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世界が彼を魔王と呼ぶまで  作者: ぶん吉
第三章

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第052話 残ったもの

 翌朝、村を発つ前に、ハミルたちはもう一度山へ入った。


 灰色の粒を追うことは決めた。けれど、その前に一つだけ、確かめておきたいことがあった。


 昨日、村の男たちが見回った道を辿っていく。足元には新しい靴跡が残り、折れた枝には目印代わりの布まで結ばれていた。


「ちゃんと続ける気なんだな」


 レグルが布を指で弾く。


「うん」


 ハミルは頷きながら、その向こうへ目を凝らした。


 山へ入ってからずっと気にしていたものがある。村からこちらへ流れてくる、薄い穢れの筋だ。


 なくなったわけではない。けれど、祭りの日に見たものとは明らかに違っていた。あの時は幾重にも重なった黒い流れが山へ押し寄せていたのに、今はところどころ途切れながら、細く漂っているだけだ。


「……薄くなってる」


「何が?」


 ソルガルトが振り返る。


「穢れだよ。祭りの時より、ずっと」


 レグルも同じ方向を見て、目を細めた。


「消えたわけじゃねえみたいだけどな」


「うん。でも、前みたいにどんどん流れ込んでる感じじゃない」


 村の人たちが落ち着いたからなのか。リノを巡る騒ぎが収まったからなのか。それとも、ほかにも理由があるのか。そこまでは分からない。


 ただ、少なくとも悪くなってはいなかった。


「なら、もう平気なんじゃねえか?」


 ソルガルトが言うと、ハミルは少し考えてから首を傾げた。


「それは、守り神も見てからね」


「慎重だな」


「ここまで来たんだからいいでしょ。それに顔を見ておきたいし」


 軽く笑ったソルガルトの横を、エルガが先へ進んでいく。


「ご本人の状態を確認するまでは、何とも言えません」


「ほら」


 得意げに振り返ったハミルに、レグルが呆れた声を出した。


「何でお前が得意げなんだよ」


 山道を進むにつれ、鳥の声が近くなった。以前は奥へ隠れていた小さな精霊も、今日は木の根元や枝の隙間からこちらを窺っている。


 目に見える景色が大きく変わったわけではない。それでも、山にまとわりついていた重さは薄れていた。


     *


 沢へ着くと、山の精霊は前と同じ岩のそばにいた。


 ハミルたちに気づき、ゆっくり顔を上げる。


「また来たか」


「様子見にね」


 素っ気ない返事に、山の精霊はハミルたちを見回した。


「見れば分かるだろう」


「一応、本人にも聞いておこうと思って」


 ハミルが近づくと、山の精霊はわずかに眉を寄せた。


「変わった人間だな」


「よく言われる」


 いつもの調子で返すと、山の精霊は間を置かずに言った。


「人間ではないだろ」


「あ、そっち?」


 横でソルガルトが吹き出す。山の精霊はそちらを一瞥しただけで、すぐにハミルへ視線を戻した。


 前に会った時より、姿の揺らぎは少ない。声にも力がある。周囲に見える穢れも薄く、少なくとも新たに抱え込んでいるようには見えなかった。


「昨日から、流れてくるものが減った」


 山の精霊が村の方角を見る。


「やっぱり」


「分かるのか」


「途中で見えた。祭りの時より、かなり薄い」


「私が感じるものも、今はそれほど強くない」


 完全になくなったわけではない。細い流れは今も山へ届いている。


 けれど、山の精霊の声に切迫した響きはない。人が暮らし、恐れたり怒ったりする以上、何も流れてこない方が不自然なのかもしれない。


「村の人たち、昨日から山の見回りを始めたよ」


「そうか」


「体調が悪い人も、隠さないで薬師さんに診てもらうようになった。何かあったら、村長にも知らせるって」


 山の精霊は黙って聞いていた。ハミルはその横顔を見ながら、広場で耳にした言葉を思い出す。


「守り神に任せておけばいい、って人もまだいるけど」


「それは昔からだ」


「やっぱり?」


 山の精霊が迷いなく頷くのを見て、ハミルは少し笑った。


「じゃあ、急には変わらないか」


「変わる必要もない」


「そうなの?」


 意外に思って聞き返すと、山の精霊は村の方角へ目を向けた。


「勝手に祈る分には好きにさせておけばいい。私に何もかも押しつけなければな」


 その言葉に、ハミルは目を瞬いたあと頷いた。


「それなら、今はちょっと良くなったかも」


「そうらしいな」


 沢の水音が静かに続いている。


 ソルガルトが辺りを見回し、大きく息を吸った。


「前より静かになったな」


「お前が黙ればもっと静かだ」


「俺の話かよ!」


「ほかに誰がいる」


 すぐに返され、レグルが笑う。エルガだけは当然のことを聞いたような顔で頷いていた。


「確かに、ソルガルト様がお静かであれば、より穏やかかと」


「エルガ!?」


 沢に声が響く。


 山の精霊は嫌そうに眉を寄せたが、その姿が揺らぐことはなかった。


 ハミルは少し離れたところから、その様子を見ていた。


『引く必要はなさそうだな』


 イルの声がする。


『うん』


 前なら、目の前に穢れがあれば引いてしまおうと考えていたかもしれない。けれど今見えている穢れは、祭りの日に比べればずっと薄い。山の精霊自身も安定していて、本人も流れ込むものは弱まったと言っている。


 何でも自分が持っていけばいいわけではない。


「どうした」


 レグルが隣から覗き込む。


「いや。大丈夫そうだなって」


「お前が何もしなくても?」


「それどういう意味」


 思わず睨むと、レグルは呆れたように肩をすくめた。


「見つけたらすぐ引こうとするだろ、お前」


「……今日はしないよ」


「今日は、な」


 まったく信用されていないらしい。ハミルは少し不満だったが、言い返せるほどの自信もなかった。


     *


 沢を離れる前に、ハミルはもう一度だけ山の精霊を振り返った。


「俺たち、今日ここを出ることにしたんだ」


「そうか」


「もともと追ってたものが、この村にもあったんだ。だから、もう一度その先を追ってみることにした」


 詳しいことまでは話していない。それでも山の精霊は何かを察したのか、少しだけ目を細めた。


「また厄介事へ首を突っ込むのか」


「そういうつもりじゃないんだけど」


「毎回そう言ってそうだな、お前」


 ソルガルトが横から笑う。


「言ってないよ」


「似たようなことは言ってる」


 レグルまで加わり、ハミルは口を閉じた。


 山の精霊はそんな三人を眺めてから、村の方へ顔を向ける。


「こちらは気にするな」


「でも――」


「今のところ、流れてくるものは弱まっている。私も問題ない」


 短い言葉に、ハミルも山を見回した。


 薄い穢れは残っている。けれど、祭りの日に見た流れとは比べものにならないほど細い。山の精霊の姿も安定し、小さな精霊たちも戻り始めている。


 少なくとも、今すぐ自分たちが何かをしなければならない状態ではない。


「分かった」


 今度は素直に頷いた。


「何かあったら、村の人たちにもちゃんと教えてあげてね」


「なぜ私が」


「守り神なんでしょ?」


「勝手にそう呼ばれているだけだ」


 そっけなく返されても、ハミルは引かなかった。


「でもちゃんと見てるじゃん」


 山の精霊が黙る。それを見たソルガルトが、にやりと笑った。


「図星だな」


「お前は黙れ」


「俺にだけ厳しくねえか?」


 山の精霊は顔色一つ変えない。


「当然だ」


 また言い合いが始まりそうになり、エルガがソルガルトの袖を引いた。


「ソルガルト様。そろそろ参りましょう」


「何で俺だけ止められんだよ」


「長くなりますので」


 淡々と言い切るエルガに、ソルガルトが情けない顔を向ける。


「お前も厳しくない?」


 レグルが先に歩き出し、ハミルもその後を追う。


「またね」


 振り返って手を振ると、山の精霊は返事をしなかった。


 けれど、少し歩いたところで声が飛んできた。


「待て」


「ん?」


 ハミルが振り返る。


 山の精霊は、先ほどまでとは違う顔でこちらを見ていた。何かを言おうとしているのに、言葉を選びかねているような、そんな顔だった。


「……お前は、大丈夫なのか」


「俺?」


「イルは、最後に会った頃も大したことではないと言っていた」


 胸の奥で、イルの気配がわずかに揺れた。


 山の精霊の視線が、ハミルから外れない。


「お前も、似たようなことを言う」


「ああ……」


 ハミルは思わずレグルを見る。案の定、ものすごく同意したそうな顔をしていた。


「でも俺、もう黒いよ。前にも見たでしょ」


 穢れを引いた時、擬態が解けた。黒い髪も、黒い瞳も、この精霊には見られている。


「それでも、イルと同じだとは思わないの?」


 山の精霊は少しだけ眉を寄せた。


「お前は違うだろう」


 迷いのない返事だった。


 今度はハミルが目を瞬く。


「何で?」


「色の話をしているのではない」


 それだけ言うと、山の精霊は一度口を閉ざした。


 沢の水音が、短い沈黙を埋める。


「……イルを救ったのは、お前なのだな」


 突然そう言われて、ハミルは返事に迷った。


「俺だけじゃないよ」


「それでもだ」


 山の精霊は静かに言った。


「礼を言う」


 胸の奥が、しんと静まる。


 ハミルが何か言うより先に、イルの声が響いた。


「余計なことを言うな」


「昔から礼を言われるのが苦手だったな」


「黙れ」


 山の精霊が、ほんの少しだけ笑う。


 その顔はすぐにいつもの無愛想なものへ戻った。


「だから、お前も同じになるな」


 今度の言葉はハミルへ向けられていた。


「抱え込んで、大したことではないと言って、誰からも離れていくような真似はするな」


 ハミルはすぐには答えなかった。胸の奥も、何も言わない。


「……うん。気をつける」


「気をつける、ではなく守れ」


「厳しいなあ」


「お前を見ていれば、それくらいでちょうどいい」


 後ろでレグルが大きく頷いた。


「俺もそう思う」


「レグルまで?」


「むしろ俺が一番そう思ってる」


 ハミルは少しだけ頬を膨らませたが、もう一度山の精霊を見る。


「分かった。ちゃんと覚えとく」


「なら行け」


 今度こそ追い払うように片手を上げる。


「うん。またね」


 歩き出すと、胸の奥から小さな声がした。


『……世話を焼くような奴ではなかったのだがな』


『心配なんじゃない? イルの友達だし』


『誰が友だ』


 最後まで言い切る前に、ハミルは笑った。


 山を下りながら、ハミルは村へ続く穢れの流れをもう一度見る。


 細く、薄い。なくなってはいないけれど、前のように山を覆うほどではなかった。


 それで十分なのかもしれない。


 村の人たちは、これからも怖がるだろう。魔物が出れば不安にもなるし、また守り神へ縋ることもある。それでも今は、自分たちで山を見回り、病人を隠さず、何が起きているのか確かめようとしている。


 その変化が続くなら、きっとこの山も大丈夫だ。


「これで行けるな」


 隣を歩くレグルが言った。


「うん」


「南の街道だっけ?」


「そう。まずは商人の足取りを追ってみる」


 ハミルは山道の先に見え始めた村を見下ろした。ここで確かめたかったことは、もう確かめた。

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