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エテルナ ―星の涙と帰る光―  作者: Takeko
第7章 火の位相へ
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灰霧のガルム

低い唸りが、灰霧の奥から響いた。


一つではない。


右。


左。


そして正面。


レイが鉄剣を抜く。


セレスもすぐに盾を前へ構えた。


「来ます」


霧の中で、いくつもの赤い光が揺れる。


次の瞬間。


灰色の巨体が、霧を裂いて姿を現した。


狼に似ている。


だが、大きさが違った。


肩の高さは人の胸ほど。


太い四肢の先には黒い爪が伸び、灰色の毛並みの隙間から、黒い靄が細く漏れている。


一頭。


少し遅れて二頭目。


さらに、その奥から三頭目が現れた。


「ガルム……?」


セレスの声に、迷いが混じった。


「知ってるの?」


ミラが双剣へ手をかける。


「以前、見たことがあります。ですが、あれほど大きくはありませんでした」


三頭の足元へ、セレスの視線が落ちる。


爪が土を掻くたび、石混じりの地面に深い筋が刻まれていた。


「あれほど長い爪も、黒い靄も……私の知るガルムにはなかったものです」


「異獣になったってことか」


レイが言うと、セレスは盾を持ち直した。


「おそらく。ただ、どこまで変わっているのかは分かりません」


女が呼び出した三頭は、すぐには襲ってこなかった。


四人を囲むように、ゆっくりと散っていく。


崩れた塔の脇では、女が変わらずこちらを見ていた。


逃げる様子もない。


ただ、楽しむように。


一頭が低く身を伏せた。


「来るわよ!」


ミラが双剣を抜く。


「リア!」


セレスの声に、リアが短杖を掲げた。


「ルミナスの光よ。揺らがぬ輪となり、我らの前に在れ」


短杖の先に白い光が集まり、四人の前へ結界が広がる。


その瞬間、リアはわずかに眉を寄せた。


――遅い。


いつもなら詠唱に応じて集まる《みなもと》が、なかなか届かない。


灰域では薄いと聞いていた。


歩いている時にも、それは感じていた。


けれど、実際に術を使うと、その違いは予想以上だった。


光の膜が広がりきる前に、正面のガルムが地を蹴った。


リアは短杖を向け、前方へ光を集める。


巨体が結界へぶつかった。


重い音とともに、白い膜が大きくへこむ。


「っ……!」


リアの腕へ、衝撃が伝わった。


止まらない。


黒い爪が光の表面を掻き、裂け目を押し広げようとしている。


セレスが盾を重ねた。


その足が、土の上を滑った。


「左右へ!」


レイとミラが跳ぶ。


二人が離れた直後、白い膜が砕けた。


セレスは盾を傾け、正面からの力を脇へ逃がす。


ガルムの牙が盾の縁を擦り、重い巨体が横を抜けた。


受け止めた腕が痺れている。


見たことのある獣の姿と、今の一撃が結びつかなかった。


セレスはすぐに向き直った。


「正面では受けきれません。足を止めないでください!」


ミラは左側のガルムへ向かっていた。


双剣を低く構え、一気に間合いを詰める。


いつもなら届く。


そう判断した。


だが。


「――っ?」


剣先が届かない。


ほんのわずか。


距離がずれていた。


ガルムの前脚が振り抜かれる。


ミラが身を引く。


遅れた。


黒い爪が左上腕を裂いた。


「っ!」


布が裂け、血が飛ぶ。


続けて牙が迫る。


その間へ、セレスの盾が割って入った。


鈍い音が響き、牙が盾の縁を噛む。


「ここでは感覚がずれます。いつもの間合いで踏み込まないでください」


セレスは盾を押し返しながら告げる。


「そう……わかったわ!」


ミラはすぐに後ろへ跳び、左腕の傷を一度だけ見た。


血は出ている。


だが、まだ動く。


双剣を構え直す。


――距離が違う。


頭では分かっていた。


だが、体がいつもの間合いで動いてしまった。


ガルムが盾から牙を離し、低く身を伏せる。


ミラは剣先ではなく、その足元を見た。


草が揺れる。


前脚が土を掻く。


短い呼吸。


「……そこね」


ガルムが跳んだ。


ミラは半歩だけ横へずれる。


牙が肩の横を抜けた。


すれ違いざま、右の剣を脇腹へ走らせる。


刃が毛皮を裂いた。


だが、浅い。


厚い筋肉に押し返され、思ったほど深く入らなかった。


ガルムは怯まず、着地と同時に身をひねる。


ミラは反撃の爪を避けて退いた。


さっきまで立っていた場所の土が、大きくえぐれる。


「一度じゃ、止まらないわね……!」


セレスが横へ動き、盾を打ち鳴らした。


ガルムの顔がそちらを向く。


ミラは追わなかった。


足音を聞く。


爪が土を掻く音。


脇腹を傷つけられ、荒くなった呼吸。


セレスへ向けて踏み出した前脚が、地面を押す。


「リア、前脚を!」


セレスの声に、リアが短杖を振った。


「光よ、道を塞げ!」


ガルムの足元へ、低い光の壁が立ち上がる。


前脚がぶつかった。


光はすぐに砕けたが、踏み込みが一瞬だけ乱れる。


セレスはその隙に横へ踏み出し、盾の縁でガルムの顎を押し上げた。


露わになった喉へ、ミラが飛び込む。


右の刃を、下から深く突き入れた。


手首へ重い抵抗が返る。


ミラは歯を食いしばり、踏み込んだ足で体を押し進めた。


ガルムの口から、潰れたような息が漏れた。


前脚が暴れる。


セレスがミラの肩を引き、二人で巨体の下から離れた。


ガルムは数歩よろめき、そのまま地面へ崩れた。


一頭。


ミラは剣を構えたまま、荒く息を吐いた。


だが、息を整える暇はなかった。


「レイ、右!」


セレスの声が飛ぶ。


残る一頭を牽制していたレイの横へ、霧の中から別の影が迫っていた。


姿を捉えるより先に、首筋が粟立つ。


右から来る。


考えるより先に、体が動いた。


レイは半歩身を引き、すれ違いざまに鉄剣を振り上げた。


刃が前脚を裂く。


黒い血が散った。


ガルムは着地でわずかに体勢を崩したが、倒れなかった。


すぐに四肢を踏ん張り、こちらへ向き直る。


レイは剣を握り直した。


硬い。


一撃で断てると思った脚には、まだ十分な力が残っている。


ガルムが低く唸った。


その向こうで、もう一頭が大きく回り込んでいく。


狙っているのは、リアだった。


セレスが間へ走った。


背後には崩れた石壁がある。


リアを残して横へ逃がす余地はない。


セレスは盾を構え、足を踏み込んだ。


直後、ガルムの巨体がぶつかった。


重い衝撃音。


「っ……!」


足が地面から浮く。


セレスは盾ごと弾き飛ばされ、背後の石壁へ叩きつけられた。


崩れかけた石が落ち、灰色の土煙が上がる。


「セレス!」


リアが駆け寄った。


セレスは脇腹を押さえたまま、息を詰めていた。


外套の下へ、じわりと血が広がる。


壁の突き出た石で、脇腹を裂かれていた。


立とうとする。


だが、すぐには体が動かない。


ガルムが向きを変えた。


「光よ、我が前に壁となれ!」


リアが短杖を突き出す。


二人の前へ白い壁が立ち上がった。


巨体がぶつかる。


光が大きく歪み、細い亀裂が走った。


リアは歯を食いしばり、周囲の《みなもと》を手繰り寄せる。


薄れたところへ、さらに光を重ねた。


腕が震える。


結界を保つだけで、息が苦しかった。


「レイ!」


ミラの声。


レイの正面で、脚を傷つけたガルムが地を蹴った。


一瞬だけ、気を取られていた。


牙が迫る。


レイは鉄剣を横へ構えた。


金属へ牙がぶつかる。


重い。


腕が押し込まれ、靴底が土を削った。


「くっ……!」


受け続けたら、押し倒される。


レイは膝を曲げ、剣を傾けた。


牙を滑らせながら、体を横へ逃がそうとする。


その横から、ミラが飛び込んだ。


狙ったのは、レイが傷つけた前脚だった。


右の剣を、同じ傷へ叩き込む。


ガルムの脚が折れ、巨体が傾いた。


牙の重みが外れる。


レイはすぐに剣を引き、露わになった首元へ振り下ろした。


刃が深く食い込む。


それでもガルムは身を起こそうとした。


レイは踏みとどまり、両手で柄を押し込んだ。


やがて巨体から力が抜ける。


剣を引き抜くと、ガルムは横倒しになり、そのまま動かなくなった。


二頭目。


レイは肩で息をした。


腕が重い。


ミラも左の剣を低く下げ、呼吸を整えている。


残る一頭は、まだ光の壁を掻いていた。


「こっちよ!」


ミラが声を張った。


レイも横から近づき、剣を構える。


二人が左右へ分かれると、ガルムは結界から離れた。


背後を取られないよう、低く唸りながら向きを変える。


その隙に、リアはセレスの前へ膝をついた。


「今、治します」


「周囲を……」


「レイたちが止めてくれています」


短杖を脇腹へ向ける。


白い光が少しずつ集まった。


いつもなら自然に届くはずの《みなもと》を、遠くから一つずつ手繰り寄せるようだった。


額から汗が落ちる。


それでもリアは、光を途切れさせなかった。


血が止まり、裂けていた傷が閉じていく。


さらに光を重ねると、打ちつけた脇腹の奥へ、温かさが広がった。


詰まっていた息が、ゆっくりと通る。


セレスは慎重に身を起こした。


脇腹へ触れ、深く息を吸う。


先ほどの鋭い痛みは、ほとんど消えていた。


「もう大丈夫です。ありがとうございます」


リアが短杖を下ろした。


返事をしようとしたが、息が続かない。


立ち上がりかけた体が揺れる。


セレスはその腕を支え、盾を拾った。


「少し、私の後ろへ」


リアが頷く。


セレスは二人を守る位置へ戻った。


残るガルムの向こうには、レイとミラがいる。


四人とも息が乱れていた。


ガルムは左右を見回した。


倒れた二頭へ鼻先を向け、それから一歩下がる。


さらに一歩。


「逃げる?」


ミラが呟いた。


ガルムの耳が伏せられる。


こちらへ向かう気配が消えた。


灰霧の中へ退こうと、体を反転させる。


レイは追わなかった。


追えるほどの余力もない。


その時。


崩れた塔の脇に立つ女が、ゆっくりと指先を動かした。


ほんの小さな動きだった。


ガルムの体が止まる。


「……?」


レイが目を細めた。


四肢が震えている。


逃げようとするように、前脚が土を掻いた。


だが、首だけが不自然にこちらへ向く。


「何を……」


ミラの表情が変わった。


女の指が、もう一度動く。


ガルムの体が無理やり反転した。


爪が土へ食い込み、口から苦しげな声が漏れる。


それでも、その脚は一歩ずつ四人の方へ向けられていった。


「まさか……あの女が操っているのですか?」


セレスが低く呟いた。


毛並みの隙間から滲んでいた黒い靄が、急に濃くなる。


背中。


脚。


首。


灰色の毛を覆うように、全身へ広がっていった。


赤い目が、さらに深く濁る。


ミラが女を睨んだ。


女は微笑んだままだった。


「下がってください!」


セレスがリアの前へ盾を構える。


ガルムが地面を蹴った。


向かう先は、レイではない。


リアとセレスだった。


「光よ、我が前に壁となれ!」


リアが短杖を突き出す。


白い壁が立ち上がる。


だが、光が集まりきる前に、黒い巨体が迫った。


レイは離れた位置にいた。


一歩、走る。


間に合わない。


セレスが盾を構える。


ミラも追いすがろうとしたが、ガルムはすでにその間合いを抜けていた。


リアの結界はまだ薄い。


あれでは止められない。


レイは足を止めた。


その瞬間。


ノースライトの地下聖堂で、剣に宿った光が頭をよぎる。


あの光を、刃から放てたら。


剣が届かない場所にも、届かせられるのではないか。


レイは離れた先のガルムを見据えた。


胸元の石が強く光る。


そこから流れ込んだ《みなもと》が腕を駆け上がり、鉄剣へ流れ込んだ。


白い光が刃を包む。


レイは両手で柄を握った。


腕の重さが遠のく。


力が集まってくる。


その光が刃を離れ、ガルムの首へ届く姿を思い描いた。


振り抜く剣の、その先へ。


「――っ!」


鉄剣を振り抜いた。


刃から、白い光が離れる。


細い弧を描き、灰霧を切り裂いていった。


一瞬だった。


ガルムが結界へ届く直前。


白い斬撃が、その首を横切った。


巨体が地面へ落ち、勢いのまま土を削って滑る。


セレスはリアを庇い、盾を傾けた。


飛び散った土と石が、盾の表面を叩いた。


遅れて、首が落ちる。


黒い靄が、ほどけるように霧へ溶けていった。


レイの剣から光が消えた。


柄を握った指が、すぐには開かない。


息を吸う。


膝がわずかに折れ、レイは足を踏み直した。


三頭とも倒した。


それなのに、剣を下ろしてよいとは思えなかった。


霧の向こう。


崩れた塔の脇には、まだ女が立っていた。


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