第038話 第二の魔王
宿場町へ着いた時には、空が茜色に染まり始めていた。門をくぐるなり、ソルガルトが鼻をひくつかせる。
「煮込みってあれか?」
「まだ宿も決めてないぞ」
レグルが言う。
「さっきの商人がうまいって言ってただろ」
「だからって匂いだけで店分かんのかよ」
「分かる」
「犬か」
「太陽だ」
「余計分かんねえよ」
結局、宿を探すより先にソルガルトが店を見つけた。街道沿いの食堂は、市帰りらしい客で混み合っていた。五人分――正確には四人分の席を確保するのも難しそうだったが、ソルガルトは入口から店内を覗くなり、奥の卓へ向かって手を上げた。
「お、まだいたのか!」
「……知り合い?」
ハミルが尋ねる。
「今知り合った」
「いつ」
「さっき道で」
昼過ぎにすれ違った荷車の男だった。
「兄ちゃん、本当に来たのか。座れ座れ。詰めりゃ入る」
「助かる!」
あっという間に話がまとまり、ハミルたちは旅商人二人と同じ卓を囲むことになった。エルガは慣れた様子で座り、レグルは半ば呆れている。
「毎回こうなの?」
ハミルが小声で聞くと、エルガは一拍置いて頷いた。
「大体は」
「すごいね」
「褒めないでください。調子に乗ります」
「聞こえてるぞ」
ソルガルトが向かいから声を上げた。
注文した煮込みが運ばれてくる頃には、ソルガルトは商人たちとすっかり打ち解けていた。どこの道が崩れやすいだとか、次の市はいつだとか、風の国側では今年香辛料が高いだとか。話題は次々変わる。
ハミルは時々相槌を打ちながら聞いていた。こういう会話から得られるものもある。何より、十年ぶりの人間世界がどう動いているのかを知るのが、少し楽しかった。
やがて隣の卓から、聞き慣れた言葉が聞こえた。
「――また魔王が出たんだろ?」
ハミルの匙が止まる。ソルガルトも煮込みを口へ運びかけたまま、わずかに目を動かした。
「地の国の方だってよ」
「王都じゃなかったのか?」
「それとは時期が合わねえんだと。だから二体目じゃないかって」
「二体もいるのかよ」
「知らねえよ。俺が見たわけじゃねえ」
別の男が酒杯を置いた。
「でも地の勇者様が確認したって話だぞ」
「マルテ様が?」
「ああ。調査隊まで出たって」
そこまでは、あり得る話だった。ハミルは黙ってソルガルトを見る。ソルガルトもこちらを見た。その口元が、ゆっくり上がる。
「……俺か?」
「たぶん」
「第二の魔王、俺?」
「状況だけなら」
ソルガルトは数秒黙った。それから、なぜか少し嬉しそうに笑った。
「イルとお揃いだな」
『やめろ』
低い声が即座に返った。
「何でだよ!」
エルガがソルガルトの腕を引いた。
「笑い事ではありません」
「いや、でも今は戻ってんだろ?」
「そういう問題ではないでしょう」
エルガの声には、ほんの少し硬さがあった。ソルガルトはそれに気づいたらしい。笑みを引っ込めると、煮込みの中を匙で一度混ぜた。
「……まあ、そうだな」
軽い声だったが、それ以上は茶化さなかった。隣の卓では噂が続いている。
「どんな魔王だったんだ?」
「でかかったらしいぞ」
「山くらい?」
「それは盛ってるだろ」
「光ってたって聞いた」
「魔王なのに?」
「知らん。だから噂だって」
ソルガルトが小さく呟いた。
「光ってたのは合ってるな」
「山くらいは?」
「ねえよ」
「本当に?」
「ハミル、お前ちょっと楽しんでるだろ」
「少し」
「おい!」
レグルが口元を押さえている。エルガまでわずかに視線を逸らした。ソルガルトは不満そうに三人を見回したあと、残っていた煮込みを一気に口へ入れた。
「少なくとも、俺は今ここで飯食ってるぞ」
「それは誰も知らないからね」
ハミルは隣の卓へ視線を戻した。彼らが知っているのは、地の国で大きな何かが現れたこと。マルテたちが調査したこと。そして、それが王都で噂になった魔王とは時期が合わないこと。その程度だ。
王都で何が起きたのかも、地の国でソルガルトがどうなったのかも、ここにいる人々は知らない。まして、魔化した人間をハミルが戻したことなど知るはずもない。事実の隙間を、噂が埋めている。
「最近は魔物も増えてるしな」
隣から別の声がした。
「一体でも嫌なのに、二体も魔王がいたらどうなるんだ」
今度は誰も笑わなかった。男は本気で怖がっていた。それは当然のことだ。魔王が何だったのかを知っているハミルたちと違って、人々にとって魔王は、十年前に世界を脅かした存在でしかない。
その名がもう一度聞こえ始めた。しかも二つ。
『……広がってるね』
『噂とはそういうものだ』
『イルの時も?』
少し間があった。
『我の時は、噂で済むものではなかった』
短い答えだった。ハミルはそれ以上聞かなかった。
*
食事を終えて店を出ると、ソルガルトは市場の片付けをしていた老婆に声をかけられた。
「あんた、ちょっとそれ持ってくれないかい」
「これか?」
「そうそう。腰が痛くてねえ」
「任せろ!」
木箱を二つまとめて軽々持ち上げる。そのまま露店の裏まで運び、ついでに倒れかけていた天幕まで直し始めた。
「そこまでは頼んでないよ」
「曲がってると気になるだろ」
「変な兄ちゃんだねえ」
老婆は笑いながら、小さな焼き菓子を一つ渡した。ソルガルトは嬉しそうに受け取る。
さっきまで食堂では、第二の魔王の話をしていた。その本人が今、人間の露店を直して菓子をもらっている。ハミルは何とも言えない気持ちでその光景を見た。
「……何だ?」
戻ってきたソルガルトが聞く。
「いや」
「食いたいのか?」
「違うよ」
「じゃあ半分やる」
勝手に割って差し出される。
「だから違うって」
「いらねえのか?」
「……もらう」
受け取ると、ソルガルトが満足そうに笑った。
人間が好きなのだ。たぶん、思っていた以上に。
それなのに人々は、今のソルガルトを知らないまま、第二の魔王を恐れている。その噂がどこまで広がっているのか、ハミルはまだ知らなかった。




