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世界が彼を魔王と呼ぶまで  作者: ぶん吉
第三章

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第042話 道の先の淀み

 翌朝、空はすっかり晴れていた。


 昨夜の雨で濡れた街道にはところどころ浅い水溜まりが残っているものの、荷車の車輪を取られるほどではない。昨日外れかけた車輪も、朝のうちにハミルがもう一度留め具を締め直していた。


「本当に大丈夫なんだろうな?」


 出発してからしばらくして、ニコが二台目の荷車を振り返った。


「今のところは」


「今のところって言うなよ。不安になるだろ」


「市場町に着いたら職人に見せた方がいいとは言ったよ」


 前を歩いていたガルドが笑う。


「昨日あれだけ手際よく直してもらっといて疑うなよ」


「疑ってねえよ。荷が全部乗ってんだから気になるだけだ」


「じゃあお前が後ろ歩いて見張っとけ」


「最初からそうしてるだろ」


 言い返しながらも、ニコは少しだけ荷車へ近づいた。


 昨日より、道は緩やかに上り始めていた。


 左右に続いていた低い林も少しずつ深くなり、遠くに見えていた山並みが、いつの間にか空の下半分を占めるほど近くなっている。風が吹くたび、雨に濡れた葉の匂いが流れてきた。


「この辺、静かだな」


 ソルガルトが言った。


「朝だからじゃねえの」


 レグルはそう返したが、ハミルも少し前から同じことを思っていた。


 鳥の声が少ない。


 まったく聞こえないわけではない。ただ、林の深さに比べて妙に遠い。昨日までなら荷車の音に驚いて飛び立つ小鳥を何度も見たのに、今日はそれもなかった。


『イル』


『ああ』


 呼ぶだけで返事が来た。


 気のせいではないらしい。


 けれど、ガルドとニコの前で立ち止まって確かめるほどのものでもない。ハミルは前を向いたまま、周囲へ意識だけを広げた。


 何かがいる、というより――何かが残っている。


 薄く、重いものが。


「どうした?」


 隣を歩くレグルが声を落とした。


「ちょっと空気が悪い」


 それだけで通じたらしい。レグルの表情がわずかに変わる。


「昨日の雨のせいじゃなくて?」


 後ろからニコが聞いた。


「たぶん、違うかな」


「山の方は湿気が残るぞ。慣れてないとそう感じるかもな」


 ガルドが何気なく言う。


 ハミルは「そうかも」と返しかけて、やめた。


 林の奥で、枝が折れた。


 乾いた音だった。


 馬が耳を立てる。


 次の瞬間、二頭とも同時に足を止めた。


「おい、どうした」


 ガルドが手綱を引く。馬は前へ進むどころか、鼻を鳴らして後ずさろうとした。


 ニコが周囲を見回す。


「何かいるのか?」


「いる」


 エルガが短く答えた。


 その声に、ソルガルトが食べかけの干し果実を袋へ戻す。


 林の奥で、もう一度音がした。


 今度は一つではない。


 枝葉の隙間を、黒い影が横切る。


「魔物だ!」


 ガルドが叫んだ。


 最初の一体が街道へ飛び出してきた。


 獣に似た四肢。背中から不揃いな突起が伸び、黒く濁った身体の中心に核が見える。その後ろから、もう一体。さらに反対側の林でも低い唸り声が上がった。


「三……いや、まだいるな」


 レグルが数える。


 ガルドの顔が強張った。


「こんな街道沿いに何匹も出るなんて聞いてねえぞ」


「ガルド、ニコ。馬を下げて」


 ハミルが言う。


「下げるって、お前らはどうする!」


「大丈夫。慣れてるから」


「慣れてるって――」


「来るぞ」


 レグルの声に、会話が切れた。


 一体が地面を蹴る。


 真っ直ぐ荷車へ向かってきた魔物の横腹へ、ソルガルトが体当たりするようにぶつかった。


 鈍い音とともに巨体が街道の端まで吹き飛ぶ。


「お前、昨日から力隠す気ねえだろ!」


 レグルが叫ぶ。


「加減した!」


「それでかよ!」


「倒してないからいいだろ!」


「そういう話をしてんじゃねえ!」


 言い合っている間にも、二体目が回り込む。


 エルガがその前へ滑り込み、伸びてきた爪を受け流した。体勢を崩したところへレグルが蹴りを入れ、街道の外へ押し戻す。


 ハミルは一歩遅れて前へ出た。


 いつもなら、ここから穢れを引けばいい。けれど背後にはガルドとニコがいる。穢れを引けば、レグルの擬態は保てない。


『無理に救う必要はない』


 イルが言う。


『うん。今日は追い払う』


 飛びかかってきた三体目の腕を避け、勢いを殺さず脇へ流す。そのまま肩を押して向きを変えた。魔物が地面を転がる。


「ハミル、右!」


 エルガの声が飛ぶ。


 振り向けば、林からもう一体が出てきていた。


 多い。


 街道沿いで偶然出会ったという数ではない。


「ソルガルト、そっちお願い!」


「任せろ!」


「殺すなよ!」


「分かってる!」


「昨日も聞いたな、それ」


 レグルがぼやきながら、最初の一体の前へ立つ。


 戦いは長くは続かなかった。


 数はいたが、どれも手に負えないほど強いわけではない。核を壊さないよう加減しながら動きを止め、林の奥へ追い立てる。最後までしつこく戻ってきた一体だけは、ソルガルトが地面へ叩きつけてしばらく立てなくした。


「死んでないよね?」


「死んでねえよ」


 ハミルが覗き込むと、ソルガルトが不満そうに答える。


「信用ないなあ」


「前科があるから」


「いつの話だよ」


「割と最近」


 横でレグルが鼻を鳴らした。


 しばらく待っても、林から新しい気配は出てこなかった。ガルドとニコが、ようやく馬を連れて戻ってくる。


「……お前ら、本当に何者なんだ?」


 ガルドが言った。昨日、荷車を支えた時よりも真剣な顔だった。


「旅人?」


「疑問形で返すな」


「護衛でもやってたのか?」


 ニコが聞く。


「似たようなことは、昔ちょっと」


「ちょっとであれだけ動けるかよ」


 追及するというより、呆れているらしい。


 ソルガルトが胸を張りかけ、エルガに袖を引かれてやめた。


 ガルドは倒れたままの魔物を遠巻きに見た。


「しかし、妙だな」


「何が?」


「この辺は街道から山へ入らなきゃ、魔物なんて滅多に出ない。出ても一匹迷い込むくらいだ」


 ニコも頷く。


「最近増えたって話は聞いてたけどな。だから商人も一人じゃ通らなくなってる」


「増えたのはいつ頃から?」


 ハミルが聞くと、二人は顔を見合わせた。


「いつからって言われるとなあ」


「ここ一月くらいじゃねえか? 前に通った時は、ここまでじゃなかった」


「そうだな。山沿いで見たって話が増えたのは、そのくらいか」


 ハミルは林へ目を向けた。さっき追い払った魔物の気配は、もう遠ざかっている。代わりに、戦う前から感じていた重さが残っていた。


 雨上がりの湿った空気とは違う。薄い煤を溶かしたような穢れが、木々の間に漂っている。


 魔物から漏れたものだけではない。


「レグル」


「ああ」


 小さく呼ぶと、レグルも林の向こうを見た。エルガも何も言わず、同じ方向へ視線を向けている。ソルガルトだけが眉間に皺を寄せ、鼻を鳴らした。


「嫌な感じするな」


「分かる?」


「そりゃ分かる。前より濃い」


 ガルドが怪訝そうに振り返る。


「何の話だ?」


「こっちの話」


 ハミルは笑って誤魔化した。


 けれど、胸の奥では引っかかりが大きくなっていた。


 魔物が増えている。


 その周囲には、魔物だけでは説明できない穢れが残っている。


 そして、街道の先には山がある。


『山から、というわけではなさそうだな』


 イルが静かに言った。


『うん』


 風向きは山からだった。


 けれど穢れは風に乗っているわけではない。林の中にも、街道の脇にも、薄く広く沈んでいる。


 まだ、どこから来ているのかは分からない。


「どうする?」


 レグルが聞いた。


「どうするって?」


「気になるんだろ」


「まあね。でも、今はガルドたちと市場町まで行く」


 ハミルは荷車を見る。


 ここで別れて林へ入ったところで、何を追えばいいのかも分からない。


「市場町まで行けば、何か話も聞けるかもしれないし」


「なら決まりだな」


 レグルはそれ以上言わなかった。


「おい、行くぞ。暗くなる前に野営できる場所まで出たい」


「ごめんごめん」


 ガルドが手綱を持ち直し、荷車が再び動き出した。車輪が水溜まりを踏み、濁った水を跳ね上げた。


 しばらく進むと、林が一度途切れた。視界の先に、山が大きく姿を現す。雲の切れ間から差した光が、斜面の一部だけを明るく照らしていた。


「そういや、あの辺りで祭りやるんだっけ」


 ハミルが言うと、ガルドが頷いた。


「ああ。市場町から少し外れた村だ。山の守り神を祀ってる」


 ソルガルトが山を見る。その横顔から、さっきまでの軽さが少し消えた。


 ハミルも同じ山を見上げる。


 祭りがある。それだけなら、少し楽しみだったはずなのに。


 今は、山の手前に薄い影がかかっているように見えた。もちろん、本当に影があるわけではない。


 それでもハミルは、しばらく目を離せなかった。

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