第045話 山を辿る
祭りの翌朝、村はまだ眠たげだった。
広場には昨夜の名残が残っている。片づけきれなかった長机、空になった酒樽、消えた焚き火の灰。軒先の色布だけが、朝の風に揺れていた。
ハミルたちは朝食を済ませると、宿の女主人に山へ行くことを伝えた。
「山へ?」
女主人の手が止まった。
「少し歩いてこようかなって」
「やめときな。この辺りじゃ魔物が出てるって、昨日も散々聞いただろ」
「危なそうなら戻ります」
「そういう人ほど戻ってこないんだよ」
呆れたように言われ、ハミルは困って笑った。
「慣れてるので」
「……あんたたち、そういえば一昨日も魔物を追い払ったんだってね」
「まあ」
「それでも山は別だよ。道から外れないこと。日が落ちる前には戻ること。いいね?」
「はい」
返事をすると、女主人はまだ何か言いたそうな顔をしたが、最後には小さく息を吐いた。
「守り神様の祠までなら、村の裏手から道があるよ。そこから先へは行かない方がいい」
「ありがとうございます」
外へ出ると、レグルがすぐに口を開いた。
「嘘ついたな」
宿を出るなり、レグルが横目でハミルを見る。
「嘘はついてないよ。歩いてくるのは本当だし」
「道から外れないって返事しただろ」
「返事したのは日が落ちる前に戻るところ」
しれっと答えると、レグルは呆れたように眉を寄せた。
「細かいな」
「全部説明するわけにもいかないでしょ」
前を歩いていたソルガルトが、二人のやり取りを聞いて笑った。
「気にすんな。迷わず連れてってやる」
「それが一番不安なんだよ」
レグルが即座に返すと、ソルガルトが不満そうに振り返った。
「お前、昨日から俺の道案内信用してねえな」
「何十年も来てねえ場所を『だいたい覚えてる』って言う奴をどう信用しろってんだ」
「気配を追えば着く!」
胸を張るソルガルトに、レグルはますます疑わしげな顔をした。
「それは道案内って言わねえ」
二人の後ろで、エルガが小さく息を吐いた。
村の裏手から続く道は、しばらくはよく踏み固められていた。
祠へ向かう者が使うのだろう。石を並べた段があり、ところどころ木の手すりまで設けられている。
けれど登るほど、人の気配は薄くなった。
祭りの翌日だからなのか、それとも最近は山へ入る者自体が減っているのか。
足元には落ち葉が積もり、朝露を含んだ土が柔らかい。
「昔はもっと人が入ってたぞ」
ソルガルトが前を見たまま言った。
「祭りの日なんか、子どもが勝手に走り回ってた」
『山菜を採りに入る者も多かった』
イルの声が続く。
『守り神がいるから安全だった?』
『それもあろう。だが、そもそもこの山は人を拒む場所ではなかった』
ハミルは周囲を見た。
今も、見た目だけなら穏やかな山だ。
木漏れ日が落ち、鳥の声も聞こえる。昨日までの街道より、むしろ生き物の気配は多い。
それなのに、空気の底には重いものが沈んでいた。
登り始めてしばらくすると、村から見えていた穢れの流れがはっきりしてきた。
一本の太い筋ではない。
細いものが幾つも山へ入り、木々の間を縫うように同じ方向へ寄っていく。
「こっちだな」
ソルガルトが道の途中で足を止めた。
右手には細い獣道のようなものがある。
レグルが眉を寄せた。
「祠は真っ直ぐじゃねえのか?」
「真っ直ぐ行けば人間の祠だ。守り神がいるのはもっと奥だ」
ソルガルトが獣道を顎で示すと、レグルはハミルを見る。
「ほら、道から外れた」
「まだ気にしてんの?」
ハミルが笑う。
「宿の人に怒られるの、お前だぞ」
「戻れば怒られないよ」
悪びれないハミルに、レグルは肩をすくめた。
「そういう問題か?」
獣道へ入る。
途端に足場が悪くなった。
根が地面を這い、斜面には湿った苔がついている。ソルガルトは気にせず進んでいくが、ハミルは何度か枝を避けながら後を追った。
「本当にこっちか?」
「合ってる」
先を行くソルガルトは迷いなく枝を掻き分けていく。少なくとも、本人に迷っている様子はない。
「さっきから景色全部同じだけど」
「山なんてそんなもんだ」
「それ、迷ってる人も言いそう」
ハミルが笑いながら言うと、ソルガルトが勢いよく振り返った。
「おい、お前まで疑うなよ!」
大きな声が山へ響く。
その直後だった。
前方の茂みが大きく揺れた。
ソルガルトが足を止める。
レグルとエルガもすぐに構えた。
枝を押し分けて現れたのは、四つ脚の魔物だった。
街道で見たものより小さい。鹿に似た細い脚をしているが、首元から黒い突起が伸び、胸の奥に濁った核が見える。
こちらを見るなり、低く唸った。
「一体か」
レグルが周囲を確認する。
「近くにはいないな」
エルガが答えた。
魔物が地面を蹴る。
ハミルは反射的に前へ出た。
「俺がやる」
「一人で?」
「今なら見てる人いないから」
それだけで、レグルは意味を理解した。
「無理すんなよ」
「一体なら大丈夫だよ」
飛び込んできた角を横へかわし、首へ手を添える。
触れた瞬間、黒いものが腕を伝って流れ込んできた。
重い。
けれど、ソルガルトから引いた時ほどではない。
『我も取る』
『お願い』
半分ほどをイルへ流す。
胸の奥が熱を持ち、同時に髪へかかっていた擬態がほどけていく感覚がした。
焦げ茶だった髪が黒へ戻る。
瞳も同じだ。
魔物が一度大きく身を震わせた。
「ハミル」
レグルの声が近い。
「大丈夫」
穢れを引き切る。
黒く濁っていた身体から、少しずつ色が抜けていった。
突起が縮み、四肢の形が変わる。
最後に胸元の核が淡く光ると、そこにいたものは小さな山鹿に似た精霊へ戻っていた。
精霊はしばらくふらついていたが、やがて顔を上げる。
ハミルの手へ鼻先を寄せ、それから木々の奥へ駆けていった。
レグルがすぐにハミルの顔を覗き込む。
「気分は」
「平気だよ」
短く答えても、レグルの視線は外れない。
「本当に?」
「本当に」
「イルは」
『問題ない』
「問題ないって」
ようやくレグルが少しだけ身体を離した。
「ならいい」
そう言いながらも、まだ納得しきっていない顔をしていた。
ソルガルトが精霊の消えた方を見る。
「前は、こんなところまで魔物はいなかった」
精霊が消えた木々の奥を見たまま、ソルガルトが低く言う。
「山の奥にも?」
「いないわけじゃねえ。でも、守り神の近くに寄る奴は少なかった」
「守り神だから?」
「俺たちと同じくらい強い精霊だからな。普通なら、わざわざ近寄ろうとはしねえ」
ハミルは、精霊が駆け去った方へ目を向けた。助けたばかりの小さな身体は、もう木々の向こうに見えない。
「……じゃあ、やっぱり何かおかしいんだ」
「だろうな」
ソルガルトの声から、さっきまでの軽さが少し消えた。
擬態をかけ直してから、再び歩き始める。
そこから先は、穢れの流れがさらに分かりやすくなった。村から伸びてきた細い筋が、一つ、また一つと合流していく。同時に、山そのものに漂う穢れも濃くなる。
ハミルは何度か足を止めた。
「変だな」
「何が?」
レグルが振り返る。
「流れてるのは分かる。でも……」
ハミルは言葉を探す。川のように一方向へ流れているのなら、その先だけが濃くなるはずだ。けれど今は違う。行き先へ近づくほど、周囲の木々や土にまで薄い穢れが染みている。
『受け切れておらぬのだろう』
イルが言った。
『山の精霊が?』
『おそらくな』
ハミルは前を歩くソルガルトを見る。彼も気づいているのだろう。さっきまでより足が速い。エルガも何も言わず、その後ろについている。
やがて斜面が緩くなり、木々の間から差し込む光の先に小さな沢が見えた。澄んだ水が岩の間を流れている。そこでソルガルトが足を止めた。
「ここだ」
ハミルは周囲を見た。
「誰もいないけど」
「いる」
ソルガルトは沢の向こうを見ていた。
「出てこいよ。久しぶりに来たってのに、隠れてんじゃねえ」
返事はない。水の音だけが続く。
「……本当にいるのか?」
返事のない沢を見ながら、レグルが小声で聞く。
「いるっつってんだろ」
「じゃあ嫌われてんじゃねえの」
からかうような声に、ソルガルトが眉を吊り上げる。
「お前な」
振り返りかけた、その時だった。沢の水面が揺れた。風はない。それなのに、波紋が一つ、二つと広がっていく。
木々の葉が擦れ、地面の奥から低い息遣いのような音がした。ハミルの肌が粟立つ。
強い。ソルガルトとは質が違う。けれど、山そのものがこちらを見ているような圧がある。
沢の向こう、太い木の根元に人影が現れた。いつからそこにいたのか分からない。
長い灰褐色の髪に、日に焼けたような肌。人の形をしているが、足元は薄く透け、地面へ溶けるように揺らいでいる。その視線が、真っ直ぐソルガルトへ向いた。
「……まだ生きていたのか」
低い声だった。ソルガルトは一瞬だけ目を丸くし、それから、いつものように笑った。
「久しぶりに会った奴への第一声がそれかよ」
「お前には十分だ」
素っ気なく返されても、ソルガルトはむしろ楽しそうだった。
「相変わらずだな」
「お前もな」
短いやり取りだったが、ソルガルトの顔には、ハミルがこれまで見たことのない懐かしさが浮かんでいた。
山の精霊は次にエルガを見ると、わずかに目を細めた。
「その眷属も変わらぬか」
「お久しぶりです」
エルガが静かに頭を下げる。
そして視線がレグルへ移り――止まった。
「……月の匂いがする」
レグルの肩が僅かに強張る。山の精霊は何かを確かめるように見つめたあと、最後にハミルへ顔を向け、その目をゆっくり細めた。
「お前は」
ハミルは何も言わなかった。焦げ茶の髪と瞳――人間に見える姿をしていても、目の前にいるのはソルガルトたちと肩を並べるほど強い精霊だ。
「妙なものを連れてきたな、ソルガルト」
「だろ?」
「褒めてないと思うよ」
ハミルが言うと、ソルガルトが笑った。
山の精霊は笑わず、代わりにもう一度ハミルを見た。
「人でも、精霊でもない」
その言葉に、レグルがハミルを見る。以前、自分が言った言葉と同じだった。
「……まあ、その話はあとで」
ハミルは山の精霊の周囲へ目を向けた。近くまで来たことで、ようやくはっきり分かる。
黒い流れはここへ集まっている。木々の間を抜け、沢を越え、目の前の精霊へ。そしてその身体の奥には、すでに少なくない穢れが沈んでいた。
「先に、こっちを聞かせてほしい」
ハミルが言う。
「村から流れてきてるもの。いつからこんなに増えたの?」
山の精霊の表情が、初めて変わった。ほんの僅かに、疲れたように。
「……気づいたか」
沢の水音が、二人の間を流れた。




