灰域に立つ女
昼を過ぎたころ、街道の先で灰霧が濃くなった。
道は続いている。
だが、遠くの輪郭が白く霞み、石も草も近づくまで形を結ばない。足音さえ、少し遅れて聞こえるようだった。
ミラが歩みを緩め、古図を取り出す。
「この辺りね」
「何が?」
レイが隣から覗き込む。
ミラは古図に描かれた小さな印を指した。
「昨日見つけた、崩れた石造りの施設。今の街道から、そう離れてないはずよ」
セレスが霧の向こうへ目を凝らす。
「方角は合っています。そのまま進みましょう」
四人は足元を確かめながら進んだ。
しばらくすると、街道の右手に低い丘が現れた。
円形に残る石の土台。
半ば崩れた塔。
風雨に削られた壁。
灰霧の中に沈む姿は、建物というより、地面から突き出した古い骨のようだった。
「……あれでしょうか」
リアが短杖を握り直す。
ミラは古図と見比べ、うなずいた。
「たぶん、あれだわ」
手にしていた赤い守り印が、かすかに熱を帯びた。
ミラが目を落とす。
「今……」
言い終える前に、レイは顔を上げた。
崩れた塔の脇に、人が立っていた。
さっきまで、そこには何もなかった。
霧の流れが途切れた一瞬に、最初からそこにいたように姿を現したのだ。
長い黒髪。
灰色の景色から浮き上がる白い肌。
身にまとう闇色の衣は風に揺れず、周囲の霧だけが足元へ吸い寄せられている。
女は笑っていなかった。
ただ、こちらを見ていた。
正確には――レイだけを。
ミラが一歩出ようとする。
「誰――」
「待ってください」
リアの声が、その足を止めた。
いつもより硬い声だった。
レイが振り返る。
「リア?」
リアは女から目を離さない。
「分かりません。でも……近づいてはいけない気がします」
理由を探しているような言い方ではなかった。
自分でも説明できない感覚を、そのまま口にした声だった。
レイはもう一度、丘の上を見る。
敵意は感じない。
武器も持っていない。
それでも、体の奥が警告していた。
あれは、良くないものだ。
鉄剣の柄へ手をかける。
隣で、セレスが細長い盾を構えた。
レイたちを守る位置へ出て、女へ鋭い視線を向ける。
「何者だ?」
女はようやくセレスを見た。
けれど、その目にはほとんど興味がない。
「あなたに用はないわ」
視線が再びレイへ戻る。
「私は、光の使徒と話がしたいの」
レイは柄を握ったまま問い返した。
「なぜ、それを知っている」
「あら」
女の唇に、初めて笑みが浮かぶ。
「あなた、もうとっくにこっちでは有名人よ」
甘い声だった。
だが、その奥に温かさはない。
「光承の儀を越え、ルミナスに認められた光の使徒。星の涙に似た光を放つ石を持つ少年」
胸元の石が、かすかに熱を持った。
女の目は、その変化まで見透かしているようだった。
「見に来たくもなるでしょう?」
「見に来た?」
「ええ。あなたが無彩域でどれだけ動けるのか、興味があったの」
セレスの盾が少し持ち上がる。
「無彩域……?」
「私たちは、ここをそう呼んでいるわ」
女は答えたが、それ以上の説明はしなかった。
レイは女を見返す。
「俺たちのことを、どこまで知ってる」
「さあ」
女は楽しげに首を傾げた。
「少なくとも、あなたの名前はまだ知らないわ」
「名前?」
「光の使徒では呼びにくいもの」
女は一段低い石へ足を移した。
その動きに合わせて、霧が裾をなぞる。
「教えてくれるかしら?」
セレスが横目でレイを見る。
止めるべきか迷ったのだろう。
だが、レイは女から視線を外さなかった。
名を隠しても、この女が引き下がるとは思えない。
ならば、偽る必要もなかった。
「レイ」
灰色の空気を押すように、はっきりと告げる。
「俺の名前は、レイだ」
女の瞳が、ほんの一瞬揺れた。
眩しいものを見たように。
それはすぐ、妖しい笑みの奥へ隠れた。
「レイ」
確かめるように、その名を口にする。
「いい名前ね」
「今度はそっちの番だ」
レイは問い返した。
「おまえは何者だ」
「それは、もう少し後で教えてあげる」
女の笑みが深くなる。
ミラは古図をしまい、双剣へ手を伸ばしていた。
「ずいぶん勝手ね」
「あら。そうかしら」
女はミラへ一度だけ目を向け、すぐにレイへ戻した。
「初めまして、レイ。光の使徒」
丘の上を流れていた霧が、ゆっくりと沈み始める。
灰色の草の間から、いくつもの黒い影が伸びた。
リアが短杖を構える。
セレスも盾の角度を変えた。
女はその反応を眺めながら、楽しそうに微笑んだ。
「本当は、観測だけのつもりだったのだけれど」
霧の奥から、低い唸り声が響く。
一つ。
続いて、二つ。
さらにもう一つ。
女は唇に指を添えた。
「でも……やっぱり少し遊んであげたくなったわ」




