第050話 隠さない
翌朝、ハミルたちは昨夜と同じように小屋の裏へ回った。積まれた薪の陰に隠れた戸を母親に開けてもらい、順に中へ入る。
リノはすでに寝台の上で身体を起こしていた。昨夜まで熱に浮かされていたのが嘘のように顔色はよく、差し込む朝の光の中で、何度も右腕を眺めていた。
「おはよう、兄ちゃん」
「おはよう。具合どう?」
「平気。腹減った」
それだけ言えるなら、少なくとも昨夜よりはずっと元気そうだ。
母親も少し笑ったが、すぐに表情を引き締めた。
「昨日のお話なんですけど」
「はい」
「みんなの前に出る前に、薬師様に診てもらおうと思います」
ハミルは頷いた。
「その方がいいと思います」
昨夜、村のみんなにリノを見てもらおうと言ったのはハミルだ。けれど、ハミルが大丈夫だと言ったところで、村人にとっては見知らぬ旅人の言葉でしかない。
ずっとリノを診ていた薬師が確かめた方がいい。
「じゃあ、薬師様を呼んでもらいます」
母親はそう言うと、裏口ではなく正面の戸へ向かった。
「そっちから行くんですか?」
思わずハミルが尋ねる。
「はい。もう、隠して呼ぶ必要はないと思うので」
少し緊張した顔ではあったが、母親は戸を開けた。外にいる見張りへ、リノの様子が変わったから薬師を呼んでほしいと頼む声が聞こえる。
見張りは戸の中を気にするような様子を見せたものの、やがて足音が遠ざかっていった。
その背を見送ってから、レグルがハミルの横へ来た。
「お前は何も言わなくていいからな」
「まだ何も言ってないけど」
「先に言っとく」
「信用ないなあ」
「昨日あれだけ喋っておいて何言ってんだ」
反論しようとして、やめた。リノが笑っていたからだ。
ほどなくして、見張りに連れられて薬師がやってきた。母親が正面の戸を開け、老人を中へ通す。
薬師は小屋へ入るなりハミルたちへ一度だけ目を向けた。見張りの目を避けて入ったはずの旅人が先にいるのだから、何か思うところはあっただろう。それでも何も聞かず、そのまま寝台へ向かい、リノの前に腰を下ろす。
「腕を見せろ」
「はい」
昨日とは違い、リノはためらわず袖をまくった。
薬師の目が細くなる。
手首から肘まで何度も確かめ、皮膚を押し、裏返す。続いて額に手を当て、脈を取り、目や喉まで診ていった。
「痛みは」
「ない」
「痒みは」
「ない」
「昨夜は眠れたか」
「うん。ぐっすり」
薬師は返事をせず、もう一度右腕を見る。
「……鱗は、ないな」
母親が胸元で手を握った。
「熱も下がっている。昨日あった症状は、今のところ見当たらん」
「じゃあ、治ったんですか?」
母親が尋ねると、老人は少し考えた。
「そう見える。だが、原因が分からん以上、しばらく様子は見た方がいい」
「はい」
「何か変わったことがあれば、すぐ呼べ」
母親は何度も頷いた。その様子を見ながら、ハミルは昨夜リノの中にあったものを思い返す。
王都で見たものと同じ、歪な擬核。自然にできたとは考えにくい。
「リノ、ちょっと聞いていい?」
「なに?」
「具合が悪くなる前に、何か今まで食べたことのないものを食べなかった? 薬でも、お菓子でもいいんだけど」
突然の質問に、リノは首を傾げた。母親も不思議そうにハミルを見る。
「食べたものが関係あるんですか?」
「まだ分かりません。ただ、水の国の王都で、似たようなことがあったんです」
薬師もハミルを見る。
「似たようなこと?」
「人の身体に、普通はないものができて、だんだん具合が悪くなったことがあって。その人たちが飲んでた薬に、灰色の粒が混じってました。それが原因の一つじゃないかって話になってたんです」
全部を話す必要はない。人が魔化したことまで言えば、かえって不安を煽るだけだ。
「それと同じものが、少し前に調べた香辛料にも入ってました。だから、もしかしたらと思って」
母親が何かを思い出したように顔を上げた。
「……香辛料」
「何かあります?」
「少し前に、商人から買いました。珍しいものだったから、私はいらないと言ったんですけど……」
「俺が食べたいって言った」
リノが手を上げる。
「赤くて、すごく辛そうだったから」
「辛そうだから食べたいって言う子、初めて見た」
「だって気になるじゃん」
リノは当然のように言う。母親は困ったように笑ってから、ハミルへ向き直った。
「この辺では見ないものだったので、買った人はほとんどいなかったと思います。うちも最初は断ったんですけど、この子がどうしてもって」
「まだ残ってます?」
「はい。家にあります」
母親が一度小屋を離れ、ほどなくして小さな布袋を持って戻ってきた。
「これです」
袋を開くと、赤褐色の粉から強い香りが立つ。ハミルは少量を掌へ取り、指先でゆっくり分けていった。
粉に紛れていた色の違う粒を見つけたところで、手が止まる。灰色だった。
「……ありました」
母親の顔が強張る。
「同じものが?」
「見た目は、ですけど。水、借りてもいいですか?」
薬師が近くの水差しを顎で示す。ハミルは小さな器へ水を注ぎ、香辛料をひとつまみ落とした。
赤褐色の粉が水へ広がり、ゆっくり沈んでいく。その中で、灰色の粒だけが形を崩さず、水を弾いて表面へ浮いた。
母親が息を呑む。
「……浮いてる」
「前に見たものも、こうなりました」
右腕の奥が、微かに熱を持つ。
『同じものだな』
『うん』
見た目だけではない。水への反応も、王都の薬や途中の町で調べた香辛料に混じっていたものと同じだった。
ハミルは水面に浮く粒を見つめる。
「だからって、これがリノの原因だとはまだ言えません。でも、王都の時のことを考えると、無関係とも思えないです」
「じゃあ、これを食べなければ、もう大丈夫なんですか?」
期待の混じった問いに、ハミルはすぐには頷かなかった。
「そこまでは、まだ分かりません。でも、少なくともこれは食べない方がいいと思います」
薬師も袋の中を覗き込み、難しい顔をする。
「他に買った家がないか確認しておく。残っているなら食わせるなと伝えた方がいいな」
「たぶん、ほとんどいないと思います。この村、あまり見慣れないものを買う人はいないので」
母親がそう言うと、薬師も頷いた。
「私も売り歩いていた商人は見たが、食いついている者はほとんどおらんかったな」
ハミルは小さく息をついた。少なくとも、村中の家で同じ香辛料が使われているわけではないらしい。それだけでも、少しだけ肩の力が抜ける。
「念のため、体調が悪い人がいたら診てもらえますか?」
「言われんでもそのつもりだ」
ぶっきらぼうな返事に、ハミルは少しだけ笑った。
少し離れたところでは、レグルたちも口を挟まず話を聞いていた。ソルガルトも珍しく静かで、エルガとともに母親の手元の袋を見ている。今は三人とも、ハミルに任せるつもりらしい。
母親はその袋を見つめてから、少し迷うように戸口へ目を向ける。
「……外へ出しても?」
「寝かせておく必要はなさそうだが」
薬師はそこで言葉を切り、リノを見た。
「走り回るなよ」
「分かってる」
「お前の分かってるは信用ならん」
「なんでだよ」
リノが頬を膨らませる。
昨日までとは違うやり取りに、母親が小さく笑った。
ハミルは何も言わず、それを見ていた。
しばらくして、小屋の戸が開いた。
最初に外へ出たのは薬師だった。その後ろを母親とリノが続く。
ハミルたちは少し離れて歩いた。
昨日、自分から提案したことではある。けれど、リノを連れ出すのは自分ではない方がいいと思った。これはリノと母親が、村へ戻るための一歩なのだから。
朝の村では、祭りの片づけが続いていた。
道端に積まれた荷を運んでいた男が、こちらを見て動きを止める。
「……リノ?」
その声に、近くにいた者たちも振り返った。
「外に出てるぞ」
「大丈夫なのか?」
「腕は?」
ざわめきが広がっていく。
リノの足が少しだけ鈍った。
母親が隣から手を握る。
それでも、引き返さなかった。
「リノ」
呼ばれて、少年が振り向く。
視線が右腕へ集まっていることに気づいたのだろう。少し迷ってから、自分で袖をまくった。
朝日に照らされた腕には、黒ずみも鱗もない。
「……ない」
誰かが呟いた。
「鱗が出てたんじゃなかったのか?」
「本当に出てたのか?」
「痣か何かが、そう見えたんじゃないのか」
あちこちから声が上がる。薬師は昨日のことには触れず、リノの腕へ目をやった。
「今朝診た限りでは、腕に異常はない。熱も下がっている」
「治ったのか?」
「今のところ症状はない。しばらく様子は見るがな」
薬師がそう言うと、張りつめていた空気が少しだけ緩んだ。
けれど、すぐに別の声が上がる。
「魔物に憑かれたって話は?」
「俺は魔物になるって聞いたぞ」
「誰がそんなこと言ったんだ?」
「いや、俺も聞いただけで……」
顔を見合わせる村人たちの間で、ざわめきの質が変わっていく。
昨日までは、リノの姿を見ないまま話だけが広がっていた。今は、その本人が目の前に立っている。
「何をしている」
低い声が割って入った。
人垣の向こうから、村長が歩いてくる。リノの姿を認めるなり、その顔が険しくなった。
「なぜ外へ出した」
母親の手に力が入る。
「薬師様に診ていただきました」
「だからといって――」
「私が出して構わんと言った」
薬師が遮った。
村長が眉を寄せる。
「原因は分かったのか」
「いや」
「なら、また同じことが起きないとは言えんだろう」
「それはそうだ」
薬師はあっさり認めた。
「だが、熱もない。身体にも何も異常はない。痛みも痒みもない。今のこの子を閉じ込めておく理由も、私には分からん」
村長が黙る。
母親は一度リノを見てから、意を決したように顔を上げた。
「私も、この子をもうあそこへ戻したくありません」
「しかし――」
「何かあったら、すぐ薬師様に診てもらいます。勝手なことはさせません。だから……」
言葉が少し震えた。
「何も起きていないのに、怖いからって閉じ込めておくのは、もう嫌です」
リノが母親を見上げる。
村長はすぐには答えなかった。
周囲では、村人たちも黙って成り行きを見守っている。
「昨日まで、あの腕だったんだぞ」
ようやく村長が言った。
「何が起きたのかも分からない。それを、もう大丈夫だとどうして言える」
「大丈夫だなんて、誰も言ってませんよ」
思わず口を挟んだ。
村長がハミルを見る。
前へ出るつもりはなかった。けれど、母親とリノを見ていると、黙ってもいられなかった。
「薬師さんも、様子を見るって言ってます」
「お前たちは、何を知っている」
ハミルは一瞬だけ考えた。
「前に、似たような症状を見たことがあったので。それで、何か変わったものを口にしてないか聞いただけです」
村長が眉を寄せる。その視線を受けて、薬師が口を開いた。
「その話を聞いて調べたら、この子が食べた香辛料に妙な粒が混じっていた」
「妙な粒?」
「灰色の粒だ。こいつの話じゃ、前に似た症状が出た時にも、同じようなものが見つかったらしい」
薬師はそこで一度言葉を切った。
「原因かどうかまでは分からん。だが、今は食わせない方がいいだろう。私も他に買った家がないか確認する」
村長はしばらく黙っていたが、やがてリノへ視線を戻した。
「少なくとも」
ハミルはリノを見る。
「少なくとも、この子が悪いものになったとか、魔物を呼んだとか、そういうふうには見えませんでした」
「見えなかった、で済ませろと?」
「分からないものを全部そう決めつけるよりは、いいと思います」
村長が口を閉じる。
「昨日まで、リノがどうなってるのか、ほとんどの人は見てなかったんですよね」
ハミルは周囲へ視線を向けた。
目を逸らす者が何人かいた。
「なのに、いろんな話が出てた」
魔物に憑かれた。
魔物になる。
近づけば危ない。
どれも、リノ自身を見ないまま膨らんだ話だ。
「知らないと、怖いのは分かります。俺だってそうです」
そこで一度、言葉を切る。
「でも、今は見れば分かることもあります」
ハミルはそれ以上続けなかった。
説得したいわけではない。リノはここにいる。鱗の消えた腕も、いつも通り母親の隣に立っている姿も、もう隠されてはいない。
村長は長く黙ったあと、薬師を見る。
「本当に、今は何もないんだな」
「私が診た限りではな」
「……分かった」
重い息を吐き、今度は母親へ目を向ける。
「何かあれば、すぐ知らせろ」
「はい」
「山へは行かせるな。しばらくは一人にもするな」
「分かりました」
それだけ言うと、村長はリノへ目をやった。
何か言いかけたようだったが、結局そのまま人垣を離れていく。
許された、というほど綺麗なものではない。ただ、少なくとも小屋へ戻れとは言われなかった。それで十分だった。
村長が去ると、止まっていた空気がまた動き始めた。
「本当に普通だな」
「だから言っただろ、鱗はもうないって」
「お前、さっきまで魔物になるって言ってなかったか?」
「俺が言ったんじゃない。聞いたんだよ」
「誰に?」
「……誰だったかな」
困ったような声に、近くで小さな笑いが起こる。
「なんだよ、それ」
「噂なんてそんなもんか」
「じゃあ、魔物に憑かれたってのも違ったのか」
誰かがそう言うと、別の男が肩をすくめた。
「本人があれなら、少なくとも聞いてた話とは全然違うな」
リノは居心地悪そうにしながらも、もう腕を隠そうとはしていなかった。
少し離れたところでは、また別の声がする。
「第二の魔王って話も、どこまで本当なんだろうな」
「さあな。俺たち、見たわけじゃないし」
ハミルは思わずそちらを見た。
話していた二人は、もう別の話題へ移っている。
それだけだった。
魔王が怖くなくなったわけでも、噂を信じなくなったわけでもない。ただ、ほんの少しだけ、聞いた話をそのまま怖がる前に立ち止まった。
『面白いものだな』
イルの声がする。
『何が?』
『一つ疑えば、他も疑い始める』
ハミルは村人たちを見る。
昨日まであれほど重く漂っていた黒いものが、少しだけ薄くなっていた。
何かを教えたわけでも、正しい答えを全部話したわけでもない。ただ、隠すのをやめただけだ。
「兄ちゃん」
服の裾を引かれ、視線を落とす。
リノだった。
「ん?」
少年は周囲に聞こえないよう、少し背伸びをする。
「黒いのも、いつか隠さなくてよくなるといいな」
ハミルは目を瞬いた。
昨夜の秘密。
リノはそれだけ言うと、何事もなかったように母親のところへ戻っていく。
『ませた子どもだ』
『いい子でしょ』
『否定はせぬ』
ハミルは少年の背中を見送り、それから自分の焦げ茶色の髪を一房つまんだ。
隠さなくてもいい日。そんなものが来るのかは、まだ分からない。
けれど、知らないものを、知らないまま怖がるしかないわけではない。今日の村を見ていると、ほんの少しだけ、そう思えた。




