第041話 旅の途中
町を出てから、しばらくは荷車の軋む音が途切れなかった。
二台とも、見た目以上に荷を積んでいるらしい。舗装の薄い道へ入るたび、車輪が石を噛んで鈍い音を立てる。そのたびに前を歩くガルドが振り返り、荷崩れしていないかを確かめていた。
「市場町まで、どれくらい?」
ハミルが尋ねると、ガルドは空を見上げた。
「順調なら二日半ってとこだな。途中で一泊できる集落がある。明日は街道沿いで野宿だ」
「二日半か」
「近いと思ったか?」
「いや。二日半なら、結構あるなって」
少し後ろでは、ソルガルトがニコの荷車の横を歩きながら、さっき買った干し果実を齧っていた。
「これうまいな!」
「商品だって言っただろ。食い尽くすなよ」
「金は払った」
「一袋分な」
「じゃあもう一袋」
「ソルガルト様」
エルガの声が飛ぶ。
「分かってる!ちゃんと買うって」
返事だけは妙に早い。
レグルが隣でため息をついた。
「旅に出てから、あいつ食ってばっかりじゃねえか」
「元気そうでいいんじゃない?」
「お前は甘い」
「そうかな」
「そうだよ」
言いながらも、ハミルの視線も一度だけソルガルトへ向いた。
穢れを大きく引いてから、ソルガルトの様子は落ち着いている。少なくとも、今のところは。
だからハミルも、必要以上にそこばかりを見るのはやめていた。
今は一緒に歩いている。
それでいい。
『随分、馴染んだな』
イルが言った。
『誰が?』
『全員だ』
ハミルは前を見る。
商人二人と荷車二台。その横を歩くレグル、エルガ、ソルガルト。
少し前までなら、この組み合わせで街道を歩くことなど想像もしなかった。
『そうだね』
返したところで、前方からガルドの声が飛んだ。
「そこの分かれ道、右な!」
「左は?」
ソルガルトが聞く。
「行き止まりじゃないが、山越えになる。半日どころじゃ済まねえぞ」
「じゃあ右だな」
「だから最初からそう言ってる」
ニコが呆れた。
街道はそこから少し細くなった。
左右には低い林が続き、ところどころで視界が開ける。遠くに山の稜線が見えた。風の国へ近づくほど、あの山々を越える道が増えていくらしい。
ガルドたちは慣れたもので、分かれ道へ来るたび迷いなく進んでいく。
道標はある。ただ、文字が薄れていたり、枝道が増えていたり、書いてある距離が当てにならなかったりする。
「これ、俺たちだけだったら普通に間違えてたね」
ハミルが言う。
「お前なら間違えてから気づくだろ」
「レグルがいるから大丈夫じゃない?」
「最初から俺に投げんな」
「頼りにしてる」
「そういう言い方すればいいと思ってんだろ」
「駄目?」
「……駄目ではねえけど」
少し前を歩いていたガルドが振り返った。
「本当に兄弟じゃないのか?」
「違う」
レグルが即答した。
「早いな」
「違うもんは違う」
「じゃあ昔からの連れ?」
今度はハミルが少し考える。
「それも、ちょっと違うかな」
「面倒な関係だな」
「俺もそう思う」
「おい」
レグルが睨む。
ガルドは笑いながら前へ戻った。
*
昼を少し過ぎた頃、街道脇の開けた場所で休憩を取った。
荷車を木陰へ寄せ、馬に水を飲ませる。ハミルたちも適当な石へ腰を下ろした。
ニコが干し肉と硬いパンを配り、ソルガルトだけが明らかに嬉しそうな顔をする。
「旅人っぽいな!」
「今まで何だと思ってたんだよ」
レグルが言う。
「いや、俺たちだけで歩いてる時って、何かこう……好きに止まって好きに食ってただろ」
「それはそうだけど」
「こうやって商人と同じ道歩いて、同じところで休むと、ちゃんと旅してる感じするからな」
ハミルはパンを齧りながら、少しだけ分かる気がした。
自分たちだけなら、疲れたら止まり、暗くなる前に寝る場所を探す。けれど荷車があれば馬の都合がある。荷の重さもある。次の集落までの距離を考え、日が落ちる時刻から逆算する。
人間の旅は、思ったより細かい。
「前はどうだったんだ?」
ニコが聞いた。
「前?」
「旅してたことあるんだろ。昨日も昔の店の話してたし」
「ああ」
ハミルは少し考えてから頷いた。
「歩くことが多かったかな。町に着いたら宿を探して、道中は野営して。今とそんなに変わらないよ」
「へえ。じゃあ慣れてるんだな」
「まあ、それなりに」
「その割には道分かってなかったけどな」
レグルが横から言う。
「昔通った道を全部覚えてるわけじゃないよ」
「そりゃそうか」
ニコはあっさり納得すると、干し肉を噛みながら今度はガルドへ話を振った。
それで話題は、道中で泊まって酷かった宿や、逆に飯だけは妙にうまかった宿の話へ移っていった。
ハミルも時々そこへ混ざった。
昔の旅について、何もかも隠す必要はない。
どこで眠ったとか、何を食べたとか、道に迷ったとか。そういう話なら、ただの旅人の昔話として笑える。
それくらいが、今はちょうどよかった。
*
午後になって、空が曇り始めた。
雨が降るほどではない。ただ風が少し強くなり、ガルドが何度か空を見ている。
「降る?」
「夕方に少し来るかもな」
「急いだ方がいい?」
「いや。この辺で急がせる方が危ない」
道が緩い下り坂になっていた。片側は林、反対側は浅い斜面。荷車が速度を出せば、止める方が大変になる。
ガルドは馬の手綱を少し短く持った。
その時だった。
後ろから、木の割れるような音がした。
「止めろ!」
ニコが声を上げる。
二台目の荷車が傾いていた。右側の車輪が不自然に外へ開き、荷の重みで車体がじわじわと斜面側へ寄っていく。
「ニコ、馬を!」
「分かってる!」
ニコが手綱を掴む。だが、驚いた馬が身体を振り、荷車がさらに大きく傾いた。
「まずい!」
ガルドが駆け寄る。
その横を、ソルガルトが抜けた。
「任せろ!」
傾いた荷台へ肩を入れる。
ずるりと落ちかけた車体が、そこで止まった。
「お前、何て力してんだ!?」
「早く馬を落ち着かせろ。抑えてるから」
ガルドが目を丸くしたまま、すぐに動いた。
ハミルは車輪の横へしゃがみ込む。
軸を留める金具が外れかけていた。完全に割れたわけではない。長く揺さぶられたせいで留めが緩み、車輪がずれたらしい。
「ハミル?」
レグルが覗き込む。
「直せそう」
「分かるのか?」
「前にも似たのやったことある」
アバドの荷車を直した時と、壊れ方はそう変わらない。
「ガルド、工具ある?」
「あ、ああ。荷台の前だ」
「借りるよ」
レグルが工具袋を取ってくる間に、ハミルは車軸の泥を払った。
「ソルガルト、もう少しだけそのまま」
「おう!」
「エルガ、反対側を見てて。傾いたら教えて」
「分かった」
工具を受け取り、緩んだ金具を外す。歪みを確かめ、車輪を元の位置へ戻してから噛み合わせ直す。
手順は身体が覚えていた。
ガルドが隣へしゃがみ込んだ頃には、ハミルはもう最後の留めを締めていた。
「……兄ちゃん、修理もできるのか」
「こういうのは割と好きなんだよね」
「好きでできるようになるもんか?」
「壊れるものが身近に多かったから」
森の小屋も、道具も、荷車も。誰かを呼べない場所で暮らしていれば、自分で直すしかなかった。
ハミルは車輪を両手で揺らし、がたつきがないことを確かめる。
「これなら市場町までは持つと思う。ただ、街に着いたらちゃんとした職人に見せた方がいいね」
どこかで言った覚えのある言葉に、自分で少しだけ笑った。
「もう離していいか?」
ソルガルトが聞く。
「ゆっくりね」
肩が離れる。
荷車は一度軋んだものの、まっすぐ立ったままだった。
「よし」
ハミルが立ち上がる。
ガルドは荷車とソルガルト、それからハミルを順に見た。
「……お前ら、やるな」
「だろ?」
なぜかソルガルトが胸を張る。
「お前は力任せだっただろ」
レグルが言う。
「最初に止めたの俺だぞ」
「それは助かったけどな」
ガルドが笑う。
「本当に助かった。あのまま倒れてたら、荷だけじゃ済まなかった」
「困ったときはお互いさまだからな」
ソルガルトはそれだけ言って笑った。
見返りを求めるでもなく、理由をつけるでもない。
人が困っていたから助けた。
ハミルは泥のついた工具を拭きながら、その横顔を見る。
豪快で、よく食べて、声が大きい。でもたぶん、それだけではない。
人間の食事が好きなのも、祭りが好きなのも、昔イルとあちこち歩いたのも。
根っこのところでは、人の営みそのものが好きなのかもしれない。
『太陽らしい』
イルが言った。
『昔から?』
『ああ』
『じゃあ変わってないんだ』
少し間があった。
『変わらぬものもある』
イルの声は静かだった。
ハミルはそれ以上聞かなかった。
*
再び歩き出した頃には、細い雨が落ち始めていた。
修理した荷車は問題なく進んでいる。それでもガルドは何度か車輪を気にしていたが、そのたびにハミルが「大丈夫」と言うと、少しずつ振り返る回数が減っていった。
速度は朝より少し遅い。
その分、話す時間は増えた。
商売のこと。風の国へ入る荷がどこで受け渡されるのか。街道沿いの町や祭り。雨季には使えなくなる道。
ソルガルトは知らない土地の話が出るたびに口を挟み、エルガに何度も窘められていた。
「そういや、お前ら、市場町の祭りにも行くんだって?」
ガルドが思い出したように言った。
「え?」
ハミルは目を瞬いた。
「いや、まだ行くって決めたわけじゃ――」
「行くぞ!」
少し前を歩いていたソルガルトが、間髪入れずに振り返った。
「……決まったみたいだね」
「最初からそのつもりだったんだろ」
レグルが呆れたように言う。
「祭りがあるなら行くだろ!」
「その理屈は初めて聞いたよ」
ガルドが声を上げて笑った。
「じゃあ、祭りのあと山の方へ寄るんだな。ならこの道で合ってる。市場町を出たあと北へ分かれる道があるから、そこだけ見落とすなよ」
「分かりにくい?」
「ちょっとな。古い石標が立ってる。雨の後だと草に隠れてることもある」
「それは聞いといてよかった」
「お前、本当に道は駄目だな」
レグルが笑う。
「だから頼りにしてるって言ったじゃん」
「はいはい」
前方では、ニコが今夜の野営地まであとどれくらいかをガルドに聞いている。
雨脚はまだ弱い。
濡れた街道の向こうに、山並みがぼんやりと霞んでいた。
あのどこかに、イルとソルガルトが昔訪れた場所がある。
それはもう知っている。
だから今度は、どんな場所だったのかを見に行けばいい。
ハミルは隣を歩くレグルと、少し先でニコの荷車を覗き込んでいるソルガルトを見た。
急ぐ旅ではない。
少しくらい寄り道をしてもいい。
雨の中、二台の荷車と五人は、同じ速さで次の市場町へ向かって歩いていった。




