第044話 祈る祭り
翌朝、目を覚ました時には、外からもう人の声が聞こえていた。
窓を開けると、昨日とは違う匂いが入ってくる。焼いた肉と甘い菓子、それに薪の煙。広場へ続く道には色布が増え、軒先には山の形を編んだ飾りが吊るされていた。
「祭りらしくなったな」
隣の窓からソルガルトが顔を出す。
「朝から元気だね」
「祭りだからな」
「昨日も元気だっただろ」
後ろでレグルが欠伸をした。
昨夜は二部屋に分かれ、ハミルとレグル、ソルガルトとエルガがそれぞれ使った。
朝食を終えて外へ出ると、村の空気は昨日よりずっと賑やかだった。
広場には露店が並び、子どもたちが木彫りの笛を鳴らして走り回っている。大鍋から湯気が上がり、焼き台では肉の脂が弾けていた。
「お、あれ何だ?」
ソルガルトが早速足を止める。
「朝飯食ったばっかりだろ」
「祭りの飯は別だ」
「その理屈、昨日の干し果実でも聞いた気がする」
「昨日は旅の飯だ」
「何が違うんだよ」
レグルが呆れている間に、ソルガルトはもう露店の前にいた。
売っていたのは、薄く伸ばした生地で刻んだ肉と山菜を包み、鉄板で焼いたものだった。ソルガルトが四つ買い、当然のように一つをエルガへ渡す。
「ハミルも食うか?」
「一口だけ」
「一個食え」
「朝ご飯食べたばっかりだって」
「祭りの飯は別だぞ」
「その理屈はもう聞いた」
結局半分押しつけられ、ハミルは包みを受け取った。
熱い。けれど香草の匂いが強く、思ったよりあっさりしている。
「おいしい」
「だろ?」
「お前が作ったわけじゃねえだろ」
レグルが言う。
そんなやり取りをしながら広場を歩いていると、昨日感じた重さが少しだけ遠のいた。
祭りを楽しんでいる人は、ちゃんといる。
昨日言い争っていた男二人も、今日は同じ台を運びながら何か話していた。桶をぶつけた女たちは別々の露店で忙しく働いている。
子どもたちは、大人の事情など知らないように笑っている。
「前もこんな感じだった?」
ハミルが聞くと、ソルガルトは広場を見回した。
「もっと騒がしかった気はするな」
『朝から酒を飲んでいる者も多かった』
『それは祭りの違いじゃなくて、時代の違いじゃない?』
『十年で人の酒好きが変わるものか』
『知らないけど』
思わず笑うと、レグルが横から覗き込んだ。
「何だよ」
「イルが、昔は朝から酒飲んでる人が多かったって」
「それで笑ってたのか」
「うん」
「……お前ら、たまに二人だけで楽しそうだよな」
「気になる?」
「別に」
言いながら少し不満そうなので、ハミルは笑った。
その時、広場の中央で鐘が鳴った。
一度。
二度。
三度。
露店の呼び声が少しずつ止まり、人々が山側へ顔を向ける。
広場の奥には、昨日は人に隠れてよく見えなかった石段があった。その先に小さな祠があり、背後の山へ向けて開かれている。
「始まるみたいだな」
ソルガルトが包みの最後を口へ放り込んだ。
村人たちは広場から祠の前へ集まり始めた。
ハミルたちも邪魔にならないよう、少し離れた場所へ移る。
石段の上に立ったのは、白髪の男だった。
昨日、村へ入った時にも見かけた気がする。周囲の人間が自然と道を空けているところを見ると、村長か、それに近い立場なのだろう。
「今年もこの日を迎えられたこと、山の守り神様へ感謝申し上げる」
よく通る声だった。
「この山より水をいただき、木をいただき、獣をいただき、我らはここで暮らしてきた。今日一日、いただいた恵みに感謝し、皆で祝い――」
そこまでは、ハミルが想像していた祭りと同じだった。
けれど村長は、一度言葉を切った。
集まった人々の間に、微かなざわめきが走る。
「……そして今、各地で魔物が増えている。第二の魔王が現れたとの報せも届いている」
ハミルの指先が、わずかに止まった。
隣でレグルがこちらを見る。
視線だけで大丈夫だと返した。
「昨日も、この村の近くで魔物が確認された。我らだけではどうにもならぬこともあるだろう」
村長は祠へ向き直った。
「どうか今年も、我らをお守りください」
深く頭を下げる。
村人たちも続いた。
「お守りください」
最初は、まばらな声だった。
それが重なっていく。
「どうか、魔物が村へ入りませんように」
「子どもたちに何もありませんように」
「第二の魔王が、こちらへ来ませんように」
「どうか、お守りください」
願いが一つ増えるたび、ハミルの胸の奥が重くなった。
祈りそのものが悪いわけではない。
誰だって、怖ければ助けを求める。
まして実際に魔物が増えているのなら、何も恐れるなという方が無理だ。
けれど――。
『見えるか』
イルの声が低くなる。
『うん』
頭を下げた人々の間から、黒い靄のようなものが滲んでいた。
一人から出ているものは薄い。
昨日の街道に漂っていたものより、ずっと薄い。
だが、人数が違う。
何十人もの恐れが、同じ言葉を口にし、同じものへ向かっている。
ハミルは祠の向こうを見た。
靄はそこで消えているわけではない。
細い糸のように伸びている。
山へ。
「……ハミル」
レグルが、こちらの顔を覗き込む。
「何かあるのか」
声を潜めて聞かれ、ハミルは山へ伸びていく細い靄を目で追った。
「……穢れが、山の方へ流れてる」
レグルの表情がわずかに険しくなる。
エルガは祠ではなく、その向こうの山を見ていた。
ソルガルトからも、さっきまでの笑顔が消えている。
「前は、こんなんじゃなかった」
小さな声だった。
「祈りが?」
「祭りがだ」
ソルガルトは眉を寄せた。
「礼を言って、食って、飲んで、騒いでた。神頼みする奴がいなかったわけじゃねえ。でも……こんなふうに、みんなして縋ってなかった」
祈りが終わる。
村長が顔を上げ、再び祭りの始まりを告げた。
鐘が鳴る。
途端に、止まっていた露店の呼び声が戻った。
子どもたちが走り出し、楽器の音が広場に響く。
さっきまで頭を下げていた人々も、それぞれの家族や友人のもとへ散っていった。
表面だけを見れば、祭りは元へ戻った。
ソルガルトも、少しして子どもに引っ張られた輪投げへ参加している。
「おっちゃん、そこから投げるんだぞ!」
「おっちゃんじゃねえ!」
「じゃあ兄ちゃん!」
「よし!」
「そこは簡単に機嫌直るんだな」
レグルが呆れる。
エルガはその横で、渡された木の輪をじっと見ていた。
「エルガもやる?」
「……私がですか」
「うん」
「必要ありません」
「祭りに必要かどうかで考えたら、ほとんど何もできなくない?」
ハミルが言うと、エルガは少し黙った。
その間にソルガルトが輪を一本押しつける。
「投げてみろ。案外難しいぞ」
「ソルガルト様が二本とも外したからでは」
「言うようになったな!」
結局エルガが投げた輪は、三つ並んだ杭の真ん中へ綺麗に入った。
「……入った」
本人が一番意外そうだった。
ハミルは笑いながら拍手する。
祭りは楽しい。
きっと、この村の人たちにとっても本来はそうなのだ。
だからこそ、その底に沈んでいるものが気になった。
*
昼を過ぎる頃、広場の端で休んでいると、昨日宿を貸してくれた女主人が温かい飲み物を持ってきた。
「楽しんでる?」
「はい。食べすぎてる人もいますけど」
「祭りだからな」
ソルガルトが即座に答える。
女主人は笑った。
「それくらいがいいよ。最近はみんな、何かっていうと山へお願いしてばっかりだから」
「前は違ったんですよね」
ハミルが聞く。
「そりゃあね。守り神様には昔から世話になってるけど、何でも叶えてくれる神様ってわけじゃない」
「世話になってる?」
「山で迷った子が帰ってきたとか、大雨の前に獣が山を下りてきて気づけたとか。そういう話はいくらでもあるよ。本当かどうかは知らないけどね」
女主人は湯気の向こうで山を見た。
「だから昔は、今年もありがとうって祭りだった」
「それが、魔物が増えてから変わった?」
「それもある」
答えが少しだけ濁った。
ハミルは女主人を見る。
「それも?」
「……まあ、いろいろ重なったのさ」
女主人はすぐに笑い直した。
「旅の人に話すようなことじゃないよ。ほら、せっかく来たんだから楽しんでおいで」
それ以上聞かせるつもりはないらしい。
ハミルも追わなかった。
ただ、その言葉は引っかかった。
魔物が増えた。
第二の魔王の噂が流れた。
それだけではない。
何かが重なった。
「ハミル」
女主人が離れたあと、レグルが呼ぶ。
「うん」
「……気になるのか?」
ハミルは祠の向こうへ目を向けた。
朝の祈りが終わってからも、村人は時折そこへ立っている。
手を合わせ、頭を下げ、何かを願って帰っていく。
そのたびに、薄い穢れが山へ伸びる。
けれど今朝のように大勢が一度に祈っていないせいか、その流れは細い。
「そういえば、ソルガルトは守り神と知り合いなんだっけ」
ハミルが振り向くと、ソルガルトは少しだけ目を瞬いた。
「まあな。昔、何度か会った」
「じゃあ……様子、見に行く?」
ソルガルトは山を見上げた。
さっきまで祭りの食べ物に向けていた顔とは違う。考えるように目を細めている。
「気にならねえって言ったら嘘になるな」
「なら行こうか」
そう言ってから、ハミルも山を見上げた。
日が傾き始めている。ここから山へ入るなら、戻る頃には暗くなるだろう。
レグルも同じことを考えたらしい。
「今から入るのは危なくねえか」
「だよね」
ハミルは頷く。
「じゃあ、明日にしよう。今日はもう少し村の様子も見ておきたいし」
ソルガルトも異論はないようだった。
「それでいい。今すぐどうこうって気配でもねえ」
『我も同意見だ』
イルが続ける。
なら、明日の朝に向かえばいい。
ハミルは広場を見た。
子どもが笑っている。
料理を売る声が飛ぶ。
楽器の音に合わせて手を叩く人もいる。
そのすぐ横で、祠へ向かって祈る人がいる。
明るさと恐れが、同じ場所に混ざっていた。
ハミルは残っていた飲み物を口にする。
少し甘かった。
「じゃあ今日は祭りを見ようか」
「おう」
ソルガルトがすぐに答える。
「お前はそれが目的になってねえか?」
「何言ってんだ。祭りをちゃんと見るのも調査だろ」
「さっき四軒目の飯食ってた奴が言うな」
「味も調査だ」
「便利な言葉だな、調査」
レグルが呆れ、エルガが小さく息を吐いた。
ハミルは笑った。
それでも視界の端では、山へ伸びていく黒い糸が消えなかった。




