南西街道
翌朝、アストラリス神殿はいつもと変わらぬ静けさに包まれていた。
白い石の回廊に朝の光がやわらかく差し込み、遠くでは鐘の音が澄んだ空気の中へ溶けていく。
けれどレイには、昨日までと同じ景色には見えなかった。
禁書庫で見たもの。
星の涙。
六つの位相。
外から流れ込むわずかな乱れ。
そして、光だけでは届かない領域。
その断片が、まだ胸の奥に残っている。
四人はその最初の手がかりとして、火の位相へ向かう。
まず目指すのは、南西の交易都市アルヴァだった。
出立の前、神殿の白い石段の上で、セレスが地図を広げた。
「まずはアルヴァへ向かいます」
落ち着いた声だった。
「街道は整っており、宿場や水場もあります。三日ほどの道のりで、そこまではルミナス様の加護下にあります」
リアが静かにうなずく。
「アルヴァまでは、祈り柱も巡礼路も保たれていますね」
「ええ」
セレスは短く答えた。
「ですが、アルヴァから先は少しずつ土地の気配が変わります。まずはあそこで補給を整え、その先の情報を集めましょう」
ミラが腕を組んだ。
「交易都市なら、火の位相側から来る人もいそうね」
「その可能性はあります」
セレスは地図を畳んだ。
「まずは実際の道を確かめることです」
レイはその言葉を聞きながら、胸元の星の涙にそっと触れた。
禁書庫で感じた微かな温もりは、まだ完全には消えていない。
あの揺らぎがどこへ続いているのか――それはまだ分からない。
けれど、確かにどこかへ続いている。
「……行こう」
そのひと言で、四人は石段を下り始めた。
朝の空気は澄んでいた。
背後ではアストラリス神殿の白い尖塔が高く空へ伸び、その足元から南西へ街道がまっすぐに続いている。
白い石畳は陽光を受けて淡く輝き、道の両側にはやわらかな草地が広がっていた。
遠くでは羊を追う人影が見え、小さな集落の屋根からは細い煙が立ちのぼっている。
井戸端で水を汲む人々が四人に気づき、自然に会釈を返した。
胸元の神殿の紋が、それだけで旅の素性を伝えていた。
レイは歩きながら、胸の奥が少しずつ弾んでいくのを感じていた。
南西へ続く街道。
まだ見たことのない交易都市。
その先にあるという、火の位相の土地。
禁書庫で見たものは重かった。
分からないことも多い。
けれど、それでも――知らない場所へ向かっているというだけで、足取りは自然と軽くなる。
アルヴァはどんな町なのだろう。
火の位相から来る人たちは、どんな話を聞かせてくれるのだろう。
そう考えると、目の前に続く街道が、どこまでも先へ伸びているように見えた。
その日の昼頃、街道脇の木陰でひと息入れた。
セレスは水袋の残りを確かめ、荷の結び目をひとつずつ見ていく。その動きには相変わらず無駄がない。
「今日はこの先の宿場まで進みます」
ミラが腰を下ろしながら言った。
「思ったより歩くのね」
「アルヴァまではまだ二日ほどあります」
セレスが答える。
「ですが、街道はよく整えられています。無理のない行程です」
リアは小さく空を見上げた。
「……たしかに、まだ神殿の空気が残っています」
風は穏やかで、光もやわらかい。
そこにはまだ、ルミナスの加護の気配が確かにあった。
一日目の夜は、小さな宿場で休んだ。
石造りの簡素な建物だったが、旅人のための水場と寝床が整えられていた。
神殿に近い土地らしく、夜になっても空気にはどこか穏やかさが残っている。
食卓を囲みながら、ミラが小さく笑った。
「なんだか、旅に出たって感じがしてきた」
リアはきちんと背筋を伸ばしたまま答える。
「まだ始まったばかりです。気を緩めるのは早いです」
「そういうところ、ほんと変わらないわね」
ミラの言葉に、レイが思わず笑った。
リアが少しだけ頬を染める。
その様子を見ていたセレスが、静かに口を開いた。
「まだルミナス様の加護下ですから、大きな危険はありません」
一拍置いて、続ける。
「ですが、明日も朝は早いです」
その声はいつもどおり落ち着いていたが、どこか少しだけやわらかかった。
二日目も、旅は穏やかに続いた。
昼はよく晴れ、風はやさしく草原を渡っていく。
街道には荷車を引く商人や巡礼者の姿があり、小さな集落をいくつも通り過ぎた。
そのたびに井戸や水場があり、人々の暮らしの気配があった。
ミラは道の脇に残る古い石組みに目を止めることが多かった。
「……これ、ずいぶん古いわね」
「星刻文明の頃の街道跡かもしれません」
セレスが答える。
「今も基礎として使われています」
レイは足元の石畳を見下ろした。
自分たちは、千年も前の人々が築いた道を歩いているのかもしれない。
そう思うと、不思議な気持ちになった。
三日目になると、道を行き交う人の姿が少しずつ増えていった。
荷を積んだ荷車。
南西から戻る商人たち。
荷馬の蹄の音。
それだけで、アルヴァが近いのだと分かった。
昼を過ぎたころ、ゆるやかな丘を越えた先に町が見えた。
白い石壁。
低い屋根。
街道沿いに広がる建物の列。
遠目にはシルヴィと大きく変わらない。
けれど、その向こうにはもっと多くの人の流れがあった。
「……あれがアルヴァか」
レイが小さくつぶやく。
セレスがうなずいた。
「はい。交易都市アルヴァです」
町へ近づくにつれ、空気は少しずつ賑やかさを帯びていった。
荷車の軋む音。
人々の呼び声。
荷を運ぶ足音。
どこかで焼かれるパンの匂い。
まだルミナスの加護の穏やかさは残っている。
だがそこには、神殿の町よりも多くの人の気配があった。
門の近くには神殿騎士の姿も見える。
そのうちのひとりが、セレスの胸元にある紋章に気づいた。
神官長直属を示す紋。
それを認めた瞬間、騎士はすぐに背筋を伸ばした。
「アストラリス神殿よりお越しですか」
セレスが静かにうなずく。
「短期滞在です。補給と街道確認のため、しばらくアルヴァに入ります」
「はっ。アルヴァ駐留隊、異常ありません」
その声には、はっきりとした敬意があった。
レイはそこであらためて、セレスが神殿の中でも特別な立場にいるのだと実感した。
いつもは落ち着いた同行者として隣にいる。
けれど彼女は、神官長直属の護衛なのだ。
セレスが軽く会釈を返し、門の内側へ歩き出す。
レイたちもそれに続いた。
白い石壁の門をくぐると、外から聞こえていた人々の声が少しだけ近くなる。
神殿とは違う空気が、そこにはあった。
レイは小さく息を吸った。
新しい町に辿り着いたのだと、そのときようやく実感した。




