第054話 南へ
村を出たのは、日が少し傾き始めてからだった。
宿へ戻って荷物をまとめ、世話になった者たちへ挨拶をしているうちに思ったより時間がかかった。リノには「また来い」と言われたが、ハミル自身は次にいつこの村へ来ることになるのか分からない。
だから曖昧に笑って、「元気でね」とだけ返した。
南へ続く街道には、祭り帰りの商人や旅人がまだちらほら残っている。荷車の轍が乾いた土に何本も走り、その先へ長く伸びていた。
「今日はどこまで行く?」
ハミルが聞くと、レグルが空を見上げた。西へ傾き始めた日はまだ高いが、次の宿場まで歩ききれるほどの時間は残っていない。
「今からなら、次の宿場までは無理だな。街道沿いに休める場所があるらしい」
「野宿?」
「嫌か?」
問い返され、ハミルは肩をすくめる。
「別に。最近慣れたし」
「慣れるもんでもねえだろ」
そう言いながら、レグル自身は慣れきった様子で荷を背負い直した。
その後ろでは、ソルガルトがやけに上機嫌な鼻歌を歌っている。
「何か機嫌いいね」
「そうか?」
本人には自覚がないらしい。ハミルが朝よりいい、と返すと、ソルガルトは少し考えてから腹をさすった。
「腹減ってるだけじゃねえか?」
「それ、機嫌いい理由じゃなくない?」
「俺は食う予定があると機嫌いいぞ」
胸を張って言われ、ハミルは少し笑った。
そういえば、山を下りる途中で話していた知り合いも、この先にいると言っていた。
「南の町の知り合いって、何してる人なの?」
「店をやってるな」
「何の?」
「そりゃもちろん、飯屋」
妙に納得してしまい、ハミルは思わず「ああ」と声を漏らした。
「何だその顔」
「いや、ソルガルトの人間の友達って聞いた時は意外だったけど、飯屋って聞いたら急に納得した」
「なんか失礼な気がするのは気のせいか?」
「でも当たってるでしょ」
「まあな」
否定しないらしい。
ソルガルトは歩きながら、昔の店のことをぽつぽつ話した。大通りから一本外れた場所にある小さな店で、昔は夫婦二人で切り盛りしていたこと。昼より夜の方が賑やかで、酒より煮込みがうまいこと。
話しているうちに、声が少しだけ懐かしむような響きに変わった気がした。
「今も同じ人がやってるの?」
「親父の方はもういねえ。今は息子だ」
ソルガルトは前を向いたまま答えた。
「息子さんとも知り合いなんだ」
「ガキの頃から知ってる」
「じゃあ結構長いんだね」
「まあな」
そこで話は途切れた。
ハミルは、ソルガルトが何気なく使った「もういない」という言葉を少しだけ気にしたが、本人の表情は変わらない。
人間の寿命が精霊より短いことなど、ソルガルトにとってはずっと前から当たり前なのだろう。
しばらく轍に沿って歩いてから、ハミルはもう一つ思い出す。
「もう一人の精霊は?」
「ん?」
「エルガが言ってた。南の町にいるって」
「あいつは店やってねえぞ」
「そこは聞いてない」
思わず突っ込むと、隣でレグルが小さく笑った。
ソルガルトは気にした様子もなく続ける。
「人間に混じって暮らしてる。今も同じ場所にいるかは知らん」
「人間に混じって?」
「珍しくはない」
少し後ろを歩いていたエルガが答えた。
「姿を変えられる精霊なら、人の町で暮らす奴もいる。長く同じ場所に留まるなら、立場を変える必要はあるが」
ハミルは歩調を少し緩め、エルガを振り返る。
「立場?」
「家族を装ったり、代替わりしたことにしたりだな」
「大変そう」
「本人は楽しんでたが」
エルガの口元が、ほんの少しだけ緩む。
それを見て、ハミルは何となくその精霊に会ってみたくなった。
今まで出会った精霊は、人の生活圏から少し離れている者が多かった。沢や山、森。レグルのように人間として暮らす精霊もいるが、それがどれほど珍しいのかはよく分かっていなかった。
街道の先から、荷車が一台近づいてくる。
道幅が狭くなる場所で、御者が困ったように馬を止めた。車輪が片方、浅い溝へ落ちている。
「ちょっと押してやるか」
ソルガルトは誰に聞くでもなく荷を下ろした。
「手伝いますよ」
ハミルも続く。
御者は最初こそ遠慮したが、車輪は一人で上げられそうにない。結局、レグルまで加わって荷車を持ち上げることになった。
「せーの!」
ソルガルトの掛け声が妙に大きい。
三人で押すと、車輪はあっさり溝を越えた。
「助かったよ。ありがとう」
御者が何度も頭を下げる。
「いいっていいって。代わりに何か食い物――」
「ソルガルト様」
低く名を呼ばれ、ソルガルトが慌てて手を振った。
「冗談だよ!」
御者は笑いながら、荷台から小さな焼き菓子をいくつか取り出した。
「これくらいなら持っていってくれ」
途端にソルガルトの顔が明るくなる。
「助かる!」
「だから貰う前提で言わないでよ」
呆れながらも、ハミルは渡された一つを受け取った。
道端へ戻り、再び歩き出す。少し硬い焼き菓子は、噛むほどに甘さと香ばしさが広がった。
「うまいな」
ソルガルトは満足そうだった。
少し前を歩く背中を見ながら、ハミルは声を落とす。
「本当に昔からこうなの?」
「ああ」
エルガの返事に迷いはなかった。
「困ってる奴を見つけたら、よく首を突っ込む」
「おい、聞こえてるぞ」
振り返ったソルガルトへ、エルガは涼しい顔を向ける。
「悪くは言ってませんよ」
「今のは絶対褒めてねえだろ」
そのやり取りを見て、ハミルは少し笑った。
旅を始めてから、ソルガルトが道端で困っている人に声をかける姿は何度も見てきた。出会ってからまだそれほど長いわけでもないのに、こういう場面にはすっかり見覚えがある。
昔のソルガルトのことは、まだほとんど知らない。それでも、今と同じように誰かの困り事へ首を突っ込んでいた姿なら、容易に想像できた。
*
日が落ちきる前に、街道脇の休憩所へ辿り着いた。
屋根と壁が二方だけある簡素な場所で、旅人が火を使える石組みも残っている。先客はいなかった。
レグルとエルガが手際よく火を起こし、ハミルは水を汲みに行く。ソルガルトはさっき貰った焼き菓子を数えていた。
「まだ食べるの?」
「飯は飯、菓子は菓子だろ」
真顔で返され、ハミルは水袋を置きながら首を傾げる。
「そういう問題かな」
荷を下ろして座ると、脚に心地よい疲れが広がった。
遠くに街道が見える。何台か荷車が通り過ぎ、夕闇へ消えていった。
南の町までは、あと二日ほど。
その先には風の国がある。
灰色の粒を追うという目的は変わらない。それなのに、今は少しだけ、その途中にも楽しみができた気がした。
『随分気楽になったな』
イルが言う。
『そう?』
『悪いとは言っておらぬ』
胸の奥の声は、それ以上何も言わなかった。
ハミルは火の向こうにいる三人を見る。
ソルガルトが何か言い、レグルが笑い、エルガが呆れたように返している。
少し前まで、こんなふうに誰かと旅をすること自体、考えてもいなかった。
風の国へ着けば、また調べることが増える。
だから今くらいは、この道中を楽しんでもいいのかもしれない。




