第052話 残ったもの
翌朝、村を発つ前に、ハミルたちはもう一度山へ入った。
灰色の粒を追うことは決めた。けれど、その前に一つだけ、確かめておきたいことがあった。
昨日、村の男たちが見回った道を辿っていく。足元には新しい靴跡が残り、折れた枝には目印代わりの布まで結ばれていた。
「ちゃんと続ける気なんだな」
レグルが布を指で弾く。
「うん」
ハミルは頷きながら、その向こうへ目を凝らした。
山へ入ってからずっと気にしていたものがある。村からこちらへ流れてくる、薄い穢れの筋だ。
なくなったわけではない。けれど、祭りの日に見たものとは明らかに違っていた。あの時は幾重にも重なった黒い流れが山へ押し寄せていたのに、今はところどころ途切れながら、細く漂っているだけだ。
「……薄くなってる」
「何が?」
ソルガルトが振り返る。
「穢れだよ。祭りの時より、ずっと」
レグルも同じ方向を見て、目を細めた。
「消えたわけじゃねえみたいだけどな」
「うん。でも、前みたいにどんどん流れ込んでる感じじゃない」
村の人たちが落ち着いたからなのか。リノを巡る騒ぎが収まったからなのか。それとも、ほかにも理由があるのか。そこまでは分からない。
ただ、少なくとも悪くなってはいなかった。
「なら、もう平気なんじゃねえか?」
ソルガルトが言うと、ハミルは少し考えてから首を傾げた。
「それは、守り神も見てからね」
「慎重だな」
「ここまで来たんだからいいでしょ。それに顔を見ておきたいし」
軽く笑ったソルガルトの横を、エルガが先へ進んでいく。
「ご本人の状態を確認するまでは、何とも言えません」
「ほら」
得意げに振り返ったハミルに、レグルが呆れた声を出した。
「何でお前が得意げなんだよ」
山道を進むにつれ、鳥の声が近くなった。以前は奥へ隠れていた小さな精霊も、今日は木の根元や枝の隙間からこちらを窺っている。
目に見える景色が大きく変わったわけではない。それでも、山にまとわりついていた重さは薄れていた。
*
沢へ着くと、山の精霊は前と同じ岩のそばにいた。
ハミルたちに気づき、ゆっくり顔を上げる。
「また来たか」
「様子見にね」
素っ気ない返事に、山の精霊はハミルたちを見回した。
「見れば分かるだろう」
「一応、本人にも聞いておこうと思って」
ハミルが近づくと、山の精霊はわずかに眉を寄せた。
「変わった人間だな」
「よく言われる」
いつもの調子で返すと、山の精霊は間を置かずに言った。
「人間ではないだろ」
「あ、そっち?」
横でソルガルトが吹き出す。山の精霊はそちらを一瞥しただけで、すぐにハミルへ視線を戻した。
前に会った時より、姿の揺らぎは少ない。声にも力がある。周囲に見える穢れも薄く、少なくとも新たに抱え込んでいるようには見えなかった。
「昨日から、流れてくるものが減った」
山の精霊が村の方角を見る。
「やっぱり」
「分かるのか」
「途中で見えた。祭りの時より、かなり薄い」
「私が感じるものも、今はそれほど強くない」
完全になくなったわけではない。細い流れは今も山へ届いている。
けれど、山の精霊の声に切迫した響きはない。人が暮らし、恐れたり怒ったりする以上、何も流れてこない方が不自然なのかもしれない。
「村の人たち、昨日から山の見回りを始めたよ」
「そうか」
「体調が悪い人も、隠さないで薬師さんに診てもらうようになった。何かあったら、村長にも知らせるって」
山の精霊は黙って聞いていた。ハミルはその横顔を見ながら、広場で耳にした言葉を思い出す。
「守り神に任せておけばいい、って人もまだいるけど」
「それは昔からだ」
「やっぱり?」
山の精霊が迷いなく頷くのを見て、ハミルは少し笑った。
「じゃあ、急には変わらないか」
「変わる必要もない」
「そうなの?」
意外に思って聞き返すと、山の精霊は村の方角へ目を向けた。
「勝手に祈る分には好きにさせておけばいい。私に何もかも押しつけなければな」
その言葉に、ハミルは目を瞬いたあと頷いた。
「それなら、今はちょっと良くなったかも」
「そうらしいな」
沢の水音が静かに続いている。
ソルガルトが辺りを見回し、大きく息を吸った。
「前より静かになったな」
「お前が黙ればもっと静かだ」
「俺の話かよ!」
「ほかに誰がいる」
すぐに返され、レグルが笑う。エルガだけは当然のことを聞いたような顔で頷いていた。
「確かに、ソルガルト様がお静かであれば、より穏やかかと」
「エルガ!?」
沢に声が響く。
山の精霊は嫌そうに眉を寄せたが、その姿が揺らぐことはなかった。
ハミルは少し離れたところから、その様子を見ていた。
『引く必要はなさそうだな』
イルの声がする。
『うん』
前なら、目の前に穢れがあれば引いてしまおうと考えていたかもしれない。けれど今見えている穢れは、祭りの日に比べればずっと薄い。山の精霊自身も安定していて、本人も流れ込むものは弱まったと言っている。
何でも自分が持っていけばいいわけではない。
「どうした」
レグルが隣から覗き込む。
「いや。大丈夫そうだなって」
「お前が何もしなくても?」
「それどういう意味」
思わず睨むと、レグルは呆れたように肩をすくめた。
「見つけたらすぐ引こうとするだろ、お前」
「……今日はしないよ」
「今日は、な」
まったく信用されていないらしい。ハミルは少し不満だったが、言い返せるほどの自信もなかった。
*
沢を離れる前に、ハミルはもう一度だけ山の精霊を振り返った。
「俺たち、今日ここを出ることにしたんだ」
「そうか」
「もともと追ってたものが、この村にもあったんだ。だから、もう一度その先を追ってみることにした」
詳しいことまでは話していない。それでも山の精霊は何かを察したのか、少しだけ目を細めた。
「また厄介事へ首を突っ込むのか」
「そういうつもりじゃないんだけど」
「毎回そう言ってそうだな、お前」
ソルガルトが横から笑う。
「言ってないよ」
「似たようなことは言ってる」
レグルまで加わり、ハミルは口を閉じた。
山の精霊はそんな三人を眺めてから、村の方へ顔を向ける。
「こちらは気にするな」
「でも――」
「今のところ、流れてくるものは弱まっている。私も問題ない」
短い言葉に、ハミルも山を見回した。
薄い穢れは残っている。けれど、祭りの日に見た流れとは比べものにならないほど細い。山の精霊の姿も安定し、小さな精霊たちも戻り始めている。
少なくとも、今すぐ自分たちが何かをしなければならない状態ではない。
「分かった」
今度は素直に頷いた。
「何かあったら、村の人たちにもちゃんと教えてあげてね」
「なぜ私が」
「守り神なんでしょ?」
「勝手にそう呼ばれているだけだ」
そっけなく返されても、ハミルは引かなかった。
「でもちゃんと見てるじゃん」
山の精霊が黙る。それを見たソルガルトが、にやりと笑った。
「図星だな」
「お前は黙れ」
「俺にだけ厳しくねえか?」
山の精霊は顔色一つ変えない。
「当然だ」
また言い合いが始まりそうになり、エルガがソルガルトの袖を引いた。
「ソルガルト様。そろそろ参りましょう」
「何で俺だけ止められんだよ」
「長くなりますので」
淡々と言い切るエルガに、ソルガルトが情けない顔を向ける。
「お前も厳しくない?」
レグルが先に歩き出し、ハミルもその後を追う。
「またね」
振り返って手を振ると、山の精霊は返事をしなかった。
けれど、少し歩いたところで声が飛んできた。
「待て」
「ん?」
ハミルが振り返る。
山の精霊は、先ほどまでとは違う顔でこちらを見ていた。何かを言おうとしているのに、言葉を選びかねているような、そんな顔だった。
「……お前は、大丈夫なのか」
「俺?」
「イルは、最後に会った頃も大したことではないと言っていた」
胸の奥で、イルの気配がわずかに揺れた。
山の精霊の視線が、ハミルから外れない。
「お前も、似たようなことを言う」
「ああ……」
ハミルは思わずレグルを見る。案の定、ものすごく同意したそうな顔をしていた。
「でも俺、もう黒いよ。前にも見たでしょ」
穢れを引いた時、擬態が解けた。黒い髪も、黒い瞳も、この精霊には見られている。
「それでも、イルと同じだとは思わないの?」
山の精霊は少しだけ眉を寄せた。
「お前は違うだろう」
迷いのない返事だった。
今度はハミルが目を瞬く。
「何で?」
「色の話をしているのではない」
それだけ言うと、山の精霊は一度口を閉ざした。
沢の水音が、短い沈黙を埋める。
「……イルを救ったのは、お前なのだな」
突然そう言われて、ハミルは返事に迷った。
「俺だけじゃないよ」
「それでもだ」
山の精霊は静かに言った。
「礼を言う」
胸の奥が、しんと静まる。
ハミルが何か言うより先に、イルの声が響いた。
「余計なことを言うな」
「昔から礼を言われるのが苦手だったな」
「黙れ」
山の精霊が、ほんの少しだけ笑う。
その顔はすぐにいつもの無愛想なものへ戻った。
「だから、お前も同じになるな」
今度の言葉はハミルへ向けられていた。
「抱え込んで、大したことではないと言って、誰からも離れていくような真似はするな」
ハミルはすぐには答えなかった。胸の奥も、何も言わない。
「……うん。気をつける」
「気をつける、ではなく守れ」
「厳しいなあ」
「お前を見ていれば、それくらいでちょうどいい」
後ろでレグルが大きく頷いた。
「俺もそう思う」
「レグルまで?」
「むしろ俺が一番そう思ってる」
ハミルは少しだけ頬を膨らませたが、もう一度山の精霊を見る。
「分かった。ちゃんと覚えとく」
「なら行け」
今度こそ追い払うように片手を上げる。
「うん。またね」
歩き出すと、胸の奥から小さな声がした。
『……世話を焼くような奴ではなかったのだがな』
『心配なんじゃない? イルの友達だし』
『誰が友だ』
最後まで言い切る前に、ハミルは笑った。
山を下りながら、ハミルは村へ続く穢れの流れをもう一度見る。
細く、薄い。なくなってはいないけれど、前のように山を覆うほどではなかった。
それで十分なのかもしれない。
村の人たちは、これからも怖がるだろう。魔物が出れば不安にもなるし、また守り神へ縋ることもある。それでも今は、自分たちで山を見回り、病人を隠さず、何が起きているのか確かめようとしている。
その変化が続くなら、きっとこの山も大丈夫だ。
「これで行けるな」
隣を歩くレグルが言った。
「うん」
「南の街道だっけ?」
「そう。まずは商人の足取りを追ってみる」
ハミルは山道の先に見え始めた村を見下ろした。ここで確かめたかったことは、もう確かめた。




