光の術
スターリットの森の小川に、朝の光が差し込んでいた。
澄んだ水の底には、浅瀬の石がひとつひとつ透けて見える。
苔をまとった岩肌を木漏れ日が撫で、水面には細かなきらめきが揺れていた。
川辺にしゃがみ込み、ユーマは両手で石を並べていた。
魚を捕るための、小さな罠を作っているのだ。
流れの細い場所に石を組み、魚が入りやすい隙間を残す。
ガレンに教えられた通りにしているつもりだったが、思ったより難しい。
「そこは流れを読め」
岸辺に立つガレンが言った。
「水は嘘をつかねえ。無理に塞げば、すぐ形が崩れる」
「流れを読むって言われてもな……」
水面を覗き込むと、小さな泡が石にぶつかり、くるりと回って下流へ流れていく。
魚の影が一瞬だけ見え、すぐに岩の下へ消えた。
「えっと……こっちから来るから、ここを少し開けて……」
手探りで石を動かす。
冷たい水が指の間を抜けた。
小川の音は穏やかだった。
剣を振るときの乾いた音とは違い、耳の奥をやわらかく満たしていく。
最後の石を両手で持ち上げた。
思ったより重い。
けれど、これを置けば形になる。
そう思って一歩踏み出した瞬間、足元の濡れた石がつるりと滑った。
「っ……!」
両手で石を抱えていたせいで、とっさに手が出ない。
体が後ろへ傾く。
視界がぐらりと回り、水面と空が入れ替わった。
その瞬間。
胸元で、何かが強く脈打った。
服の下から、淡い青白い光が溢れる。
ユーマの体を包むように、薄い光の膜が広がった。
次の瞬間、後頭部が岩に打ち付けられる寸前で、光の膜が体を受け止めた。
衝撃は来なかった。
抱えていた石が腕から滑り落ち、川底にぶつかる。
鈍い音。
遅れて、水しぶきが頬にかかった。
気づけば、ユーマは浅瀬に尻もちをついていた。
すぐ後ろに、苔むした岩がある。
丸くはない。
角が出ている。
あのまま倒れていたら、後頭部を打ちつけていたかもしれない。
「……え」
震える手で、後頭部に触れる。
痛みはない。
濡れた髪に、水の冷たさだけが残っている。
光の膜は空気に溶けるようにほどけ、青白い粒となって消えていった。
胸元が、まだ少し温かい。
服の上からペンダントに触れると、青い石は静かに熱を残していた。
自分が何かをした感覚はなかった。
言葉を唱えたわけでもない。
祈ったわけでもない。
ただ、危ないと思った。
その瞬間に、光が出た。
「ユーマ!」
ガレンが水辺へ降りてくる。
その声は鋭かった。
肩を掴まれ、顔を覗き込まれる。
「怪我は」
「ない……と思う」
「頭は打ったか」
「打ってない」
ガレンはユーマの目を見た。
それから、濡れた髪や肩、膝を確かめる。
本当に怪我がないと分かって、ようやく手が離れた。
けれど、その表情は緩まない。
視線が、胸元へ向く。
「今の光は」
ユーマは小さく首を振った。
「分かんない」
嘘ではなかった。
「何かしたのか」
「してない。たぶん……勝手に出た」
そう言ってから、自分でも頼りない説明だと思った。
けれど、それ以外に言いようがない。
ガレンは黙ったまま、小川の流れを見た。
水は何事もなかったように、石の間を抜けている。
先ほどの青白い光は、もうどこにも残っていなかった。
「……そうか」
低い呟きには、安堵よりも警戒が混じっていた。
ユーマはガレンを見る。
「これって……術なのかな」
「分からん」
「分からんって、またそれ?」
「分からんものを、分かるとは言えねえ」
短い返事だった。
「少なくとも、俺の知ってる術とは違う」
「違う?」
「ああ」
ガレンの視線が、もう一度胸元へ落ちる。
「神官の祈りや術者の術は、世界に漂う力を借りて形にする。祈りも、型も、呼吸もいる」
ユーマは黙って聞いた。
「今のお前には、それがない」
「じゃあ、これは……」
「お前が出したというより、その石が反応したように見えた」
ペンダント。
服の上から青い石を押さえると、小さな温もりが指先に残っていた。
「守ってくれた……ってこと?」
ガレンはすぐには答えなかった。
森の葉が風に揺れ、光が水面に細かく散る。
「そう見えた」
短い答えだった。
この石は、やっぱりただの飾りではない。
母がくれたもの。
自分をこの世界へ連れてきたかもしれないもの。
そして今、自分を守ったかもしれないもの。
「……すごい!」
思わず、声が漏れた。
ガレンの目が少しだけ鋭くなる。
「浮かれるな」
ユーマは口を閉じた。
「今は助かった。だが、いつ出るか分からん力は、頼りにはならねえ」
「……うん」
「勝手に出る力は、勝手に出なくなることもある」
言葉を飲み込む。
今の光がなければ、後頭部を岩に打ちつけていたかもしれない。
でも、次も都合よく守ってくれるとは限らない。
ガレンは小川の石をひとつ拾い、崩れかけていた罠へ戻した。
流れの向きを見ながら、いくつかの石を手早く組み直していく。
ユーマも浅瀬から立ち上がり、水を含んだ靴を鳴らしながら岸へ上がった。
濡れた服が肌に張りつき、風が当たると少し身震いする。
さっきまで迷っていた罠の形は、ガレンの手で数息のうちに整っていった。
「……早いな」
「流れを見ろと言っただろ」
ガレンは濡れた手を軽く振り、水辺から上がる。
「まずは、自分の足で立て」
静かな声だった。
「石の力より先に、自分の体を信じられるようになれ」
ユーマは小さく頷いた。
「……分かった」
ガレンは一度だけこちらを見る。
「戻るぞ。体が冷える」
「……うん」
胸元のペンダントは、もう静かだった。
けれど、さっきの光の感触だけが、体のどこかに残っていた。
数日後。
スターリットの森の広場で、いつものように稽古が始まった。
朝の霧は薄く、木漏れ日が地面に細い線を描いている。
古木の枝から落ちた雫が、草の上で小さく光った。
ユーマは木剣を構える。
相手はガレンだった。
もちろん、本気ではない。
それでも、向き合うだけで空気が変わる。
ガレンの木剣が、静かに上がった。
「来い」
ユーマは息を吸う。
踏み込む。
突く。
ガレンの木剣が軽く動き、ユーマの剣先を外へ流した。
「足が遅い」
「分かってる」
「分かってるなら直せ」
歯を食いしばり、もう一度踏み込む。
今度は少し早く。
けれど、ガレンの足が半歩ずれるだけで、間合いが消えた。
木剣の先が、肩口へ向かう。
速い。
これまでなら、反応が遅れる距離だった。
間に合わない。
そう思った瞬間。
胸元が、熱を帯びた。
体が、ふっと軽くなる。
地面を蹴る感覚が、いつもよりはっきりと伝わった。
音が少しだけ遠くなる。
視界の端で、木漏れ日がゆっくり揺れたように見える。
ユーマは反射的に横へ跳んだ。
ガレンの木剣が、肩のすぐ横を抜ける。
「……!」
避けた。
今のは、自分でも分かった。
普段の自分なら、間に合わなかった。
数歩下がり、木剣を握り直す。
息が少し乱れていた。
「今の……」
胸元に熱が残っている。
ガレンは木剣を下ろさなかった。
表情も変えない。
ただ、目だけが鋭くなっていた。
「体が、軽くなった。足が勝手に動いたっていうか……」
「勝手に、か」
低い声だった。
「それを当てにするなと言ったはずだ」
「分かってる。でも今のは――」
「助かった、か」
ユーマは言葉を止めた。
その通りだった。
小川で転びかけたときと同じ。
危ないと思った瞬間に、光が反応した。
ガレンは木剣を肩に担ぐ。
「もう一度だ」
「え?」
「今の力なしで避けろ」
ユーマは目を見開く。
「いや、そんな急に」
「だからこそ、体に覚えさせる」
静かな声だった。
「考えるより先に動けるようになれ」
言い終えると同時に、ガレンが踏み込んだ。
木剣が走る。
慌てて足を動かした。
今度は光らない。
体も軽くならない。
足は重く、地面はいつも通り硬い。
「っ!」
避けきれず、木剣が肩に軽く当たった。
鈍い痛みが走る。
「痛っ……!」
「今のが本来のお前だ」
ガレンは淡々と言った。
「覚えておけ」
ユーマは肩を押さえ、唇を結ぶ。
悔しかった。
でも、納得もしていた。
光が出たときの自分と、出なかった今の自分。
その差が、はっきり分かってしまった。
「……もう一回」
木剣を構え直す。
ガレンの目が、少しだけ細まった。
「いいだろう」
稽古は続いた。
光は、それから出なかった。
何度も肩を打たれ、足を払われ、木剣を弾かれた。
それでも、ユーマは立ち上がった。
胸元のペンダントは静かだった。
まるで、最初から何もなかったように。
だからこそ、自分の足で動くしかなかった。
踏み込む。
外される。
下がる。
間に合わない。
打たれる。
また構える。
昼近くになって、ようやくガレンが木剣を下ろした。
「今日はここまでだ」
ユーマはその場に座り込んだ。
息が荒い。
肩が痛い。
腕も重い。
けれど、胸の中は妙に静かだった。
「……光、出なかったな」
ぽつりと呟く。
ガレンが水袋を投げてよこした。
受け取り、両手で口をつける。
水が喉を通っていった。
少し離れた切り株に腰を下ろしたガレンが、静かに言った。
「出ない方がよかった」
「なんで」
「出れば、お前はそれを自分の力だと思う」
言い返せなかった。
そう思いかけていた。
あの光があれば、もっと動ける。
もっと強くなれる。
そう考えた。
でも、光がなければ避けられないのなら、それは自分が強くなったわけじゃない。
さっき肩を打たれた痛みが、その答えだった。
ガレンは続ける。
「力があることと、強いことは違う」
短い言葉だった。
ユーマは水袋を下ろす。
「じゃあ、俺は……」
「まだ弱い」
即答だった。
少しだけ眉を寄せる。
「……はっきり言うな」
「曖昧にしても強くはならねえ」
ガレンは平然と言う。
「だが、昨日よりは動ける」
ユーマは顔を上げた。
「……本当?」
「ああ」
小さく頷いて、ガレンは続けた。
「光が出なかったあと、お前は自分の足で避けようとした。遅いが、見ようとはしていた」
それは褒め言葉なのか分からなかった。
けれど、少しだけ嬉しかった。
「遅いけど?」
「遅い」
「そこは変わらないんだ」
「事実だからな」
ユーマは苦笑した。
痛む肩を押さえながら、空を見上げる。
木々の隙間から、白い雲が流れていた。
胸元のペンダントは静かだ。
光はもう出ない。
けれど、そこにある。
何なのかは分からない。
なぜ自分を守るのかも分からない。
でも、ひとつだけ分かった。
これに頼るだけでは、ガレンの前には立てない。
森の獣からも、自分を守れない。
ユーマはゆっくり立ち上がった。
足元が少しふらつく。
それでも、木剣を拾う。
「明日もやる」
ガレンは少しだけ目を細めた。
「無理をしても身につかねえぞ」
「無理じゃない」
痛む肩を軽く押さえる。
「ちゃんと、明日も動ける」
ガレンはしばらく見ていた。
やがて、短く頷く。
「なら、明日だ」
ユーマは木剣を握り直した。
手のひらには、いつもの痛みがある。
胸元には、正体の分からない青い石。
そのどちらも、今の自分の一部だった。
けれど、剣を握っているのは、自分の手だ。
足を動かすのも、自分の体だ。
広場の端に吊るされた木の的を見る。
明日は、もう少し早く動く。
もう少し、相手を見る。
光が出ても、出なくても。
まずは、自分の足で。
森の風が、広場を抜けていく。
木漏れ日が揺れ、青い石は服の下で静かに沈黙していた。




