緩衝地帯
翌朝、四人はアルヴァの南門へ向かった。
まだ朝の空気は冷えていたが、町の内側にはすでに荷車の音が響いていた。石畳を軋ませる車輪の音。商人たちの呼び声。焼きたてのパンと香草の匂い。
南門の前では、ハルトが数人の駐留兵とともに待っていた。
「この先の南西街道に新しい報告はありません」
ハルトはセレスへ向けて、簡潔に告げた。
「ただ、昨日お伝えした通り、古い監視塔を越えたあたりから熱風が強まることがあります。獣の群れにも、引き続き注意を」
「承知しました」
セレスが短くうなずく。
ハルトはそこで、レイたち一人ひとりへ視線を向けた。
「ここから先は、アルヴァの巡回も頻繁には届きません。どうかお気をつけて」
レイはうなずいた。
「ありがとうございます」
ハルトは軽く手を上げた。
その背後で、アルヴァの白い外壁が朝日に照らされている。
レイたちは門をくぐった。
町の賑わいを背にして、南西街道へ出る。
門を離れるにつれて、町の音は少しずつ遠ざかっていった。
荷車の軋みも、商人たちの声も、石畳を踏む足音も、風の中に薄れていく。
やがて、道の両側に広がる草地の色が変わり始めた。
最初は、ほんのわずかだった。
緑の中に、灰を混ぜたようなくすみがある。
土の色も、石の表面も、どこか乾いて見えた。
空は晴れている。
けれど、遠くの景色だけが薄い布をかけられたようにぼやけている。
リアが短杖を胸元へ寄せた。
「ここから先が、緩衝地帯……ですね」
「はい」
セレスは周囲を見ながら答えた。
「異なる位相のあいだに広がる土地です。その中でも、特に位相の色が薄い場所を、旅人は灰域と呼んでいます」
「灰域……」
レイはその言葉を小さく繰り返した。
目の前の景色には、確かにその呼び名が合っていた。
色が消えたわけではない。
草は草の色をしている。
空は空の色をしている。
けれど、すべてが少しずつ薄い。
誰かが世界の上から、色を一枚だけ剥がしたようだった。
道端には、古い祈り柱が立っていた。
石の表面には星の紋が刻まれている。
だが、アルヴァまでの街道で見たものよりも、その輪郭は浅く、風雨に削られていた。
柱の根元には小さな祈り花が供えられていたが、数は少ない。
花びらも、どこか色が淡かった。
リアが祈り柱の前で足を止める。
短く目を伏せ、静かに祈りを捧げた。
レイも自然と足を止めた。
ミラは周囲を警戒しながら、古図を取り出す。
「まだ街道上よね」
「ええ」
セレスがうなずく。
「ここは完全に危険地帯というわけではありません。交易や巡礼に使われる道でもあります。ただし、神殿の加護は薄くなります」
「薄くなるって、こういう感じなのね」
ミラは空を見上げた。
「嫌な場所、というより……落ち着かないわ」
レイも同じように感じていた。
怖いわけではない。
足がすくむほどの危険を感じているわけでもない。
けれど、胸の中にあった旅の高揚が、薄い霧をかけられたようにぼやけていく。
アルヴァを出るときには、新しい土地へ向かう期待があった。
火の位相。
赤灰の谷。
フレイラの名。
それらを自分の目で見るのだと思うと、自然と足が前へ出た。
だが、ここではその気持ちの輪郭さえ少し鈍る。
まるで、この土地そのものが、心の色まで薄めているようだった。
「レイ」
リアが小さく呼んだ。
「大丈夫ですか?」
「ああ」
レイは胸元の星の涙に触れた。
石は冷たくも熱くもない。
ただ、確かにそこにあった。
「少し変な感じがするだけだ」
「私もです」
リアは短杖を握り直す。
「祈りが届かないわけではありません。でも、いつもより遠い気がします」
セレスが足を止めずに言う。
「灰域では、感覚を頼りすぎないでください。距離も、音も、普段と少しずれることがあります」
「それ、戦うときに厄介ね」
ミラが眉を寄せる。
「かなり厄介です」
セレスは淡々と答えた。
「だからこそ、無理に踏み込まないこと。見えているものだけを信じすぎないこと。異変を感じたら、すぐに共有してください」
「了解」
ミラは軽く息を吐き、古図を畳んだ。
「まあ、分かりやすく危ない場所よりは、こういう場所の方が面倒なのよね」
その言葉に、レイは苦笑しかけた。
けれど、すぐに表情を引き締める。
道の先に、灰色の霧が薄く流れていた。
霧というには淡く、霞というには重い。
それは地面から湧いているようにも、遠くから流れ込んでいるようにも見えた。
風が吹く。
草が揺れる。
けれど、その音はいつもより弱かった。
ミラが小さくつぶやく。
「音まで薄いのね」
「はい」
リアも周囲へ目を向けた。
「静かすぎます」
街道そのものは、まだ続いている。
足元には車輪の跡もあり、人が通った形跡も残っていた。
だが、その道の先にあるものは、アルヴァまでの街道とは明らかに違っていた。
レイは一度だけ振り返った。
白い壁に囲まれたアルヴァは、もう遠い。
町の輪郭は薄い灰色の空気に滲み、やがて景色の中へ溶けていく。
戻れないわけではない。
けれど、戻るために来たのではない。
レイは前を向いた。
「行こう」
短く告げると、セレスがうなずいた。
ミラも、リアも足を進める。
四人は灰色の霧が流れる南西街道を進んだ。
火の位相へ向かう道は、すでに灰域の中へ入り始めていた。




