
「昨日の礼もまだしてねえしな。うまい店がある」
「礼なんていいのに」
「よくねえ。助けてもらって何もしねえ方が落ち着かん」
さっきまでより少しだけ真面目な声だった。
エルガも隣で頷く。
「私からも頼む」
「じゃあ、ご馳走になります」
ソルガルトが満足そうに笑った。
*
宿を出ると、町はすでに賑わい始めていた。
地の国北部の小さな町だった。石造りの家が並ぶ大通りを、荷車や行商人が行き交っている。山から戻ったらしい旅人もいれば、籠いっぱいの野菜を抱えて店先へ急ぐ住民もいた。
ハミルはフードを少し深めに被る。
「そんな警戒しなくても、今のお前は普通だぞ」
隣を歩くレグルが言った。
「分かってるけど、癖みたいなもの」
「なら仕方ねえな」
焦げ茶の髪と瞳。擬態していると分かっていても、人の多い場所ではつい周囲を気にしてしまう。
一方、ソルガルトはそんなこととは無縁だった。
「お、今日は出てんのか」
通りの露店を覗き込み、積まれた果物を見て足を止める。
「昨日からだよ。買うかい?」
「これから飯食いに行くから帰りにな」
店番の女が片眉を上げた。
「前もそう言って忘れただろ」
「今日は忘れねえよ」
言い切るソルガルトに、女は声を立てて笑った。
少し進めば、今度は向かいから来た荷運びの男に声をかけられた。
「おい、また山行ってたのか?」
「ちょっとな」
男は足を止め、ソルガルトの顔をまじまじと見た。
「その割にひでえ顔してるぞ」
「そうか?昨日よりはいいはずなんだがな」
「なら飯食っとけ。お前、腹減ると余計うるせえから」
ソルガルトは心外そうに眉を上げる。
「俺はいつでも同じだ」
「それが問題なんだよ」
男は笑いながら去っていった。
ハミルはその背中を見送り、隣のソルガルトを見る。
「ずいぶん馴染んでるね」
「ここはよく来るからな。山にも近いし、飯もうまい」
すかさずレグルが口を挟む。
「最後が一番大事そうだな」
「大事だろ」
否定しないらしい。
昨日まで魔化していた精霊が、町ではただの顔馴染みとして声をかけられている。そのことが少し不思議で、でも悪くないと思った。
通りを進みながらも、ソルガルトは何度か人に声をかけられ、そのたびに足を止めて短く言葉を交わした。
やがて肉を焼く匂いが漂ってくると、ソルガルトが鼻を動かす。
「ここ、うまいんだよな」
そう言いながら、迷いなく大通りから一本外れた路地へ入っていく。
その先に、木の看板を下げた小さな食堂兼酒場があった。開け放たれた窓から、肉と香辛料の匂いが流れている。
「ここがさっき言ってた店?」
「ああ。せっかくだから食わせたかった」
ソルガルトがそのまま扉を押す。
奥にいた恰幅のいい中年の男が顔を上げた。
「いらっしゃ――って、お前か」
「久しぶり」
店主は一瞬だけ考えるように目を細め、それから笑った。
「この前来たの、そんな昔でもねえだろ」
「俺には十分久しぶりだ」
「相変わらずだな」
ソルガルトは各地を転々としているらしいが、この店には近くを通るたび顔を出しているらしい。店主も細かい日数を数えているわけではないようだった。
それから店主はハミルたちを見る。
「珍しいな。連れか?」
「ああ。世話になったやつらだ」
店主は少しだけ興味深そうに目を細めたが、それ以上は詮索しなかった。
「まだ混む時間じゃねえ。そこ使え」
窓際の大きめの卓へ案内される。
席へ着くと、ソルガルトは勝手知った様子で店主を呼び止めた。
「今日は何がある?」
「いつもの煮込みと、鶏の香辛料焼き。あとは朝仕込んだ豆だな」
「じゃあ、その辺まとめて四人分。適当に頼む」
注文を聞いていたレグルが呆れた顔をする。
「お前が決めるのかよ」
ソルガルトは悪びれもせずハミルを見る。
「嫌いなもんあるか?」
「特にはないよ」
「なら大丈夫だ。ここは何食ってもうまい」
そこまで言い切られると、逆にどんな料理が来るのか楽しみになってくる。
「ずいぶん信用してるんだね」
「してる」
迷いのない返事に、店主が奥から「勝手に看板背負うな」と声を飛ばした。
最初に運ばれてきたのは、温かいスープと平たいパンだった。
根菜の甘みが溶けたスープを一口飲むと、身体の中へゆっくり熱が広がっていく。昨日からまともに食べていなかったせいか、それだけでひどく美味しく感じた。
「うまい」
「だろ」
すぐさま得意げな声が返ってきて、レグルが匙を置いた。
「だから何でお前が得意げなんだ」
「店を選んだのは俺だ」
「料理したのは店主だろ」
エルガが小さく息を吐いた。
「ソルガルト様は昔からこうだ。良い店を見つけると、自分の功績のように語る」
「いいものを広めるのは大事だろ」
悪びれる様子はまるでない。エルガは慣れた様子でソルガルトを見た。
「声量まで広める必要はありません」
ソルガルトが一度口を閉じる。
それから、少しだけ声を落とした。
「……これくらいか?」
ハミルは思わず笑った。
「できるんじゃん」
「できるぞ」
得意げに言うソルガルトへ、レグルがすぐに返す。
「最初からやれよ」
卓に小さな笑いが広がった。
次に炙った肉と豆の煮込みが来た。焼いた根菜も運ばれてくる。ソルガルトは町で食べたものの話をし、エルガが時々訂正し、レグルが横から余計な一言を足した。
ハミルは聞きながら、ゆっくり食べた。
少し前まで、この顔ぶれで同じ卓を囲むとは思っていなかった。
自分。レグル。エルガ。ソルガルト。そして内側で眠っているイル。
変な組み合わせだ。
それでも、不思議と居心地は悪くなかった。
しばらくすると、内側でかすかな気配が動いた。
『……随分とうるさいな』
ハミルは匙を止める。
『起きた?』
『今しがたな』
返ってくる声はいつも通りだった。少なくとも、無理をしているようには聞こえない。
『大丈夫?』
『貴様よりはな』
いつもの返しに、ハミルの肩から少し力が抜けた。
『それならよかった』
「どうした?」
レグルが気づく。
「イルが起きた」
その一言に、ソルガルトが顔を上げた。
「月。聞こえてるか」
「聞こえている」
イルの声が外へ開く。
ソルガルトは待ってましたとばかりに身を乗り出した。
「飯は?」
「不要だ」
一瞬だけ残念そうな顔をしてから、ソルガルトは笑う。
「相変わらずだな」
「貴様もな」
短いやり取りのあと、ソルガルトは満足したように食事へ戻った。
店内にはいつの間にか客が増えていた。扉が開くたびに外のざわめきが入り、店主が奥と客席を忙しく行き来する。昼が近づいているらしい。
追加で運ばれてきたのは、香辛料を利かせた鶏料理だった。
「これ、前にも食ったやつだ」
ソルガルトが嬉しそうに皿を引き寄せる。
「そんなに好きなの?」
「辛いけど後引くんだよ」
ハミルも一切れ取った。
最初に肉の脂と香草の香りが広がり、遅れて舌の奥に辛さが残る。
「結構辛いね」
「そこがいいんだ」
二口目を食べたところで、右腕の奥がわずかに熱を持った。ハミルは無意識に腕へ触れる。昨日の穢れがまだ残っているせいかと思ったが、もう一度同じ料理へ手を伸ばした時、また熱が揺れた。
指先が止まる。
『……ハミル』
『うん。イルも感じる?』
『ああ。微かだが、穢れに似た気配が混じっている』
「ハミル?」
レグルの声を聞きながら、皿へ目を落とす。焼いた鶏肉の表面には赤褐色の香辛料がまぶされている。見た目だけなら何もおかしくないが、近くへ顔を寄せると、その中にごく薄い黒い反応が混じっているのが分かった。
王都の薬を調べた時にも見た反応だった。
「何かあるのか?」
レグルが皿を覗こうとする。
「この香辛料、ちょっと気になる」
「香辛料?」
レグルには何も見えていないらしい。皿を眺めても、怪訝そうに眉を寄せるだけだった。
黒い反応は薄く、食事の最中に確かめきれるほど分かりやすいものでもない。ハミルはひとまず皿から目を離し、少しして近くを通った店主へ声をかけた。
「すみません。この鶏料理、美味しいですね」
「だろ。最近よく出るんだ」
店主は嬉しそうに笑う。ハミルは皿の上の鶏肉を指した。
「香辛料って、何を使ってるんですか?」
「何種類か混ざってるやつだ。俺が調合してるんじゃなくて、そのまま仕入れてる」
「へえ。どんなやつです?」
「ちょっと待ってろ。見せてやるよ」
店主は厨房の奥へ引っ込み、ほどなくして小さな袋を手に戻ってきた。簡素な紙札には、風を模したような三本線の印がある。
袋を開けてもらうと、中には赤褐色の香辛料が詰まっていた。ぱっと見ただけでは料理と同じく妙なものは見つからないが、近くにあるだけで右腕の奥がかすかに熱を持つ。
「これ、少し分けてもらえません?」
店主がハミルの顔を見る。
「そんな気に入ったのか。いいぞ」
店主は笑って、小さな紙包みにひと匙ほど移してくれた。ハミルは礼を言って受け取り、懐へしまう。
「何だったんだ?」
ソルガルトが聞く。
「ちょっと気になることがあって。宿に戻ってから調べてみるよ」
ソルガルトは紙包みの入ったあたりを一度見たものの、すぐに目の前の皿へ視線を戻した。
「飯は?」
「食べる」
「よし」
なぜかソルガルトが安心したように頷いた。
レグルが呆れた顔をする。
「お前、そこ心配してたのかよ」
「せっかく連れてきたのに途中でやめたらもったいねえだろ」
「お前が食わせたいだけだろ」
また卓に笑いが起きた。
ハミルも笑って、残っていた鶏肉ではなく煮込みの方へ匙を伸ばす。
その後も、ソルガルトは頼んでもいない料理を一皿追加し、エルガに「食べ切れる分だけにしてください」と叱られた。結局その大半を自分で平らげて、今度はレグルに呆れられている。
イルは時折会話に口を挟み、ソルガルトがそれに大きな声で返す。エルガが声を抑えるよう注意して、また笑いが起きる。
外では人が行き交い、店の中には料理の匂いと話し声が満ちていた。
昨日までのことが、少し遠く感じる。
山の窪地で、ソルガルトは正気を失っていた。
今は目の前で、最後のパンを取ったレグルに本気で文句を言っている。
「それ俺が食おうと思ってた!」
「早い者勝ちだ」
レグルは平然とパンを一口かじる。それを見て、ソルガルトがますます身を乗り出した。
「人の奢りなのに遠慮ねえな!」
レグルはわざとらしく首を傾げた。
「うまいな」
「腹立つな、お前!」
エルガが額へ手を当てる。
ハミルは堪えきれず笑った。
ただ飯を食べているだけだった。
誰かがくだらないことを言って、誰かが突っ込んで、また笑う。
こんな時間が、妙に久しぶりな気がした。
懐には、さっき分けてもらった香辛料がある。
気になることは残っている。
でも、それを確かめるのは宿へ戻ってからでいい。
今はもう少しだけ、この騒がしい食卓にいたかった。




