炉を囲む夜
治療所を出てしばらく歩くと、通りの先に小さな広場が見えてきた。
中央には石造りの炉があり、赤い火が静かに燃えている。
その向かい。
マレナが言っていた二階建ての宿は、すぐに見つかった。
入口の脇には薪が積まれ、開いた扉から温かな明かりが漏れている。
「ここですね」
セレスが扉を開けた。
中へ入ると、最初に目についたのは大きな炉だった。
低い石囲いの中で薪が燃え、ぱち、と乾いた音を立てている。
帳場にいた主人が顔を上げた。
「四人かい?」
「はい。二部屋お願いします」
セレスが答える。
主人は四人をざっと見回した。
灰と土で汚れた旅装。
裂けた袖の残るミラ。
顔色の戻りきらないリアと、どこか身体の重そうなレイ。
「……ずいぶんぼろぼろだな」
レイが苦笑する。
「まあ、いろいろあって」
「そうか」
主人はそれ以上は聞かず、帳面を開いた。
「二部屋なら空いてる。飯は?」
「お願いします」
「なら先に荷物を置いてきな。もうすぐ鍋ができる」
鍵を受け取り、四人はいったん二階へ上がった。
荷を置いて戻ってくると、主人が炉へ薪を一本加えているところだった。
炎が大きく揺れる。
主人は右手を胸元へ当て、炉へ軽く頭を下げた。
「旅人に火の守りを」
レイが足を止める。
「今のは?」
主人が振り返った。
「炉への挨拶だ」
「挨拶?」
「この土地じゃ、火を無言で使わない」
主人は炉へ目を向ける。
「飯を作るのも、身体を温めるのも、鉄を打つのも火がいる。だから借りる前に、一言置く。それだけさ」
レイも炉を見る。
アストラリスで見慣れた白い光とは違う。
赤く、揺らめき、熱を持つ火。
けれど、この町では特別なものではない。
人の暮らしのすぐそばで、当たり前のように燃えている。
「旅人に火の守りを……」
レイが小さく真似した。
主人が笑う。
「それで十分だ」
リアも炉へ向かって静かに頭を下げる。
セレスもそれに続いた。
ミラは少し遅れて、揺れる炎を見つめた。
治療所で見た、マレナの瞳がふと頭をよぎる。
琥珀色の奥で揺れていた、炉火のような明るさ。
目の前の炎にも、どこか似たものを感じた。
「ミラ?」
レイに呼ばれ、ミラは瞬きをする。
「なに?」
「いや。ずっと見てるから」
「……ちょっと珍しかっただけよ」
そう言って、ミラは炉から目を離した。
四人は火の近くの卓へ座った。
ほどなくして、湯気の立つ深皿が運ばれてくる。
豆と香草を煮込んだスープ。
薄く焼いたパン。
塩を利かせた根菜。
それから、香草と塩を擦り込んで炉で焼いた肉が、大皿に切り分けられていた。
表面にはほどよく焼き色がつき、脂がまだ小さく音を立てている。
豪華な食事ではない。
けれど、温かな匂いが鼻へ届いた途端、レイの腹がまた鳴った。
ミラが横を見る。
「さっきも鳴ってなかった?」
「仕方ないだろ。腹減ってるんだから」
「よくそんなに食べられるわね」
「ミラも食べた方がいいよ」
「食べるわよ」
レイはさっそく肉を一切れ取り、口へ運んだ。
「……うまい」
香草の香りと焼けた肉の脂が口の中に広がる。
続けてスープへ匙を入れる。
「熱いから気をつけな」
離れたところから主人の声が飛ぶ。
レイが返事をする前に、熱さに顔をしかめた。
リアが小さく笑う。
「もう遅かったみたいですね」
「熱っ……」
水を飲むレイを見て、ミラも笑った。
張り詰めていた空気が、少しずつほどけていく。
しばらくは、誰も話さず食事を進めた。
温かなものが腹へ落ちるたび、身体の奥に残っていた冷たさまで消えていくようだった。
やがて、ミラがパンをちぎりながら口を開いた。
「……ラミア」
その名前で、卓の空気が少し変わる。
レイが顔を上げた。
ミラは手元へ視線を落としたまま続ける。
「あの女、最初から私たちを試してたのよね」
「そうでしょうね」
セレスが答える。
「異獣をけしかけて、どう戦うかを見ていた」
リアも静かに言う。
「あの人自身は、ほとんど動きませんでした」
ミラの右手が止まる。
「せっかく目の前にいたのに、何も聞けなかった」
ガイのことを知っているかもしれない。
そう思って追いかけた。
けれど、ラミアまでたどり着くことすらできなかった。
ミラは左腕を見る。
毒は抜けた。
指も動く。
それでも、あの時に爪を受けた感触までは消えていない。
「次は、あそこまで行くわ」
ミラが顔を上げる。
「絶対に」
レイは炉の火を見ながら、あの灰霧を思い出した。
異獣。
ラミア。
そして、最後に放った白い斬撃。
「俺も、もっと強くなりたい」
三人の視線が集まる。
レイは続けた。
「最後に出たあの光も、まだ自分の技って感じじゃないし」
できた。
けれど、自由に使えるわけではない。
「ちゃんと使えるようになりたい。それに、もっといろんな技を覚えたい」
ミラが口元を緩める。
「レイらしいわね」
「そう?」
「強くなる話になると、急に元気になるもの」
レイは少し考える。
「……そうかも」
リアが小さく笑った。
「でも、今日は練習してはいけませんよ」
「分かってるって」
「マレナさんにも言われましたからね」
「明日もだよね」
「はい」
レイの肩がわずかに落ちる。
ミラが笑う。
「一日くらい我慢しなさいよ」
「ミラに言われたくない」
「私は右手なら――」
「今日は腕を休ませるように言われたでしょう」
セレスが静かに割って入る。
ミラが口を閉じた。
レイが吹き出す。
「何よ」
「いや、同じだなって」
「ふんっ」
ミラはパンを少し大きめにちぎった。
リアが笑いをこらえるように口元へ手を添える。
セレスは一口、温かい飲み物を口にした。
「二人とも、まずは明日きちんと休むことです」
「はい」
レイが答える。
ミラは返事の代わりに、スープへ匙を入れた。
しばらくして、リアが自分の掌へ視線を落とした。
「灰域では……あんなに術が使いにくくなるとは思いませんでした」
レイがリアを見る。
「《みなもと》が薄かったから?」
「はい」
リアはゆっくりとうなずく。
「いつもならすぐに集まってくるのに、あそこでは何度も引き寄せないといけなくて……」
途中から、身体が言うことをきかなくなった。
それでも、結界を止めるわけにはいかなかった。
ミラの毒も抑えなければならなかった。
リアは少しだけ指を握る。
「もっと、状況に合わせて力を使えるようにならないといけませんね」
セレスがリアを見る。
「それを考えるのは、身体が戻ってからで十分です」
「……そうですね」
「今日は全員、それでいいでしょう」
セレスの言葉に、レイが首を傾げる。
「それって?」
「反省は終わりです」
一瞬、三人が黙る。
セレスはいつもの落ち着いた表情のまま、スープへ匙を入れた。
「せっかく灰域を抜けたのです。今夜くらいは、温かい食事を食べて休みましょう」
ミラがふっと息を吐く。
「それもそうね」
レイも残っていたパンを取った。
「じゃあ食べよう」
「まだ食べるの?」
「まだあるし」
「元気ね」
リアが笑った。
炉の火が、卓の上を柔らかく照らしている。
薪が弾ける音。
食器の触れ合う音。
近くの卓から聞こえる旅人たちの笑い声。
外からは、時折、乾いた槌の音が響いてくる。
灰域にはなかった音ばかりだった。
ミラはふと、炉へ目を向けた。
赤い炎が、ゆっくりと揺れている。
また少しだけ、マレナの瞳を思い出した。
どうして気になったのか。
自分でも分からない。
ただ、見ていると妙に落ち着く。
「……変なの」
小さく呟く。
「何か言った?」
リアが尋ねた。
「何でもないわ」
ミラはそう言って、残っていたスープを飲んだ。
食事を終えるころには、外はすっかり暗くなっていた。
四人は主人へ礼を言い、二階へ上がる。
身体を横たえると、疲れはすぐに戻ってきた。
リアはほどなく眠りについた。
レイも、次に目を閉じた時には考える間もなく眠っていた。
ミラだけは、しばらく窓の外を眺めていた。
向かいの工房には、まだ火が残っている。
赤い光が窓の向こうで静かに揺れていた。
ミラはそれを少しだけ見つめてから、寝台へ戻った。
明日は一日、フェルナで休む。
その次の朝には、また旅が始まる。
火の町の夜は、遠く響く槌の音とともに、ゆっくりと更けていった。




