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世界が彼を魔王と呼ぶまで  作者: ぶん吉
第三章

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第045話 山を辿る

 祭りの翌朝、村はまだ眠たげだった。


 広場には昨夜の名残が残っている。片づけきれなかった長机、空になった酒樽、消えた焚き火の灰。軒先の色布だけが、朝の風に揺れていた。


 ハミルたちは朝食を済ませると、宿の女主人に山へ行くことを伝えた。


「山へ?」


 女主人の手が止まった。


「少し歩いてこようかなって」


「やめときな。この辺りじゃ魔物が出てるって、昨日も散々聞いただろ」


「危なそうなら戻ります」


「そういう人ほど戻ってこないんだよ」


 呆れたように言われ、ハミルは困って笑った。


「慣れてるので」


「……あんたたち、そういえば一昨日も魔物を追い払ったんだってね」


「まあ」


「それでも山は別だよ。道から外れないこと。日が落ちる前には戻ること。いいね?」


「はい」


 返事をすると、女主人はまだ何か言いたそうな顔をしたが、最後には小さく息を吐いた。


「守り神様の祠までなら、村の裏手から道があるよ。そこから先へは行かない方がいい」


「ありがとうございます」


 外へ出ると、レグルがすぐに口を開いた。


「嘘ついたな」


 宿を出るなり、レグルが横目でハミルを見る。


「嘘はついてないよ。歩いてくるのは本当だし」


「道から外れないって返事しただろ」


「返事したのは日が落ちる前に戻るところ」


 しれっと答えると、レグルは呆れたように眉を寄せた。


「細かいな」


「全部説明するわけにもいかないでしょ」


 前を歩いていたソルガルトが、二人のやり取りを聞いて笑った。


「気にすんな。迷わず連れてってやる」


「それが一番不安なんだよ」


 レグルが即座に返すと、ソルガルトが不満そうに振り返った。


「お前、昨日から俺の道案内信用してねえな」


「何十年も来てねえ場所を『だいたい覚えてる』って言う奴をどう信用しろってんだ」


「気配を追えば着く!」


 胸を張るソルガルトに、レグルはますます疑わしげな顔をした。


「それは道案内って言わねえ」


 二人の後ろで、エルガが小さく息を吐いた。


 村の裏手から続く道は、しばらくはよく踏み固められていた。


 祠へ向かう者が使うのだろう。石を並べた段があり、ところどころ木の手すりまで設けられている。


 けれど登るほど、人の気配は薄くなった。


 祭りの翌日だからなのか、それとも最近は山へ入る者自体が減っているのか。


 足元には落ち葉が積もり、朝露を含んだ土が柔らかい。


「昔はもっと人が入ってたぞ」


 ソルガルトが前を見たまま言った。


「祭りの日なんか、子どもが勝手に走り回ってた」


『山菜を採りに入る者も多かった』


 イルの声が続く。


『守り神がいるから安全だった?』


『それもあろう。だが、そもそもこの山は人を拒む場所ではなかった』


 ハミルは周囲を見た。


 今も、見た目だけなら穏やかな山だ。


 木漏れ日が落ち、鳥の声も聞こえる。昨日までの街道より、むしろ生き物の気配は多い。


 それなのに、空気の底には重いものが沈んでいた。


 登り始めてしばらくすると、村から見えていた穢れの流れがはっきりしてきた。


 一本の太い筋ではない。


 細いものが幾つも山へ入り、木々の間を縫うように同じ方向へ寄っていく。


「こっちだな」


 ソルガルトが道の途中で足を止めた。


 右手には細い獣道のようなものがある。


 レグルが眉を寄せた。


「祠は真っ直ぐじゃねえのか?」


「真っ直ぐ行けば人間の祠だ。守り神がいるのはもっと奥だ」


 ソルガルトが獣道を顎で示すと、レグルはハミルを見る。


「ほら、道から外れた」


「まだ気にしてんの?」


 ハミルが笑う。


「宿の人に怒られるの、お前だぞ」


「戻れば怒られないよ」


 悪びれないハミルに、レグルは肩をすくめた。


「そういう問題か?」


 獣道へ入る。


 途端に足場が悪くなった。


 根が地面を這い、斜面には湿った苔がついている。ソルガルトは気にせず進んでいくが、ハミルは何度か枝を避けながら後を追った。


「本当にこっちか?」


「合ってる」


 先を行くソルガルトは迷いなく枝を掻き分けていく。少なくとも、本人に迷っている様子はない。


「さっきから景色全部同じだけど」


「山なんてそんなもんだ」


「それ、迷ってる人も言いそう」


 ハミルが笑いながら言うと、ソルガルトが勢いよく振り返った。


「おい、お前まで疑うなよ!」


 大きな声が山へ響く。


 その直後だった。


 前方の茂みが大きく揺れた。


 ソルガルトが足を止める。


 レグルとエルガもすぐに構えた。


 枝を押し分けて現れたのは、四つ脚の魔物だった。


 街道で見たものより小さい。鹿に似た細い脚をしているが、首元から黒い突起が伸び、胸の奥に濁った核が見える。


 こちらを見るなり、低く唸った。


「一体か」


 レグルが周囲を確認する。


「近くにはいないな」


 エルガが答えた。


 魔物が地面を蹴る。


 ハミルは反射的に前へ出た。


「俺がやる」


「一人で?」


「今なら見てる人いないから」


 それだけで、レグルは意味を理解した。


「無理すんなよ」


「一体なら大丈夫だよ」


 飛び込んできた角を横へかわし、首へ手を添える。


 触れた瞬間、黒いものが腕を伝って流れ込んできた。


 重い。


 けれど、ソルガルトから引いた時ほどではない。


『我も取る』


『お願い』


 半分ほどをイルへ流す。


 胸の奥が熱を持ち、同時に髪へかかっていた擬態がほどけていく感覚がした。


 焦げ茶だった髪が黒へ戻る。


 瞳も同じだ。


 魔物が一度大きく身を震わせた。


「ハミル」


 レグルの声が近い。


「大丈夫」


 穢れを引き切る。


 黒く濁っていた身体から、少しずつ色が抜けていった。


 突起が縮み、四肢の形が変わる。


 最後に胸元の核が淡く光ると、そこにいたものは小さな山鹿に似た精霊へ戻っていた。


 精霊はしばらくふらついていたが、やがて顔を上げる。


 ハミルの手へ鼻先を寄せ、それから木々の奥へ駆けていった。


 レグルがすぐにハミルの顔を覗き込む。


「気分は」


「平気だよ」


 短く答えても、レグルの視線は外れない。


「本当に?」


「本当に」


「イルは」


『問題ない』


「問題ないって」


 ようやくレグルが少しだけ身体を離した。


「ならいい」


 そう言いながらも、まだ納得しきっていない顔をしていた。


 ソルガルトが精霊の消えた方を見る。


「前は、こんなところまで魔物はいなかった」


 精霊が消えた木々の奥を見たまま、ソルガルトが低く言う。


「山の奥にも?」


「いないわけじゃねえ。でも、守り神の近くに寄る奴は少なかった」


「守り神だから?」


「俺たちと同じくらい強い精霊だからな。普通なら、わざわざ近寄ろうとはしねえ」


 ハミルは、精霊が駆け去った方へ目を向けた。助けたばかりの小さな身体は、もう木々の向こうに見えない。


「……じゃあ、やっぱり何かおかしいんだ」


「だろうな」


 ソルガルトの声から、さっきまでの軽さが少し消えた。


 擬態をかけ直してから、再び歩き始める。


 そこから先は、穢れの流れがさらに分かりやすくなった。村から伸びてきた細い筋が、一つ、また一つと合流していく。同時に、山そのものに漂う穢れも濃くなる。


 ハミルは何度か足を止めた。


「変だな」


「何が?」


 レグルが振り返る。


「流れてるのは分かる。でも……」


 ハミルは言葉を探す。川のように一方向へ流れているのなら、その先だけが濃くなるはずだ。けれど今は違う。行き先へ近づくほど、周囲の木々や土にまで薄い穢れが染みている。


『受け切れておらぬのだろう』


 イルが言った。


『山の精霊が?』


『おそらくな』


 ハミルは前を歩くソルガルトを見る。彼も気づいているのだろう。さっきまでより足が速い。エルガも何も言わず、その後ろについている。


 やがて斜面が緩くなり、木々の間から差し込む光の先に小さな沢が見えた。澄んだ水が岩の間を流れている。そこでソルガルトが足を止めた。


「ここだ」


 ハミルは周囲を見た。


「誰もいないけど」


「いる」


 ソルガルトは沢の向こうを見ていた。


「出てこいよ。久しぶりに来たってのに、隠れてんじゃねえ」


 返事はない。水の音だけが続く。


「……本当にいるのか?」


 返事のない沢を見ながら、レグルが小声で聞く。


「いるっつってんだろ」


「じゃあ嫌われてんじゃねえの」


 からかうような声に、ソルガルトが眉を吊り上げる。


「お前な」


 振り返りかけた、その時だった。沢の水面が揺れた。風はない。それなのに、波紋が一つ、二つと広がっていく。


 木々の葉が擦れ、地面の奥から低い息遣いのような音がした。ハミルの肌が粟立つ。


 強い。ソルガルトとは質が違う。けれど、山そのものがこちらを見ているような圧がある。


 沢の向こう、太い木の根元に人影が現れた。いつからそこにいたのか分からない。


 長い灰褐色の髪に、日に焼けたような肌。人の形をしているが、足元は薄く透け、地面へ溶けるように揺らいでいる。その視線が、真っ直ぐソルガルトへ向いた。


「……まだ生きていたのか」


 低い声だった。ソルガルトは一瞬だけ目を丸くし、それから、いつものように笑った。


「久しぶりに会った奴への第一声がそれかよ」


「お前には十分だ」


 素っ気なく返されても、ソルガルトはむしろ楽しそうだった。


「相変わらずだな」


「お前もな」


 短いやり取りだったが、ソルガルトの顔には、ハミルがこれまで見たことのない懐かしさが浮かんでいた。


 山の精霊は次にエルガを見ると、わずかに目を細めた。


「その眷属も変わらぬか」


「お久しぶりです」


 エルガが静かに頭を下げる。


 そして視線がレグルへ移り――止まった。


「……月の匂いがする」


 レグルの肩が僅かに強張る。山の精霊は何かを確かめるように見つめたあと、最後にハミルへ顔を向け、その目をゆっくり細めた。


「お前は」


 ハミルは何も言わなかった。焦げ茶の髪と瞳――人間に見える姿をしていても、目の前にいるのはソルガルトたちと肩を並べるほど強い精霊だ。


「妙なものを連れてきたな、ソルガルト」


「だろ?」


「褒めてないと思うよ」


 ハミルが言うと、ソルガルトが笑った。


 山の精霊は笑わず、代わりにもう一度ハミルを見た。


「人でも、精霊でもない」


 その言葉に、レグルがハミルを見る。以前、自分が言った言葉と同じだった。


「……まあ、その話はあとで」


 ハミルは山の精霊の周囲へ目を向けた。近くまで来たことで、ようやくはっきり分かる。


 黒い流れはここへ集まっている。木々の間を抜け、沢を越え、目の前の精霊へ。そしてその身体の奥には、すでに少なくない穢れが沈んでいた。


「先に、こっちを聞かせてほしい」


 ハミルが言う。


「村から流れてきてるもの。いつからこんなに増えたの?」


 山の精霊の表情が、初めて変わった。ほんの僅かに、疲れたように。


「……気づいたか」


 沢の水音が、二人の間を流れた。

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