第036話 風の国へ
食堂を出たあと、ハミルたちはすぐには宿へ戻らなかった。
ソルガルトに付き合って町を少し回り、露店を覗いたり、必要なものを買い足したりしてから帰ることになった。
その間も、ハミルは行き交う人々をそれとなく目で追っていた。
気になっていたのは、弧だ。
食堂で見た香辛料の中には、王都で見たものによく似た黒い反応があった。もし同じものなら、すでに影響を受けている人がいてもおかしくない。
けれど、少なくとも目につく範囲に、弧が浮かんでいる人はいなかった。
それで安心できるわけではない。それでも、今すぐ目の前で何かが起きている様子がないことに、ハミルはわずかに息をついた。
宿へ戻る頃には、すっかり日が傾いていた。
部屋へ入ると、ハミルは食堂でもらった紙包みを取り出す。
「ちょっと、これを確かめたいんだけど」
そう言うと、ソルガルトが紙包みを見る。
「さっきもらってた香辛料か?」
「うん。王都で見た薬に、これと似た灰色の粒が入ってたんだ」
ハミルは窓際の卓へ紙包みを置いた。
「おかしなことに、飲んでた人にだんだん核みたいなものができてさ。そこに穢れが溜まって……最後は魔化した」
「……は?」
ソルガルトが固まった。
「人間が?」
「うん」
「いや、待て。そういう噂は聞いたことあるぞ。王都に新しい魔王が出て、人間まで魔物にしたとか何とか。でも、あれ本当だったのかよ。てっきり誰かが話盛ってるんだと思ってたぞ」
「人間が魔化したのは本当だよ」
ハミルが答えると、ソルガルトが眉を寄せた。
「……何でお前、そんな詳しいんだ?」
「何でって」
ソルガルトはハミルの顔をじっと見る。
今は焦げ茶に擬態している髪と瞳。その視線が髪から目へ動き、何かを確かめるようにもう一度戻った。
「お前、最初に会った時は黒髪黒目だったよな」
「そうだけど」
「今は擬態してる」
「うん」
「王都にいた」
「いたね」
ソルガルトの目が見開かれた。
「……お前が魔王か!」
「俺にはそんな気ないんだけどね」
「じゃあ何でそんなことになってんだよ!」
「それは俺も聞きたい」
レグルが呆れたように息を吐く。
「こいつが人間を魔物にしたんじゃねえよ。逆だ」
「逆?」
「魔化した人間を、こいつが戻した」
ソルガルトはハミルとレグルを交互に見た。
「……話が全然違うじゃねえか」
「事実だ。我もその場にいた」
イルの声が部屋へ響く。
ソルガルトがしばらく黙ったあと、頭を掻いた。
「何でそれで魔王になるんだよ……」
「だから俺も分からないって」
ハミルは苦笑して、紙包みへ視線を戻した。
「それで、その時の薬に入ってたのが、この灰色の粒。あの香辛料にも同じようなものが見えたから、確かめたくてもらってきたんだ」
「いや、おい、ちょっと待て。話が多すぎる!」
ソルガルトが両手を上げた。
「王都の話が全然違うのもそうだけど、その怪しい粒が、何で俺がいつも食ってる飯に混じってんだよ!」
「それを今から確かめたいんだよ」
「そうじゃなくてだな……!」
ソルガルトは頭を抱えるように髪を掻いた。
エルガも先ほどまでとは違う目で、包みを見ている。
「王都の事件と、関係があるかもしれないんだな」
「うん」
レグルが向かいの椅子を引く。
「じゃあ見てみるか」
ソルガルトとエルガも卓を囲んだ。
紙包みの中には、食堂でもらった赤褐色の香辛料がひと匙ほど入っている。
ハミルはそれを少しずつ指先で分けていった。
粉末の中に、ごく小さな固い粒が混じっている。
赤や茶色の欠片に紛れていて、気にして見なければまず分からない。その中に、色の違うものがあった。
灰色だ。
ひとつ。ふたつ。さらにもうひとつ。
その周囲には、ごく薄い黒い反応が絡んでいる。
「これだ」
ハミルが指先で示すと、レグルが目を細めた。
「これが王都の薬に入ってたやつか?」
「見た目も、反応もよく似てる」
ハミルは水を入れた小さな器を用意した。
香辛料を少し落とすと、赤い粉は水へ触れて色を広げ、ゆっくり沈んでいく。
灰色の粒だけが違った。
水を弾く。
形を崩さず、表面へ浮いた。
王都の薬で見たものと同じ反応だった。
「水まで弾くのか」
レグルが浮いた粒を覗き込む。
「王都のもそうだった」
ハミルには、粒の周囲へまとわりつく黒い反応も見えている。右腕の奥が、微かにざわついた。
見た目だけではない。水への反応も、黒いもののまとわり方も同じだった。
ソルガルトは椅子へ座ったまま、器を覗き込んでいた。いつもの大声はない。
「俺、これ食ってたんだな」
「最近の仕入れに変わってからも、あの料理食べてた?」
「ああ。何度か食ってる」
エルガが静かに視線を落とした。
継続して口にしていた。
そして、ソルガルトは魔化した。
それだけで原因だと決めつけることはできない。だが、王都で起きたことを考えれば、無関係とも思えなかった。
ハミルは灰色の粒を見つめたまま、食堂にいた客たちを思い出す。
「あの料理、他の人も食べてたよね」
「そりゃ店の料理だからな」
ソルガルトが答えてから、少し遅れて意味に気づいたように眉を寄せる。
同じ香辛料を口にしている人間が他にもいる。
さっき町を歩いている間、目につく範囲では弧のある者はいなかった。だが、町中の人間を見たわけではない。
「店には言った方がいいな」
レグルが言う。
「うん。これは使わないでもらった方がいい」
エルガが灰色の粒へ視線を向けたまま尋ねる。
「誰かが意図的に混入したものなのか」
「それが知りたいんだよね」
ハミルは紙包みの横に置いていた紙札を見る。
三本の線が、風を受けて流れるように描かれている。
食堂の店主は、風の国側から来る乾物によく付いている印だと言っていた。
「これ、風の国の方から来る荷に多い印なんだって」
ソルガルトが紙札を摘まみ上げる。
「じゃあ、そっちの方から来たのか?」
「荷はね。粒がいつ入ったかは別だけど」
レグルが紙札を覗き込んだ。
「まず店に聞くか。仕入れた時からその袋だったのか」
「うん。どこから来た荷なのか、もう少し分かるかもしれない」
「なら明日だな」
ソルガルトが札を卓へ戻す。
風の国という行き先だけが、先に決まったわけではない。
ただ、この香辛料が来た道を辿れば、少なくとも次に見るべき場所は見えてくる。
「俺も行くぞ」
ソルガルトが言った。
「うん」
「……止めねえのか? もっとこう、病み上がりだから休めとか」
「それ、あんたが言うのか」
レグルが呆れた声を挟んだ。
「あんたの穢れ引き受けて、昨日ぶっ倒れてたのこいつだぞ」
「……そういやそうだった」
「忘れんな」
「いや、忘れてたわけじゃねえ!」
ハミルは苦笑しながら、ソルガルトの核を見る。穢れは残っている。だが昨日引いた後から、大きく悪化してはいない。意識も安定している。
「今の状態なら、一緒にいた方が何か変わった時に分かるからね。それに、一人で置いとく方が心配だし」
「何でだ!」
「日頃の行いです」
エルガが即答した。
ソルガルトが勢いよく振り返る。
「お前まで!」
「私は当然同行します」
「エルガも?」
「ソルガルト様だけを行かせる選択肢はないからな」
「おい、それどういう意味だ」
「そのままの意味です」
エルガは平然と言い切った。
レグルが椅子の背へもたれる。
「人数増えたな」
「レグルに拾われた時はイルと二人だったのにね」
ソルガルトが笑う。
「賑やかになって楽しいじゃねえか!」
「騒がしいの間違いかもしれねえけどな」
レグルが言う。
ソルガルトは指を折りながら、卓を囲む顔ぶれを数え始めた。
「俺とエルガが増えて……五人か」
そこで、ソルガルトの指が止まった。
「……いや、待て。お前はどこに入るんだ?」
「俺?」
「人間でも精霊でもないんだろ?」
ハミルは少し考えて、自分の手を見る。
「そう言われると、どこだろうね」
「また面倒くせえな!」
ソルガルトは少し考え、それからあっさり笑った。
「じゃあハミルでいいな!」
「そこだけ別枠?」
「いいだろ。五人は五人だ! 名前があるんだから十分だろ!」
一瞬、返す言葉がなかった。
人間でもない。精霊でもない。魔物でもない。
けれど、ハミルでいい。
妙に単純な言葉が、少しだけ胸へ残った。
「……そうかもね」
「だろ!」
「調子乗るな」
レグルが横から言う。
*
翌朝。
町を出る前に、ハミルたちは昨日の食堂へ立ち寄った。
開店前の店内では、店主が卓を拭いているところだった。四人で戻ってきたのを見て、不思議そうに眉を上げる。
「どうした。忘れ物か?」
「昨日もらった香辛料のことで、少し話があって」
ハミルは持ってきた紙包みを卓へ置いた。
「調べてみたら、香辛料じゃないものが混じってました。無理強いはできないけど、しばらくこれ使わないでもらえませんか?」
店主が眉をひそめる。
「昨日、だからあんなに気にしてたのか?」
「はい。昨日は可能性でしかなかったんですけど」
「でも昨日、お前らも食ってただろ」
「だから気づいたんです」
店主は腕を組み、紙包みを睨む。
すぐに信じろという方が無理な話だった。それでも、隣に立つソルガルトが珍しく真面目な顔で口を開く。
「俺もやめといた方がいいと思う。しばらく別の香辛料使えよ」
「お前に真顔で言われると気味悪いな」
「何でだよ!」
店主は少しだけ笑ってから、長く息を吐いた。
「分かった。お前にそこまで言われたらな。仕入れ元に確認するまでは使わねえ」
「助かります」
「こっちの台詞になるかもしれねえだろ」
そう言って、店主は厨房の棚から例の袋を取り出し、別の場所へ仕舞い込んだ。
「これ、仕入れた時からこの袋でしたか?中身を移し替えたりしてません?」
ハミルが尋ねると、店主は頷いた。
「ああ。俺が詰め替えたわけじゃねえよ。いつもの商人から、袋ごと買った」
「その商人はどこの方ですか?」
「風の国から乾物を運んでくる奴だ。途中でいくつか町を回って、ここにも寄る」
レグルがハミルを見る。
食堂へ届く前から、この袋に入っていたらしい。
「その人が通る道、知ってます?」
「大体ならな。西の街道からいつも来る。途中の町にも荷を下ろしてるはずだ」
店主はそう言って、いくつか町の名前を挙げた。
風の国へ続く道と重なっている。
ハミルはレグルと顔を見合わせた。
「順に見ていこうか」
「ああ。途中で何か見つかるかもしれねえしな」
「ありがとう。助かりました」
「仕入れ元には俺からも聞いとく。何か分かったら、次に来た時に教える」
「頼む」
ソルガルトが答えた。
店を出ると、朝の通りには昨日と同じように人が行き交っていた。
ハミルはその様子を見ながら、少しだけ足を止める。
昨日見た範囲では、弧のある者はいなかった。
けれど、それで町の全員が無事だと分かったわけではない。
そして今は、辿るべき道がひとつ見えた。
「行くぞ」
レグルに呼ばれて、ハミルは頷いた。
町の門を出る頃には、空が高く晴れていた。西へ続く街道。その先に風の国がある。
ハミルは外套の内側へ、灰色の粒を入れた小瓶と、三本線の印が付いた紙札をしまった。
レグルが横から確認する。
「忘れ物ないか。薬、水、食料」
「全部持った」
「無茶しない心は?」
「それ売ってる?」
レグルは呆れた顔でハミルを見る。
「今から買ってこい」
「もう門出ちゃったよ」
後ろから豪快な笑い声がする。
「お前ら面白えな!」
「ソルガルト様、荷物を私へ押し付けないでください」
「重くねえだろ!」
「重さではなく、自分で持ってください」
エルガが荷物を押し返す。
「細けえなあ!」
「当然です」
ソルガルトが渋々肩へ掛け直し、レグルがそれを見て笑っている。ハミルも笑った。
数日前まで、自分は魔王と呼ばれて逃げていた。今も、その状況が消えたわけではない。追手に見つかれば、また逃げる必要がある。身体の中には、王都とレグルとソルガルトから引き受けた穢れが残っている。
それでも今は、行き先がある。確かめるものがある。そして、一緒に歩く相手がいる。
『ハミル』
『何?』
『前を見ろ』
言われて顔を上げる。西から吹いた風が、焦げ茶に擬態した髪を揺らした。
道は長い。でも、もう逃げるための道ではなかった。
「行こうか」
「ああ」
「おう!」
「行こう」
それぞれ違う声が返る。
ハミルは風の国へ続く街道へ、一歩踏み出した。
今度は、原因を見つけるために。
ここまでお付き合いいただきありがとうございました!次回から第三章になります。
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