第046話 守り神
「……気づいたか」
山の精霊はそう言うと、沢の脇にある大きな岩へ腰を下ろした。
近くで見ると、疲れているというより、長く眠れていない者のようだった。姿が崩れているわけではない。核もまだ穢れに呑まれていない。それでも身体の輪郭には時折薄い揺らぎが走り、灰褐色の髪の間に黒い靄が絡んでは消えている。
「いつから?」
ハミルが聞く。
「流れそのものは前からあった。人は昔から、山へいろいろなものを置いていく」
「いろいろって?」
「感謝も、願いも、怒りも、悲しみも。山へ向けて吐き出して、少し軽くなって帰る」
山の精霊は沢へ手を伸ばした。水面が僅かに盛り上がり、その指先へ触れる。
「それくらいなら、この山が受けて流せた。私も気にしたことはない」
「それが、今は違う?」
「ああ」
短く答え、山の精霊は村のある方角へ目を向けた。
「ここしばらく、同じものばかりが来る」
「……恐れか」
ソルガルトが言った。
「そうだ」
山の精霊の視線が戻る。
「魔物を恐れ、魔王を恐れ、自分たちにも何か起こるのではないかと恐れている。それを抱えたまま、私に守れと願う」
ハミルは昨日の祠を思い出した。頭を下げる村人たちと、祈るような声。
――第二の魔王が、こちらへ来ませんように。
自分についての噂から生まれた恐れが、目の前の精霊へ流れ込んでいる。変な気分だった。
「……ごめん」
思わず口から出た。
山の精霊が眉を動かす。
「なぜお前が謝る」
「いや……ちょっと」
『お前が撒いた噂ではあるまい』
『分かってるよ』
イルに返しながら、ハミルは頭を掻いた。
ソルガルトが不思議そうにこちらを見ている。レグルだけは何となく察したらしく、何も言わなかった。
「それで、増え始めたのはどのくらい前か覚えてる?」
「人の暦は数えていない」
「まあ、そうだよね」
「だが、祭りの準備が始まるより前だ。最初は少し重い程度だった。それが日に日に増えた」
「魔物が増えたのも、その頃から?」
山の精霊はすぐには答えなかった。
「その頃には、既にこの辺りの穢れも濃くなっていたはずだ」
山の精霊が地面へ手をつく。土の下で、何かがゆっくり動くような感覚がした。
「魔物を見て人が恐れ、その恐れが山へ流れ込む。山の穢れが濃くなれば、また魔化するものも増える」
レグルが眉を寄せる。
「ぐるぐる回ってんのか」
「今はな」
ハミルは少し考えた。昨日まで見えていたのは、恐怖が穢れを生み、その穢れが山へ流れ、周囲の魔物を増やす悪循環だった。それ自体は間違っていない。ただ、どこから始まったのかまでは、まだ分からない。
「最近、村で何かあった?」
「私は人の暮らしを逐一見ているわけではない」
「え、守り神なのに?」
「人がそう呼んでいるだけだ」
即答だった。
ソルガルトが吹き出す。
「昔からそれ言ってたな、お前」
「今も同じだ」
素っ気なく返されても、ソルガルトは気にした様子もない。
「でも結局、迷った子ども帰してやったりしてんだろ?」
「目の前で死なれては寝覚めが悪い」
「お前、寝るのか?」
ソルガルトがすかさず返すと、山の精霊は僅かに眉を寄せた。
「比喩だ」
「相変わらず面倒くせえやつだな!」
「お前に言われたくはない」
言葉は刺々しいのに、二人の間には妙な慣れがあった。
ハミルは少し笑ってから、ふとイルへ意識を向ける。
『昔もこんな感じだった?』
『大差ない』
『イルもここに来てたの?』
返事が一拍遅れた。
『……時折な』
山の精霊の視線が、ふとハミルへ向いた。
「先ほどから、時折妙な顔をするな」
「あ」
ハミルは目を瞬いた。声には出していないが、どうやら表情に出ていたらしい。
「……イルが、あなたのことを知ってるって言うから」
ソルガルトの顔から笑いが消えた。山の精霊も動かない。途切れた会話の代わりに、沢の水音だけが続いた。
「……イル?」
低い声だった。
「うん」
「その名を、どこで知った」
「本人から聞いたんだよ」
山の精霊の輪郭が僅かに揺れた。
ソルガルトが一歩前へ出る。
「イルは今、こいつの中にいる」
「何?」
「説明すると長えんだけどな。こいつの中にいて、今もちゃんと喋る。ちなみに相変わらず口も悪い」
『余計なことを言うな』
ハミルが小さく笑う。
「イル。外に向けて話せる?」
一拍置いて、今度はハミルの内側ではなく、その場へ声が響いた。
「……久しいな」
山の精霊の目が僅かに見開かれる。目を伏せたまま、しばらく何も言わない。
沢の音の中へ長い沈黙が落ちたあと、ようやく山の精霊がぽつりと呟いた。
「まだ、いたのか」
その声は、ソルガルトへ向けた最初の言葉よりずっと小さかった。
「ああ。変わらぬな、お前も」
姿のない声に、山の精霊は僅かに目を細める。
「姿も見せずによく言う」
「見せられるものなら見せている」
「……そうか」
今度は、山の精霊がほんの少しだけ笑った。
それを見て、ハミルは胸の奥が妙に温かくなるのを感じた。自分の知らないイルが、ここにもいる。魔王になる前にも、こうして会い、言葉を交わし、再会を喜んでくれる相手がいた。
「昔、イルはよくここに来てたの?」
ハミルが聞くと、山の精霊は少し考えた。
「よく、というほどではない。あれは元々、一ヶ所に留まる方ではなかった」
「そうなんだ」
「お前と違ってな」
ソルガルトを見る。
「俺だって動いてたぞ」
「騒ぎながらな」
「騒いでねえ!」
即座に否定するソルガルトを、山の精霊は涼しい顔で見返した。
「山の向こうからでもお前が来たと分かった」
「声で?」
「声で」
あまりに迷いのない返答に、ハミルとレグルが同時に吹き出す。
「笑うな!」
「いや、今と変わらないんだなって思って」
ハミルが笑いながら言うと、ソルガルトはますます声を大きくした。
「ハミル、お前まで!」
エルガだけは笑わなかったが、口元がほんの少し緩んでいた。
山の精霊はそんなソルガルトを見たあと、再びハミルへ視線を戻した。
「イルは、静かなものだった」
ハミルは少し意外に思った。
『そうなの?』
『何だ、その言い方は』
『いや、今も静かではあるけど』
『ならば何もおかしくあるまい』
「ただ」
山の精霊の声が続いた。
ハミルは意識を戻す。
「最後に会った頃は、以前とは違った」
ソルガルトも黙った。
「違った?」
「疲れていた」
山の精霊はゆっくり言った。
「何を聞いても、大したことではないと言った。以前より黙り、長く留まらず、人からも精霊からも離れるようになっていた」
ハミルの中で、イルの気配が静まる。
「穢れは?」
「今思えば、まとっていたのだろう。だが当時の私は、あれが何か知らなかった」
山の精霊は自分の胸元へ目を落とした。
「今なら分かる。ここへ流れてくるものと、よく似ていた」
ハミルは何も言えなかった。イルが魔王になる前の変化を、外から見ていた精霊が目の前にいる。
『……昔の話だ』
イルが言う。
『うん』
『今は、目の前のことを見ろ』
『分かってる』
ハミルは小さく息を吐いた。聞きたいことはある。けれど今は、山の精霊の中にも同じものが溜まり始めている。
「今、どれくらい苦しい?」
話を戻すと、山の精霊は少し眉を上げた。
「随分と直接的に聞くな」
「分かりやすい方がいいかなって」
「まだ耐えられる」
「それ、信用していいの?」
「何?」
「イルも大したことないって言ってたんでしょ」
山の精霊が止まる。
ソルガルトが堪えきれず笑った。
「お前、言うなあ!」
「笑うところじゃないよ」
たしなめられても、ソルガルトの笑いは収まらない。
「いや、こいつにそこまで言える奴あんまいねえから」
「お前は昔から言っていただろう」
「俺はいいんだよ」
「何がだ」
今度は山の精霊まで呆れた声を返し、また二人の言い合いが始まる。
ハミルはその隙に、山の精霊の胸の奥へ意識を向けた。
核はある。まだ黒く染まり切ってはいない。けれど、その周囲には穢れが厚く絡みついている。
今なら引ける。そう思った。
「ねえ」
山の精霊がこちらを見る。
「今ある分、少し軽くすることはできると思う」
「何をする」
「穢れを引く」
レグルがすぐにハミルを見る。
「全部じゃないよ」
先回りするように言うと、レグルの目が細くなった。
「量見てから言え」
「見てるよ」
「お前の『いける』は信用ならねえ時がある」
「最近厳しくない?」
「誰のせいだと思ってんだ」
言い方こそ軽いが、レグルの目は笑っていなかった。
ハミルはもう一度、山の精霊の中にある穢れを見る。
引けない量ではない。ただ、村から伸びてくる黒い流れは、今も止まっていなかった。細くても、確実に一本、また一本と山の精霊へ届いている。
ここで全部引いたとしても、明日になればまた溜まる。それでも、だからといって今あるものまで放っておく理由にはならない。
「少しだけ引くね」
山の精霊が眉を寄せた。
「……穢れを引く、とはどういう意味だ」
「そのままの意味だよ。俺の方に移す」
山の精霊の視線が、ハミルの胸元へ落ちた。
「そんなことができるのか」
「うん。全部は引かないよ。少し楽になるくらいだけど」
しばらく探るように見られたあと、山の精霊は何も言わず、僅かに顎を引いた。
ハミルはその胸元へ手を伸ばす。触れたところから、絡みついていた黒い靄が細くほどけた。
冷たいものが腕を伝い、身体の奥へ沈んでいく。同時に、焦げ茶色だった髪が黒へ戻った。レグルの擬態が外れ、瞳も本来の色へ戻っている。
山の精霊の目が僅かに見開かれた。
ハミルは一度だけ息を詰めたが、すぐに手を離した。
「……これくらい」
レグルがじっと顔を覗き込んでくる。
「平気か?」
「平気。ほんとに少しだから」
「ならいいけど」
レグルがハミルの肩へ手を置く。ほどなくして、黒かった髪と瞳が再び焦げ茶色へ変わった。
山の精霊は何か言いたげにハミルを見ていたが、やがて自分の胸元へ手を当てた。先ほどまで輪郭にまとわりついていた黒い靄が、わずかに薄くなっている。
「ちょっとは楽になった?」
「……確かに軽い。だが、こんなことができるとは」
けれど、これで終わりではない。
ハミルは山の向こうを見る。村は木々に隠れて見えない。それでも、そこから流れてくるものだけは見えた。
「やっぱり、今あるものを引くだけじゃ駄目だね」
ハミルは黒い流れを指した。
「これが続いてたらまた溜まるだろうし」
「村を調べるのか?」
「うん」
ソルガルトに頷くと、レグルが腕を組んだ。
「でも、恐れるなって言って回るのか?」
「それで怖くなくなるなら簡単なんだけどね」
「じゃあどうする」
ハミルは村の方角へ目を向ける。
「まずは、何でここまで怖がってるのか探すかな」
ハミルは昨日の女主人の言葉を思い出した。
――それもある。
魔物と第二の魔王だけではない。村には、まだ何かある。
「何であそこまで怖がってるのか。もう少しちゃんと見てくる」
山の精霊はしばらく黙っていた。
やがて、短く息を吐く。
「お前たちの行動に口は挟まん。好きにすれば良い」
「無理しないでね」
「お前に言われる筋合いはない」
間髪入れず返され、隣でレグルが小さく吹き出した。
「それはそう」
「レグル?」
「何でもねえ」
目を逸らすレグルを、ハミルは少しだけ睨んだ。
ソルガルトが山の精霊の肩を軽く叩く。
「じゃあ、また来る」
「次はもう少し静かに来い」
「無理だな!」
胸を張るソルガルトに、山の精霊は呆れたように息を吐いた。
「知っている」
ハミルたちは来た道へ戻り始める。沢を離れる直前、ハミルは一度振り返った。
山の精霊はまだそこにいた。沢の脇に立ち、こちらではなく村の方角を見ている。その身体へ、細い黒い流れが静かに集まり続けていた。
少しは軽くできた。でも、それだけでは救ったことにならない。
ハミルは前を向いた。次は、流れてくる方だ。




