交易都市アルヴァ
門をくぐると、町の空気が一気に近くなった。
石畳を行き交う荷車の音。
商人たちの呼び声。
荷を運ぶ人々の足音。
焼きたてのパンと、乾いた香草の匂い。
アルヴァは、神殿の町とは違っていた。
白い石壁や低い屋根の並びには、まだルミナスの加護を受ける土地らしい穏やかさがある。けれど道の両側には露店が並び、布地、乾燥果実、旅具、工具、香草の束が所狭しと置かれていた。
神殿に近い町の静けさとは違う。
ここには、人と物が行き交うことで生まれる熱があった。
レイは思わず周囲を見回した。
「すごいな……」
「交易都市ですからね」
セレスが前を見たまま答える。
「神殿から来る荷も、南西から戻る隊商も、いったんここに集まります」
リアは通りの一角に立つ白い石柱に目を向けた。
細かな星紋が刻まれ、その足元には小さな祈り花が供えられている。
「祈り柱も、きちんと手入れされています」
「アルヴァまでは巡礼路が保たれていますから」
セレスは短くうなずいた。
「ここはまだ、ルミナス様の加護下です」
その言葉を聞きながら、レイは白い石柱を見上げた。
確かに、空気の奥には神殿に近い穏やかな光が残っている。
けれど同時に、その光の中へ、外の土地の匂いが少しずつ混じっているようにも感じた。
広場へ向かう途中、ひとりの騎士が通りの向こうから歩いてきた。
三十代半ばほどの、日に焼けた顔立ちの男だった。きちんと整えられた装備の肩には、アルヴァ駐留隊を示す紋がある。
男はセレスの前で足を止め、背筋を正した。
「セレス殿。アルヴァ駐留隊隊長、ハルトです」
セレスも静かに視線を返す。
「到着の報告は門で済ませました。短期滞在となります」
「承知しております」
ハルトは一礼した。
「宿と補給の手配はすぐに整えます。南西街道についても、昨夜までの報告をまとめてあります」
「聞かせてください」
「街道そのものに大きな異常はありません。ただ、古い監視塔を越えたあたりから、最近は乾いた熱風が吹くことが増えています」
ミラの目が、わずかに動いた。
「熱風?」
「ええ」
ハルトはうなずく。
「まだ異常と断じるほどではありません。ですが、隊商の中には、獣の群れが少し落ち着きを失っていると話す者もいます。小型のものが、妙に人里近くまで寄ることがあるようです」
セレスの表情は変わらなかった。
「被害は?」
「今のところ、軽傷が数件です。荷を荒らされた隊商もありますが、命に関わるものはありません」
「分かりました。引き続き警戒を」
「はっ」
ハルトはもう一度深く頭を下げた。
そのやり取りを見ながら、レイはアルヴァがただ賑やかなだけの町ではないのだと感じた。
ここは、神殿の加護が届く場所。
けれど同時に、その外側から来る変化を最初に受け止める場所でもある。
四人はまず宿を確保し、荷を下ろした。
その後、セレスの案内で補給のために広場へ向かった。
厚手の水袋。
乾燥肉。
保存の利く豆。
火打石。
結び紐。
野営用の薄布。
応急用の薬草。
セレスは品をひとつずつ確かめながら選んでいく。
「アルヴァを出れば、次の補給まで間が空きます」
「水は多めですか?」
リアが尋ねる。
「ええ。ここから先は乾いた土地が増えます。重くなりすぎない範囲で持ちましょう」
リアはうなずき、薬草や包帯を丁寧に確かめた。
「傷薬も少し増やしておきます」
「お願いします」
その隣で、ミラは別の露店の前に足を止めていた。
古い紙片や木板、写し書きされた地図が乱雑に積まれている。
「……これ、南西街道の古図?」
店主の老人が顔を上げた。
「おや、分かるのかい」
「今の街道じゃないわね。線が古い」
ミラは紙面を覗き込む。
羊皮紙には、現在の街道よりもさらに古い道筋がいくつも描かれていた。
途中には、小さな印がある。
監視塔。
中継所。
崩れた石造りの施設。
レイも横から覗き込んだ。
「これ、今も残ってるのか?」
老人は肩をすくめた。
「残ってるものもあれば、崩れたものもある。昔はもっと南まで人の行き来があったらしいが、今じゃ使われなくなった道も多い」
ミラは古図から目を離さなかった。
「星刻文明の頃の道かもしれない」
その声には、いつもの軽さとは違う熱があった。
禁書庫で見た巨大な都市。
導管。
星の涙のレプリカ。
あれほど遠い記録だと思っていたものが、こうして街道の上にも痕跡を残している。
ミラはしばらく考え、それから顔を上げた。
「これ、譲ってもらえる?」
老人は少し笑った。
「旅に持っていくには、あまり役に立たん古図だぞ」
「そうでもないわ」
ミラは即座に答えた。
「古いものほど、今の道にはないものを教えてくれることがあるから」
老人は目を細めた。
「なら、持っていきな」
ミラは礼を言い、古図を買い取った。
レイはその横顔を見ながら、少しだけ笑った。
「楽しそうだな」
「そりゃそうよ」
ミラは古図を筒状に巻きながら言った。
「千年前の道が、今の街道の下に残ってるかもしれないのよ。気にならない方がおかしいでしょ」
「そういうものか」
「そういうもの」
きっぱりと言い切るミラに、レイは思わず笑った。
昼を少し過ぎたころ、四人は広場の端にある小さな食堂へ入った。
石壁の中は外よりひんやりとしていて、旅人や隊商の者たちが低い声で言葉を交わしている。
運ばれてきたのは、香草を入れて煮込んだ豆のスープと、焼きたての平たいパンだった。
湯気が立ち上り、歩き続けた体にじんわりと染みる。
「おいしい」
レイが素直に言うと、ミラが得意げに笑った。
「こういう町の食堂って、外れが少ないのよ」
「なぜですか?」
リアが少し首を傾げる。
「旅人が多いから。まずい店はすぐ噂になるもの」
「なるほど……」
リアが妙に真面目にうなずいたので、レイは少し笑いそうになった。
そのとき、店の奥から笑い声が聞こえた。
隊商の男たちが数人、荷を下ろして食事を取っている。
そのうちのひとりが、ふと顔を上げた。
黒に近い赤褐色の髪。
陽に焼けた肌。
そして、光の角度で揺れる瞳。
虹彩の奥に、赤金の細い光が走った。
ミラの視線が止まる。
ほんの一瞬だった。
けれど、その色を見た瞬間、胸の奥に小さな熱が灯った気がした。
禁書庫で火の位相が開示されたとき、瞳の奥に残ったあの熱。
それと少し似ている。
「ミラ?」
レイが小さく声をかける。
ミラはすぐに視線を戻した。
「ううん。なんでもない」
そう言いながらも、その瞳の色だけが妙に心に残った。
赤金。
火の奥で揺れるような光。
理由は分からない。
けれど、見覚えがないはずなのに、まったく知らないものとも思えなかった。
食事を終えたあと、リアは広場の祈り柱へ向かった。
旅人たちが出発前に短く祈りを捧げる場所らしく、白い石柱の周囲には小さな花や布片が供えられている。
リアはその前で静かに手を重ねた。
レイは少し離れて見守った。
朝夕の祈りを欠かさないこと。
タニヤの言葉を、リアはきちんと守っている。
けれどその横顔には、神殿にいるときとは少し違う緊張があった。
ここはまだルミナスの加護下。
それでも、神殿そのものではない。
リアもまた、外の土地で自分の祈りを確かめているのかもしれない。
夕方近く、ミラは広場の露店をひとりで見て回っていた。
古い書板、割れた陶片、旅の護符、隊商が持ち帰った小物。
その中に、焼けたような赤い紋が刻まれた木板があった。
炎にも見える。
だが、ただ燃え上がる形ではない。
ゆっくりと内側で揺らぐ熱のような紋。
ミラは思わず足を止めた。
「それ、南の守り印だよ」
店番の老女が言った。
ミラは木板から目を離さずに尋ねる。
「南の?」
「赤灰の谷の向こうで使われている古い印さ。隊商の中には、谷へ入る前に持っていく者もいる」
「赤灰の谷……」
ミラは小さく繰り返す。
老女は、皺の深い目を細めた。
「あのあたりには、火の精霊フレイラにまつわる話が残っている」
その名を聞いた瞬間、ミラの胸の奥がかすかに熱を帯びた。
「……フレイラ」
「熱の底に眠る、古い火の守り手さ」
老女の声は、まるで昔話を語るように低かった。
「南を行く者は、無事に戻れるようにその名を口にする。もっとも、今の若い者は、ただの古い言い伝えだと言うけどね」
ミラはしばらく木板を見つめていた。
フレイラ。
初めて聞く名のはずなのに、なぜかすぐには離れていかない。
「これも、買える?」
「もちろん」
老女は小さく笑った。
「気になるなら持っておいき。古い印は、必要な者のところへ行くものだ」
ミラは代金を払い、木板を受け取った。
手のひらに乗るほどの小さなものだった。
ただの木片だ。
そう思おうとした。
けれど、指でなぞった赤い紋は、ほんのわずかに温かい気がした。
夜になり、四人は宿の一室に集まった。
窓の外では、まだ町のざわめきがかすかに残っている。
ミラが昼に買った古図を広げた。
「南西街道はこのまま続く。ここから先は、いくつか古い中継跡があるみたい」
セレスが地図を覗き込む。
「ハルト隊長の報告にあった監視塔も、このあたりでしょう」
「この印、今の地図には載ってないわね」
ミラが指先で古図の一点を示す。
「使われなくなった施設かもしれない」
レイはその印を見つめた。
禁書庫で見た記録。
それが今、古図の小さな印として目の前にある。
不思議な感じがした。
「明日は早く出ましょう」
セレスが言った。
「アルヴァを越えれば、光の位相の外へ出ます。水と食料の確認も済ませておきます」
リアがうなずく。
「アルヴァから先は、もう光の位相の外へ出ていくのですね」
「ええ」
セレスは静かに答えた。
「ここから先は緩衝地帯です。ルミナス様の加護も、祈り柱も少しずつ薄くなっていきます」
その言葉に、部屋の空気が少しだけ静かになった。
レイは窓の外へ目を向けた。
アルヴァの夜は穏やかだった。
まだルミナスの加護は、この町を包んでいる。
けれど、その穏やかさの向こうから、乾いた風が近づいている。
火の位相。
赤灰の谷。
フレイラ。
今日知ったばかりの名が、夜の静けさの中でゆっくりと重なっていく。
ミラは古図の端を押さえたまま、黙って小さな木板を見つめていた。
赤い紋は、灯火の揺れに合わせて、ほんの少しだけ色を深めたように見えた。




