第039話 四人だった頃
翌朝、宿場町の通りは日の出と一緒に動き始めていた。
軒先では荷車の車輪が鳴り、道の端には麻袋や木箱が積まれていく。昨夜は食堂にいた商人たちも、今はそれぞれの荷を前に出発の支度をしていた。
ハミルはその一台の横で、積み上げられた麻袋を眺めていた。
「これ、香辛料?」
「ああ。こっちは南から来たやつだ」
荷台へ縄を掛けていた男が答える。
「少し売ってもらえる?」
「構わんが、朝飯にでも使うのか?」
「まあ、そんなところ」
商人は首を傾げながらも、小さな紙袋へ香辛料を分けてくれた。代金を渡し、少し離れたところで口を開く。
赤茶けた細かな欠片を、ハミルは掌の上へ少しだけ出した。
指先で広げる。レグルも横から覗き込んだ。
「……ないな」
「うん」
何度か返して確かめても、あの灰色の粒は見当たらない。
ハミルは香辛料を袋へ戻すと、商人のところへ戻った。
「風の国から来るのも、この辺を通る?」
「物によるな。何だ、そっちの香辛料も探してるのか?」
「ちょっとね」
曖昧に答えると、男はそれ以上追及せず、縄を強く引いた。
「向こうから来る荷なら、この先の町で見た方が早いかもしれんぞ」
「この先?」
「ああ。二日くらい行ったところだ。南北の道とぶつかるから、荷を分けたり積み替えたりする連中が多い」
ハミルはレグルを見る。
「行ってみる?」
「他に当てもねえしな」
「じゃあ決まりだな!」
背後からソルガルトが割り込んできた。片手には、いつの間に買ったのか焼きたてのパンが握られている。
レグルがそれを見る。
「お前、何してた?」
「朝飯買ってた」
「聞き込みは?」
「腹減ってたからな」
「役に立てよ」
「パン屋のおっちゃんにも聞いたぞ。香辛料は扱ってないって」
「それ聞き込みに入るのか?」
「聞いたんだから入るだろ」
少し離れたところでエルガが額を押さえていた。
そのあとも、出発前の商人を何人か捕まえて話を聞いた。風の国から来る香辛料について尋ねる。
返ってくる答えは少しずつ違ったが、この先の町の名前だけは何度か出てきた。
「やっぱり、そこか」
最後の商人を見送りながら、レグルが言う。
「うん。行ってみよう」
細い手掛かりだった。それでも、進む先は決まった。
朝のうちに、五人は宿場町を後にした。
*
二日目の午後、街道の先に石造りの古い塔が見えた。半分ほど崩れた、見張り塔の跡だった。
ハミルは足を止めた。
「どうした?」
レグルが振り返る。
「……あれ、まだあるんだ」
「知ってんのか?」
「うん」
塔の向こうには、低い城壁に囲まれた町が見える。大きな町ではない。風の国へ向かう街道と南北の道が交わるため、昔から旅人がよく立ち寄る中継地だった。
「十年前に来たことがある」
「十年前?」
ソルガルトが横から顔を出す。
「随分前だな」
「うん。旅をし始めて、そんなに経ってない頃だったと思う」
レグルだけが、その言葉に小さく頷いた。ソルガルトとエルガは特に気にした様子もない。
口にしてから、思っていた以上に記憶が鮮明に戻ってくる。あの塔は当時から崩れていた。レイオスが「上まで登れる」と言い出して、マルテに止められた。メルクリオは止めるどころか「落ちたら置いていく」と言っていた。
結局レイオスは途中まで登り、本当に石を一つ落として宿の主人に怒られた。十九歳だった自分は、その下で笑っていた。
「何笑ってんだ?」
レグルの声で現在へ戻る。
「ちょっと思い出してた」
「ろくでもない顔してたぞ」
「失礼だな」
『ろくでもない記憶なのだろう』
『イルまで』
当時のイルは、まだ自分たちが討つべき魔王だった。今は、ハミルに誰よりも近い存在で、ハミルが思い出すたび、その記憶の端に一緒に触れてくる。
「ここだったのか」
レグルが町を見る。
「昨日の商人が言ってた町」
「うん。名前を聞いた時は気づかなかった」
十年前にも通った町だ。けれど、旅の途中で立ち寄った土地の名をすべて覚えていたわけではない。塔と町並みを実際に目にして、ようやく記憶が繋がった。
ソルガルトが楽しそうにハミルの顔を覗き込む。
「ちょうどいいじゃねえか。調べ物もできて、昔の町にも寄れる」
「そうだね」
今度は、素直に頷けた。
*
町の中は、覚えていたものと少し違っていた。道幅は同じだったし、中央広場の古い噴水も残っている。けれど、以前は道具屋だった場所が菓子屋になり、広場の端には見覚えのない宿が建っていた。
「あれ、昔はパン屋だった」
「今は靴屋だな」
「うん」
「当たり前だろ。十年経ってんだから」
レグルに言われ、ハミルは頷く。分かっていた。分かっていたはずなのに、実際に見ると少し不思議だった。
ずいぶん昔のことのはずなのに、景色を前にすると記憶だけが妙に近い。けれど人の世界では、店がなくなり、子供が大人になり、人が入れ替わるだけの時間が過ぎている。
ソルガルトはそんなハミルを急かさず、珍しく少し後ろを歩いていた。エルガも何も言わない。
広場を抜けたところで、ハミルはまた足を止めた。一軒の食堂があった。木製の看板は新しくなり、入口も塗り直されている。それでも、建物の形には覚えがある。
「ここ」
「ここも来たのか?」
「うん。みんなで初めてちゃんと飯食った店」
レグルが眉を上げる。
「それまで飯も食わずに旅してたのか」
「そういう意味じゃないよ。みんなで、ってこと」
レイオスとは昔から一緒だった。だから旅が始まってからも、二人で話すことに困ったことはなかった。けれどメルクリオとマルテは違った。勇者として集まったばかりの頃は、互いに何を話せばいいのかもよく分からなかった。
四人で動いているのに、レイオスとハミルが話し、メルクリオが必要なことだけ口を挟み、マルテは少し離れて聞いている。そんな時間がしばらく続いた。この町へ来るまでは。
「入る?」
ハミルが尋ねるより先に、ソルガルトが扉へ手をかけた。
「せっかく来たんだ。食おうぜ!」
「さっき昼食べたばかりだろ」
「甘いものなら入る!」
「別腹、まだ生きてたんだ」
「当然だ!」
その勢いに押されるように、五人は店へ入った。
*
店の中も、十年前とは少し変わっていた。卓は新しくなり、壁も塗り直されている。けれど奥の大きな暖炉だけは同じだった。そして、その横に見覚えのない額が飾られていた。
「……おい」
レグルが先に気づいた。
「何?」
「あれ」
指された先を見る。額の中には古びた紙が入っていた。
四つの名前が並んでいる。
火の勇者レイオス。
風の勇者メルクリオ。
水の勇者ハミル。
地の勇者マルテ。
その下には、それぞれの署名と四勇者来訪、と大きく書かれていた。
「……残ってるんだ」
「お前の名前あるぞ」
レグルが紙とハミルを見比べた。
「やっぱり、水の勇者だったんだな」
「……そう言ってたでしょ」
「聞くのと、こういうのを見るのは別だ」
「――待て」
ソルガルトの声が割って入った。
さっきまで笑っていた顔が止まっている。額を見上げ、それからハミルを見て、もう一度額へ戻る。
「ハミルって……お前か?」
「うん」
「お前、勇者だったのか!?」
「声、大きい」
ハミルは慌てて周囲を見回した。何人かの客がこちらを振り返っている。
「いや、だって聞いてないぞ」
「聞かれてないし」
「そういう問題か!?」
「しかも水の勇者って――」
「だから声」
隣で、エルガは何も言わなかった。
ただ額の四つの名を見つめている。その視線が、水の勇者ハミルのところで止まった。
「……お前が」
低い声だった。
「イルを討った勇者の一人だったのか」
ハミルは一瞬だけ黙る。
「……うん」
エルガの目がハミルへ移る。驚きだけではない。理解しきれないものを見るような顔だった。
「討った相手を、今は自分の中に抱えているのか」
「まあ……そうなるね」
「意味が分からん」
「それは俺もたまに思う」
『余計なことを言うな』
イルの声が内側で響いた。
思わず口元が緩みそうになって、ハミルは咳払いで誤魔化した。
「とにかく、声小さくね」
今のハミルは焦げ茶の髪と瞳に擬態している。名前だけなら、誰も目の前の男と結びつけない――はずだったが、これ以上騒がれればその保証もなくなる。
「兄ちゃんたち、勇者様が好きなのかい?」
声をかけられ、ハミルは振り返った。厨房から出てきたのは、四十代くらいの女性だった。記憶にある店主とは違う。
「昔、来たことがあるって聞いて」
ハミルが答えると、女性は嬉しそうに笑った。
「ああ。父から何度も聞かされたよ。まだ勇者様たちが旅を始めたばかりの頃だったって」
「お父さんが?」
「前の店主。もう引退してるけどね」
十年前、料理を運んできた男の顔が浮かんだ。当時すでに五十を越えていたはずだ。
「四人でこの店に来て、大騒ぎだったらしいよ」
「大騒ぎ?」
ソルガルトが楽しそうに食いつく。
「近くに出た魔物を退けた帰りだったんだって。それはもう見事な連携だったって、父が何度も話してたよ」
ハミルは黙った。レグルが横目で見る。
「……違うのか?」
「かなり」
「どの辺が?」
「全部かな」
実際は、レイオスが合図を待たずに飛び出した。核を砕くことには成功したが、飛び散った破片の一つを見失い、メルクリオが本気で怒った。マルテは初めての実戦で緊張していて、還元の直前に手順を確認し直した。ハミル自身も浄化に思った以上の時間がかかり、終わった頃には座り込んでいた。
見事な連携とは程遠い。それでも、四人だけで最初から最後まで救済をやり遂げたのは、あれが初めてだった。
その夜、この店で遅い夕食を食べた。レイオスが勝手にハミルの皿から肉を取り、メルクリオが「幼馴染ってみんなこんななの?」と呆れた。そしてマルテが、初めて声を上げて笑った。
そこからだった気がする。四人が、役割だけで並んだ勇者ではなくなったのは。
「何か思い出したか?」
レグルが聞く。
「うん」
「話せよ」
「長くなるよ」
「旅の途中だろ。時間ならある」
ハミルは一瞬、言葉に詰まった。それから小さく笑う。
「じゃあ、飯食べながらね」
「甘いものも頼もうぜ!」
ソルガルトがすぐに乗ってくる。
「お前はそれしかねえのか」
「思い出話には食いもんが必要だろ!」
「初めて聞いたぞ、そんな理屈」
エルガが店主を呼び止め、人数分の飲み物を頼んだ。ハミルはもう一度、壁の四つの名前を見る。
十年前。まだ四人とも、勇者になったばかりだった。レイオスとはそれよりずっと前から一緒だったけれど、メルクリオとマルテとは出会って間もなかった。
あの頃は、この先ずっと四人で旅をすることになるなんて、考えてもいなかった。まして十年後、自分だけがこうして別の仲間たちと同じ店へ戻ってくることなど。
『懐かしいか』
イルが静かに聞いた。
『うん』
今度は迷わず答えた。
『かなり』
店の奥で食器の触れ合う音がする。向かいではソルガルトとレグルが、どの菓子を頼むかで言い合っていた。
昔とは違う声に囲まれながら、ハミルは十年前の四人を思い出していた。




