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世界が彼を魔王と呼ぶまで  作者: ぶん吉
第三章

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第046話 守り神

「……気づいたか」


 山の精霊はそう言うと、沢の脇にある大きな岩へ腰を下ろした。


 近くで見ると、疲れているというより、長く眠れていない者のようだった。姿が崩れているわけではない。核もまだ穢れに呑まれていない。それでも身体の輪郭には時折薄い揺らぎが走り、灰褐色の髪の間に黒い靄が絡んでは消えている。


「いつから?」


 ハミルが聞く。


「流れそのものは前からあった。人は昔から、山へいろいろなものを置いていく」


「いろいろって?」


「感謝も、願いも、怒りも、悲しみも。山へ向けて吐き出して、少し軽くなって帰る」


 山の精霊は沢へ手を伸ばした。水面が僅かに盛り上がり、その指先へ触れる。


「それくらいなら、この山が受けて流せた。私も気にしたことはない」


「それが、今は違う?」


「ああ」


 短く答え、山の精霊は村のある方角へ目を向けた。


「ここしばらく、同じものばかりが来る」


「……恐れか」


 ソルガルトが言った。


「そうだ」


 山の精霊の視線が戻る。


「魔物を恐れ、魔王を恐れ、自分たちにも何か起こるのではないかと恐れている。それを抱えたまま、私に守れと願う」


 ハミルは昨日の祠を思い出した。頭を下げる村人たちと、祈るような声。


 ――第二の魔王が、こちらへ来ませんように。


 自分についての噂から生まれた恐れが、目の前の精霊へ流れ込んでいる。変な気分だった。


「……ごめん」


 思わず口から出た。


 山の精霊が眉を動かす。


「なぜお前が謝る」


「いや……ちょっと」


『お前が撒いた噂ではあるまい』


『分かってるよ』


 イルに返しながら、ハミルは頭を掻いた。


 ソルガルトが不思議そうにこちらを見ている。レグルだけは何となく察したらしく、何も言わなかった。


「それで、増え始めたのはどのくらい前か覚えてる?」


「人の暦は数えていない」


「まあ、そうだよね」


「だが、祭りの準備が始まるより前だ。最初は少し重い程度だった。それが日に日に増えた」


「魔物が増えたのも、その頃から?」


 山の精霊はすぐには答えなかった。


「その頃には、既にこの辺りの穢れも濃くなっていたはずだ」


 山の精霊が地面へ手をつく。土の下で、何かがゆっくり動くような感覚がした。


「魔物を見て人が恐れ、その恐れが山へ流れ込む。山の穢れが濃くなれば、また魔化するものも増える」


 レグルが眉を寄せる。


「ぐるぐる回ってんのか」


「今はな」


 ハミルは少し考えた。昨日まで見えていたのは、恐怖が穢れを生み、その穢れが山へ流れ、周囲の魔物を増やす悪循環だった。それ自体は間違っていない。ただ、どこから始まったのかまでは、まだ分からない。


「最近、村で何かあった?」


「私は人の暮らしを逐一見ているわけではない」


「え、守り神なのに?」


「人がそう呼んでいるだけだ」


 即答だった。


 ソルガルトが吹き出す。


「昔からそれ言ってたな、お前」


「今も同じだ」


 素っ気なく返されても、ソルガルトは気にした様子もない。


「でも結局、迷った子ども帰してやったりしてんだろ?」


「目の前で死なれては寝覚めが悪い」


「お前、寝るのか?」


 ソルガルトがすかさず返すと、山の精霊は僅かに眉を寄せた。


「比喩だ」


「相変わらず面倒くせえやつだな!」


「お前に言われたくはない」


 言葉は刺々しいのに、二人の間には妙な慣れがあった。


 ハミルは少し笑ってから、ふとイルへ意識を向ける。


『昔もこんな感じだった?』


『大差ない』


『イルもここに来てたの?』


 返事が一拍遅れた。


『……時折な』


 山の精霊の視線が、ふとハミルへ向いた。


「先ほどから、時折妙な顔をするな」


「あ」


 ハミルは目を瞬いた。声には出していないが、どうやら表情に出ていたらしい。


「……イルが、あなたのことを知ってるって言うから」


 ソルガルトの顔から笑いが消えた。山の精霊も動かない。途切れた会話の代わりに、沢の水音だけが続いた。


「……イル?」


 低い声だった。


「うん」


「その名を、どこで知った」


「本人から聞いたんだよ」


 山の精霊の輪郭が僅かに揺れた。


 ソルガルトが一歩前へ出る。


「イルは今、こいつの中にいる」


「何?」


「説明すると長えんだけどな。こいつの中にいて、今もちゃんと喋る。ちなみに相変わらず口も悪い」


『余計なことを言うな』


 ハミルが小さく笑う。


「イル。外に向けて話せる?」


 一拍置いて、今度はハミルの内側ではなく、その場へ声が響いた。


「……久しいな」


 山の精霊の目が僅かに見開かれる。目を伏せたまま、しばらく何も言わない。


 沢の音の中へ長い沈黙が落ちたあと、ようやく山の精霊がぽつりと呟いた。


「まだ、いたのか」


 その声は、ソルガルトへ向けた最初の言葉よりずっと小さかった。


「ああ。変わらぬな、お前も」


 姿のない声に、山の精霊は僅かに目を細める。


「姿も見せずによく言う」


「見せられるものなら見せている」


「……そうか」


 今度は、山の精霊がほんの少しだけ笑った。


 それを見て、ハミルは胸の奥が妙に温かくなるのを感じた。自分の知らないイルが、ここにもいる。魔王になる前にも、こうして会い、言葉を交わし、再会を喜んでくれる相手がいた。


「昔、イルはよくここに来てたの?」


 ハミルが聞くと、山の精霊は少し考えた。


「よく、というほどではない。あれは元々、一ヶ所に留まる方ではなかった」


「そうなんだ」


「お前と違ってな」


 ソルガルトを見る。


「俺だって動いてたぞ」


「騒ぎながらな」


「騒いでねえ!」


 即座に否定するソルガルトを、山の精霊は涼しい顔で見返した。


「山の向こうからでもお前が来たと分かった」


「声で?」


「声で」


 あまりに迷いのない返答に、ハミルとレグルが同時に吹き出す。


「笑うな!」


「いや、今と変わらないんだなって思って」


 ハミルが笑いながら言うと、ソルガルトはますます声を大きくした。


「ハミル、お前まで!」


 エルガだけは笑わなかったが、口元がほんの少し緩んでいた。


 山の精霊はそんなソルガルトを見たあと、再びハミルへ視線を戻した。


「イルは、静かなものだった」


 ハミルは少し意外に思った。


『そうなの?』


『何だ、その言い方は』


『いや、今も静かではあるけど』


『ならば何もおかしくあるまい』


「ただ」


 山の精霊の声が続いた。


 ハミルは意識を戻す。


「最後に会った頃は、以前とは違った」


 ソルガルトも黙った。


「違った?」


「疲れていた」


 山の精霊はゆっくり言った。


「何を聞いても、大したことではないと言った。以前より黙り、長く留まらず、人からも精霊からも離れるようになっていた」


 ハミルの中で、イルの気配が静まる。


「穢れは?」


「今思えば、まとっていたのだろう。だが当時の私は、あれが何か知らなかった」


 山の精霊は自分の胸元へ目を落とした。


「今なら分かる。ここへ流れてくるものと、よく似ていた」


 ハミルは何も言えなかった。イルが魔王になる前の変化を、外から見ていた精霊が目の前にいる。


『……昔の話だ』


 イルが言う。


『うん』


『今は、目の前のことを見ろ』


『分かってる』


 ハミルは小さく息を吐いた。聞きたいことはある。けれど今は、山の精霊の中にも同じものが溜まり始めている。


「今、どれくらい苦しい?」


 話を戻すと、山の精霊は少し眉を上げた。


「随分と直接的に聞くな」


「分かりやすい方がいいかなって」


「まだ耐えられる」


「それ、信用していいの?」


「何?」


「イルも大したことないって言ってたんでしょ」


 山の精霊が止まる。


 ソルガルトが堪えきれず笑った。


「お前、言うなあ!」


「笑うところじゃないよ」


 たしなめられても、ソルガルトの笑いは収まらない。


「いや、こいつにそこまで言える奴あんまいねえから」


「お前は昔から言っていただろう」


「俺はいいんだよ」


「何がだ」


 今度は山の精霊まで呆れた声を返し、また二人の言い合いが始まる。


 ハミルはその隙に、山の精霊の胸の奥へ意識を向けた。


 核はある。まだ黒く染まり切ってはいない。けれど、その周囲には穢れが厚く絡みついている。


 今なら引ける。そう思った。


「ねえ」


 山の精霊がこちらを見る。


「今ある分、少し軽くすることはできると思う」


「何をする」


「穢れを引く」


 レグルがすぐにハミルを見る。


「全部じゃないよ」


 先回りするように言うと、レグルの目が細くなった。


「量見てから言え」


「見てるよ」


「お前の『いける』は信用ならねえ時がある」


「最近厳しくない?」


「誰のせいだと思ってんだ」


 言い方こそ軽いが、レグルの目は笑っていなかった。


 ハミルはもう一度、山の精霊の中にある穢れを見る。


 引けない量ではない。ただ、村から伸びてくる黒い流れは、今も止まっていなかった。細くても、確実に一本、また一本と山の精霊へ届いている。


 ここで全部引いたとしても、明日になればまた溜まる。それでも、だからといって今あるものまで放っておく理由にはならない。


「少しだけ引くね」


 山の精霊が眉を寄せた。


「……穢れを引く、とはどういう意味だ」


「そのままの意味だよ。俺の方に移す」


 山の精霊の視線が、ハミルの胸元へ落ちた。


「そんなことができるのか」


「うん。全部は引かないよ。少し楽になるくらいだけど」


 しばらく探るように見られたあと、山の精霊は何も言わず、僅かに顎を引いた。


 ハミルはその胸元へ手を伸ばす。触れたところから、絡みついていた黒い靄が細くほどけた。


 冷たいものが腕を伝い、身体の奥へ沈んでいく。同時に、焦げ茶色だった髪が黒へ戻った。レグルの擬態が外れ、瞳も本来の色へ戻っている。


 山の精霊の目が僅かに見開かれた。


 ハミルは一度だけ息を詰めたが、すぐに手を離した。


「……これくらい」


 レグルがじっと顔を覗き込んでくる。


「平気か?」


「平気。ほんとに少しだから」


「ならいいけど」


 レグルがハミルの肩へ手を置く。ほどなくして、黒かった髪と瞳が再び焦げ茶色へ変わった。


 山の精霊は何か言いたげにハミルを見ていたが、やがて自分の胸元へ手を当てた。先ほどまで輪郭にまとわりついていた黒い靄が、わずかに薄くなっている。


「ちょっとは楽になった?」


「……確かに軽い。だが、こんなことができるとは」


 けれど、これで終わりではない。


 ハミルは山の向こうを見る。村は木々に隠れて見えない。それでも、そこから流れてくるものだけは見えた。


「やっぱり、今あるものを引くだけじゃ駄目だね」


 ハミルは黒い流れを指した。


「これが続いてたらまた溜まるだろうし」


「村を調べるのか?」


「うん」


 ソルガルトに頷くと、レグルが腕を組んだ。


「でも、恐れるなって言って回るのか?」


「それで怖くなくなるなら簡単なんだけどね」


「じゃあどうする」


 ハミルは村の方角へ目を向ける。


「まずは、何でここまで怖がってるのか探すかな」


 ハミルは昨日の女主人の言葉を思い出した。


 ――それもある。


 魔物と第二の魔王だけではない。村には、まだ何かある。


「何であそこまで怖がってるのか。もう少しちゃんと見てくる」


 山の精霊はしばらく黙っていた。


 やがて、短く息を吐く。


「お前たちの行動に口は挟まん。好きにすれば良い」


「無理しないでね」


「お前に言われる筋合いはない」


 間髪入れず返され、隣でレグルが小さく吹き出した。


「それはそう」


「レグル?」


「何でもねえ」


 目を逸らすレグルを、ハミルは少しだけ睨んだ。


 ソルガルトが山の精霊の肩を軽く叩く。


「じゃあ、また来る」


「次はもう少し静かに来い」


「無理だな!」


 胸を張るソルガルトに、山の精霊は呆れたように息を吐いた。


「知っている」


 ハミルたちは来た道へ戻り始める。沢を離れる直前、ハミルは一度振り返った。


 山の精霊はまだそこにいた。沢の脇に立ち、こちらではなく村の方角を見ている。その身体へ、細い黒い流れが静かに集まり続けていた。


 少しは軽くできた。でも、それだけでは救ったことにならない。


 ハミルは前を向いた。次は、流れてくる方だ。

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