初めての実戦
スターリットの森の中層に近い、岩場の広がる場所だった。
外縁の広場よりも木々は深く、朝の光は枝葉に細かく裂かれて地面に落ちている。
苔むした岩肌は薄い霧をまとい、ところどころに残る朝露が淡く光を返していた。
鳥の声は少ない。
風が吹くたびに葉は揺れるのに、森の奥のざわめきだけが遠く沈んでいる。
岩が点在する開けた空間で、ユーマは短めの鉄剣を握っていた。
木剣ではない。
ガレンのものより軽く、ユーマの体格に合わせて選ばれた剣。
それでも、腕に沈む重さは木剣とは違う。
刃がある。
その事実だけで、手のひらに汗が滲んだ。
少し離れた岩のそばで、ガレンは森の奥を見ていた。
「今日から実戦だ」
短い言葉だった。
けれど、その重みはこれまでの稽古とはまるで違った。
ユーマは喉の奥で息を整える。
「……分かった」
声は思ったより小さかった。
ガレンは振り返らない。
「相手は小型の異獣だ」
「異獣……」
「もとは普通の獣だ。だが、森の奥の濁りにあてられて変じている。獣と同じつもりで見るな」
剣を握り直した瞬間、あの夜に見た獣の赤い目が脳裏をよぎった。
息をしていた。
苦しそうに唸っていた。
それでも、こちらへ牙を向けてきた。
ガレンの声が続く。
「倒せると思った時だけ踏み込め」
「うん」
「怖いと思ったら下がれ。ただし、背中は向けるな」
「……うん」
「光は当てにするな」
その言葉に、服の下の青いペンダントを少しだけ意識する。
小川で守ってくれた光。
稽古で一瞬だけ体を突き動かした光。
けれど、今は静かだった。
「分かってる」
そう答えると、ガレンがようやくこちらを見た。
「よし、前を見ろ」
その瞬間、岩陰の向こうで草が揺れた。
低い唸り声。
ユーマは剣を構える。
岩の間から現れたのは、小型の猪に似た獣だった。
背は低い。
けれど、肩の筋肉は厚く、短い牙が左右に突き出ている。
灰色の毛皮は泥に濡れたように固まり、ところどころ黒ずんでいた。
目は赤く濁っている。
ただ怒っているのではない。
何かに追い立てられ、何かから逃げられないまま、こちらへ向かってくるような目だった。
足が、わずかに震えた。
「……来るぞ」
ガレンの声。
直後、異獣が地面を蹴った。
土が跳ねる。
思っていたより速い。
ユーマは息を呑み、剣を前に出した。
正面から受けるな。
足を動かせ。
体をずらせ。
ガレンに何度も言われたことが、頭の奥で弾ける。
横へ跳ぶ。
だが、少し遅い。
異獣の肩が、脇腹をかすめた。
「っ……!」
衝撃で体がよろめく。
踏みとどまった足が、湿った土を削った。
胸元が、熱を帯びる。
一瞬、体が軽くなりそうな感覚があった。
けれど、ユーマは奥歯を噛む。
頼るな。
まず、自分の足で。
踏み直した先で、異獣はすぐに向きを変えていた。
赤い目が、まっすぐこちらを捉える。
低く唸り、再び突っ込んでくる。
今度は、脚を見る。
蹄が地面を削る向き。
肩の沈み方。
突進の線。
「見ろ」
ガレンの声が短く飛ぶ。
ユーマは息を吐いた。
来る。
ぎりぎりで横へずれると、牙が空を切った。
肩のすぐ横を、荒い息が通り過ぎる。
今だ。
一歩踏み込み、横を抜けようとする異獣の脇へ短く突き込む。
刃が、毛皮を裂いた。
鈍い感触が腕に伝わる。
異獣が悲鳴を上げ、体を大きくよじった。
慌てて剣を引く。
熱いものが刃に絡み、指先が震えた。
「止まるな!」
ガレンの声が鋭く響く。
はっと顔を上げる。
異獣はまだ倒れていなかった。
傷を負いながらも、赤い目でこちらを見ている。
痛みに怯えた獣の目ではない。
痛みすら、どこか遠くへ追いやられているようだった。
「終わってねえ。構えろ」
ユーマは息を吸った。
手が震えている。
今、自分は斬った。
画面の中の敵ではない。
息をして、血を流すものを、自分の手で傷つけた。
胸の奥が重くなる。
けれど、異獣は待ってくれない。
再び突進してくる。
今度は少し動きが崩れていた。
傷のせいで、片側へ体重が流れている。
その隙が見えた。
足を引く。
岩の横へ誘う。
異獣が突っ込む。
牙が岩にかすり、わずかに体勢が乱れた。
そこへ踏み込んだ。
短く。
迷わず。
剣先を、異獣の首元へ入れる。
手応えがあった。
異獣の体が大きく震えた。
赤い目が、ほんの一瞬だけ揺れる。
それから、力が抜けるように崩れ落ちた。
地面に重い音が響く。
森が、急に静かになった。
ユーマは剣を構えたまま立っていた。
息が荒い。
肩が上下する。
手の震えが止まらない。
異獣はもう動かなかった。
黒ずんだ毛皮の隙間から、薄い靄のようなものがほどけていく。
それは、あの夜の獣の時よりずっと薄かった。
朝の光に触れると、すぐに消えていった。
「……終わった」
声に出して、ようやく実感が追いついた。
剣を下ろそうとして、腕が少し遅れる。
ガレンが近づいてきた。
倒れた異獣を見下ろし、それからユーマを見る。
「よくやった」
短い一言だった。
息を整えようとしても、うまくいかない。
「……倒した」
「ああ」
「俺が……」
「ああ」
ガレンは余計なことを言わなかった。
ただ、そこに立っていた。
ユーマは剣を見下ろす。
刃に血がついている。
その赤さが、朝の光の中でやけにはっきり見えた。
胸が少しざわつく。
嬉しいだけではなかった。
怖いだけでもない。
自分が一歩進んだことと、戻れないものに触れたことが、同時にそこにあった。
ガレンは倒れた異獣のそばに膝をついた。
その目は静かだった。
「こいつも、最初からこうだったわけじゃねえ」
ユーマは顔を上げる。
「普通の獣だったの?」
「たぶんな」
黒ずんだ毛皮を見ながら、ガレンは続けた。
「森奥の濁りにあてられたんだろう。小型だが、普通じゃねえ」
倒さなければならなかった。
それは分かる。
「……こいつも、好きでこうなったわけじゃないのかな」
ぽつりと呟くと、ガレンは少しだけユーマを見た。
「そう感じたなら、忘れるな」
「異獣は危険だ。向かってくるなら、斬るしかねえ」
ガレンは立ち上がる。
「だが、斬ったあとに何も考えなくなれば、ただの殺しになる」
息を呑む。
「こいつがなぜ変じたのか。森で何が起きているのか。それを見る目まで捨てるな」
ユーマは倒れた異獣を見つめた。
朝の光が、毛皮の上に落ちている。
黒い靄はもう消えていた。
残っているのは、ただ動かなくなった体だけだった。
「……分かった」
小さく頷いた声は、少し掠れていた。
ガレンの視線が、ユーマの剣へ落ちる。
「最後、迷いは少なかった」
「……最初は、迷った」
「迷うなとは言わねえ」
意外な言葉に、ユーマはガレンを見た。
「いいの?」
「何も感じなくなるよりはいい。だが、剣を振ると決めた瞬間だけは迷うな」
ガレンの声は低かった。
「その一瞬で、命を落とすこともある」
ユーマは唇を結ぶ。
「……うん」
ガレンの視線が、胸元へ向いた。
「光は」
「……少し、熱くなった。でも、出なかった」
「それでいい」
短く言って、ガレンは続けた。
「自分の足で避けた。自分の剣で斬った。今日覚えるのは、それだ」
ユーマは剣の柄を握り直した。
手のひらには、まだ痛みが残っている。
「……分かった」
森の風が、岩場を抜けていく。
霧が薄れ、朝の光が少しずつ広がっていた。
ユーマは倒れた異獣に向かって、小さく頭を下げた。
ガレンは何も言わない。
しばらくして、剣を鞘に戻した。
金具が、小さく鳴った。
帰り道。
ユーマはガレンの後ろを歩いていた。
鳥の声は戻っていた。
けれど、森の音は、来たときとは少し違って聞こえる。
剣の重み。
異獣の目。
刃に残った感触。
その全部が、まだ腕の奥に残っていた。
「ガレン」
「なんだ」
「俺、少しはやれてた?」
「初めてにしてはな」
「それ、褒めてる?」
「悪くなかった、ってことだ」
「……そっか」
ユーマは前を向いた。
勝てた。
けれど、簡単ではなかった。
光に頼ったわけでもない。
自分の足で動いて、自分の剣で届かせた。
それだけが、静かに胸に残っている。
「次は、もっとちゃんとできる」
ガレンは何も言わなかった。
ただ、歩く速度を少しだけ緩めた。
木漏れ日が、二人の背に落ちる。
ユーマは剣の重みを確かめながら、ガレンの背中を追った。




