第049話 悪いもの
母親の後を追って宿を出ると、村はすっかり寝静まっていた。
灯りの残る家も少ない。昼間なら誰かしら歩いていた道にも人影はなく、五人分の足音だけが妙に大きく聞こえた。
「こっちです」
母親は何度も振り返りながら細い路地へ入っていく。昼に歩いた道とは違い、家々の裏を抜け、畑の間を通り、村外れへ回り込む道だった。
「見張りは?」
レグルが小声で聞くと、母親も声を潜めた。
「夜は一人です。交代の時だけ、少し離れます」
「今がそれ?」
「はい。薬師様が教えてくれました」
ハミルは少しだけ目を丸くした。昼間、あれほど追い返そうとした老人の顔を思い出す。
「薬師さん、やっぱり助けたかったんだ」
「ずっと診てくれています。でも、村長に逆らえば、あの子を村から追い出すと言われて……だから、できることだけでもって」
母親の声が沈み、誰も何も言わなかった。
しばらく歩くと、昼間見た小屋の裏手へ出た。窓には板が打ちつけられているが、扉のある正面側に人の気配はない。
母親は壁際へ寄ると、積まれていた薪を数本どかした。その奥に、小さな戸がある。
「昔、道具を入れていた時に使っていた裏口です」
「見張るならここも塞いどけよ」
ソルガルトが呟くと、エルガが呆れたように返した。
「そのおかげで出入りできるのですから、いいでしょう」
「まあな」
戸を開けると、薬草と湿った木の匂いがした。中は暗く、母親が小さな灯りをつける。
もともとは物置だったのだろう。壁際には古い棚や木箱が積まれ、中央にだけ簡素な寝台が置かれていた。その上に、小さな人影がある。
「リノ」
母親が駆け寄ると、布団の中で子どもがゆっくり顔を動かした。
「母さん……?」
「起こしちゃったね。ごめんね」
「だれ?」
母親の後ろに立つハミルたちを見て、少年が身を縮めた。十歳前後だろうか。頬は熱で赤く、額には汗が滲んでいる。
「大丈夫。この人たちは、あんたを診てくれる人」
「薬師のおじいちゃんじゃない」
「別の人だよ」
少年は警戒するようにハミルを見る。ハミルは寝台から少し離れたところでしゃがんだ。
「こんばんは」
「……こんばんは」
「具合悪いのに起こしてごめんね」
「別に」
返事はしっかりしている。意識もある。
けれど、近くまで来たことで分かった。穢れが濃い。村に漂っているものとは比べものにならないほど、一人の身体の中へ溜まり、逃げ場を失っている。
『ハミル』
『うん』
イルも気づいている。
「腕、見てもいいかな?」
少年の表情が固まり、布団の中へ右腕を隠した。
「……嫌だ」
「そっか、ごめんね」
ハミルはすぐに引いた。母親が困ったように少年を見る。
「リノ、この人なら――」
「嫌だ!」
声が響き、少年自身が驚いたように口を閉じた。外を気にして母親が振り返る。
ハミルはさらに声を落とした。
「見せなくてもいいよ。話はできるから」
「でも、それじゃ……」
母親を宥めるように言ってから、ハミルは少年へ視線を戻す。
「痛い?」
少し間があって、少年は小さく答えた。
「……たまに」
「痒かったりする?」
「うん」
「いつから出てきたの?」
「分かんない」
「そっか、熱が出てからかな?」
少年が頷くと、布団の上から右手首を押さえた。
「最初は、ここだけだった。でも、増えたんだ」
「怖い?」
また少し間があった。
「……みんなが怖がるから」
ハミルは少年の顔を見た。
「自分じゃなくて?」
「最初は、変なのって思っただけ。むしろかっこいいとか思ってた。でも母さんが泣くし、おじいちゃんも難しい顔するし。村長は、外に出るなって言うし……」
少年は俯き、小さな手で布団を握る。
「俺、悪いものになったの?」
母親が息を呑んだ。
「違うよ」
ハミルはすぐに答えた。少年が顔を上げる。
「でも、こんなの出てきた」
「それは君が悪いものになったってことじゃないよ。具合が悪くて、変なものが出てるだけ」
少年は自分の右腕を押さえたまま、しばらくハミルを見ていた。
「……治る?」
「それを確かめるには、少し見せてもらいたいんだ」
少年の表情から、ほんの少しだけ強張りが抜けた。
「俺だけなら、見せてもらえる?」
少年は迷ってから、母親を見上げた。
「母さんもいる?」
「もちろん」
「……じゃあ」
ゆっくりと右腕が布団から出てくる。
手首から肘の少し下まで、肌の一部が黒ずみ、その上に薄い鱗のようなものが浮いていた。完全に皮膚が変わっているわけではない。けれど、人間にはないものだ。
ソルガルトとエルガが息を呑む気配がした。母親は何度も見ているはずなのに、やはり辛そうに目を伏せる。
ハミルは腕ではなく、その奥を見る。
腕の変化だけではない。意識を内側へ向けると、心臓の近くに、そこにはないはずのものが見えた。
輪が完成している。王都で見たものと同じ、歪な擬核だ。
その内側には、すでに穢れが溜まり始めている。
これが満ちれば、少年は魔化する。
『間に合う』
イルが言う。
『うん』
ハミルも同じ判断だった。
「何か、分かりましたか?」
母親が尋ねる。
「はい」
「治せるんですか」
今度は、ハミルも迷わなかった。
「今ならまだ間に合います」
母親の膝から力が抜けた。寝台へ手をつき、顔を伏せる。
「よかった……」
「ただ、少し二人だけにしてもらってもいいですか」
母親が顔を上げた。
「二人?」
「俺と、この子」
母親の顔が強張る。
「何をするんです」
ハミルは一瞬だけ迷った。
「治すために必要なことをします。ただ、そのやり方は見られたくありません」
母親の顔が強張る。見知らぬ旅人に、病気の子どもと二人にしてほしいと言われているのだから当然だった。
「どうしてですか」
「それは、今は話せません」
言ってから、ハミルは少しだけ困ったように眉を下げた。
「怪しいですよね。でも、ここだけは譲れないんです。扉のすぐ外にいてもらって構いません。何かあれば、すぐ入ってきてください」
「俺たちも外にいる」
レグルが続ける。
「だから、あんたが嫌なら無理に預けなくていい。ただ、その場合はこいつも手を出せない」
少しきつい言い方だったが、ハミルは否定しなかった。
「ごめんなさい。でも、この子を治したいなら、少しだけ信じてください」
母親はしばらく黙っていた。それから少年へ視線を落とす。
「リノ」
「俺、平気」
先に答えたのは少年だった。
「この兄ちゃん、変だけど怖くない」
「変は余計じゃない?」
「だって俺の腕見ても怖がらないから」
少しだけ声に元気が戻っている。母親はそんな息子を見つめ、ようやく頷いた。
「……お願いします」
「はい」
レグルがハミルの肩を掴む。
「無茶すんな」
「しないよ」
レグルはまだ言いたげだったが、母親の前ではそれ以上口にしなかった。
レグルたちが外へ出る。母親は最後まで何度も振り返っていた。
戸が閉まり、小屋の中にハミルと少年だけが残った。
外の気配が離れていないことを確かめてから、ハミルは小さく息を吐いた。
『無理はするなよ』
『分かってる』
イルに言葉を返し、少年と向き合う。
「じゃあ、始めるね」
「痛い?」
「たぶん痛くない。もし痛かったらすぐ言って」
「うん」
ハミルは少年の右手を取った。小さく、熱を持った指が少しだけ震えている。
「怖かったら目を閉じてていいよ」
「兄ちゃんは?」
「俺?」
「怖くないの?」
ハミルは少しだけ考えた。
「怖い時もあるよ」
「今は?」
「今は、君を元に戻せると思ってるから大丈夫」
少年はじっとハミルを見る。
「じゃあ俺も見る」
「そう?」
「うん」
ハミルは目を閉じ、少年の中へ意識を沈めた。
輪。
その内側に溜まった穢れへ触れ、引く。
途端に、黒いものが腕を伝って流れ込んできた。量は多くない。けれど、人間の中で淀んでいたせいか、粘つくように重い。
『半分寄越せ』
『うん』
イルへ流す。胸の奥が熱くなる。
同時に、身体を覆っていた擬態がほどけた。焦げ茶の髪から色が抜け、本来の黒へ。瞳も黒く戻る。
少年の目が大きくなった。
「……兄ちゃん」
「ごめん。ちょっとだけ、このまま」
怖がられる。そう思った。
王都でも、町でも、黒髪黒目を見た人間はまず身構えた。第二の魔王の噂がここまで広がっているなら、なおさらだ。
けれど少年は逃げなかった。ハミルの顔をじっと見たまま、ぽつりと呟く。
「……きれい」
今度はハミルが目を開いた。
「え?」
「黒いの。夜みたいで、きれい」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
「怖くない?」
「何で?」
「いや……」
少年は不思議そうに首を傾げる。
「髪が黒いだけじゃん」
あまりにも簡単に言われて、ハミルは笑った。
「そっか」
「変なの」
「よく言われる」
話している間にも、穢れは少しずつ抜けていく。心臓の近くにできていた輪が揺らぎ始めた。内側を満たしていた穢れを失うにつれ、擬核そのものが輪郭を保てなくなっていく。
『もう少しだ』
『うん』
最後に残った穢れを引き切る。
空になった輪が、かすかに震えた。
細い亀裂が一つ走り、そこから次々とひびが広がっていく。穢れを失った輪は、それだけでは形を保てないらしい。
やがて擬核は音もなく崩れ、灰色の欠片のような残滓も淡い光へほどけて消えた。
ハミルはゆっくり息を吐いた。
「終わったよ」
「もう?」
「うん」
少年が自分の腕を見る。黒ずんでいた皮膚は少しずつ元の色へ戻り、浮いていた鱗も薄くなって、一枚、また一枚と消えていった。完全に消えるまで、そう時間はかからなかった。
「……ない」
少年が腕を擦る。次の瞬間、顔を輝かせた。
「ない!」
「しーっ。外に聞こえちゃうよ」
「あ」
二人で口を閉じ、それから少年は声を殺して笑った。
「母さんに見せていい?」
「もちろん」
だが、このままでは母親を呼べない。ハミルが戸の向こうへ目をやったところで、袖を引かれた。
「兄ちゃん」
「ん?」
「黒いの、内緒?」
ハミルは少年を見る。
「……うん。できれば」
「分かった。誰にも言わない」
少年は真面目な顔で頷いた。
「ありがとう」
「母さんにも?」
「できればね」
「じゃあ、二人だけの秘密な」
「そうしようか」
ハミルは笑い、戸の向こうへ声をかけた。
「レグル、ちょっといい?」
すぐに戸が細く開き、レグルだけが顔を覗かせる。黒髪へ戻っているハミルを見て事情を察したらしく、何も聞かずに小屋へ入った。
「終わった?」
「うん。戻してくれる?」
レグルが短く息を吐き、ハミルへ影をまとわせる。漆黒だった髪と瞳が、見慣れた焦げ茶へ戻った。
「ありがと」
「あとで話聞くからな」
「はいはい」
レグルが戸を開けると、待ちきれなかった母親が真っ先に飛び込んでくる。
「リノ!」
「母さん、見て!」
少年が腕を差し出した。母親の動きが止まり、何度も腕を撫で、裏返し、鱗のあった場所を確かめる。
「……ない」
「うん」
「本当に……」
声が震えた。次の瞬間、母親は少年を強く抱きしめる。
「母さん、苦しい」
「少しくらい我慢しな」
「病人だぞ、俺」
「もう大丈夫なんだろ!」
泣きながら怒る母親に、少年が困ったように笑う。ハミルは少し離れてそれを見ていた。
ソルガルトは親子を見ながら腕を組んでいる。
「これで終わりか?」
「この子はね」
「村については?」
ハミルは答えず、小屋の外を見る。
少年の中に溜まっていた穢れは消えた。輪も崩れた。
けれど、村に漂うものはまだ残っている。山へ向かう流れも止まっていない。
そして何より、この子が治ったことを、まだ村の誰も知らない。
「明日」
ハミルが言う。
「この子を、村のみんなの前に連れていこう」
母親が振り返った。
「みんなの前に?」
「隠したままだと、怖いもののままだから」
「でも、村長が……」
「だから見せるんです」
ハミルは少年を見る。少年もこちらを見返した。
「悪いものじゃなかったって」
もう、腕に鱗はない。
少年は少し考えたあと、力強く頷いた。
「俺、行くよ」
母親はまだ不安そうだったが、息子の顔を見て、最後には小さく頷いた。
ハミルは外へ出る。
夜の山は村の向こうに黒く沈んでいた。
まだ、祈りは流れている。
子ども一人を元に戻しただけでは、まだ終わらない。




