旅立ちの支度
神官長の間を辞したあとも、四人はすぐにはそれぞれの部屋へ戻らなかった。
夜の回廊には、まだ禁書庫の余韻が残っている。
白い石壁に揺れる灯火はやわらかい。けれど、胸の奥に残ったものまでは照らし切れない。
星の涙。
六つの位相。
外から流れ込む濁り。
そして、光だけでは届かない領域。
しばらく無言で歩いたあと、セレスが足を止めた。
「まずは、行き先を定めましょう」
その声で、四人の意識が自然とひとつに集まる。
ミラが腕を組んだ。
「禁書庫で見えたのは、火、水、風、地の断片だった。でも最初に行くなら……火よね」
レイはうなずいた。
「一番、はっきり残ってる」
胸の奥に、あの光景がまだ残っていた。
赤く揺れる熱。
乾いた風。
地の底で脈打つような何か。
場所までは分からない。けれど、あれはただの幻ではなかった。
「火の位相を確かめよう」
レイが言うと、セレスは短くうなずいた。
「なら、最初の目的地はアルヴァです」
「アルヴァ?」
「神殿の南西にある交易都市です。ルミナス様の加護が届く南西外縁に位置しています」
リアが静かに目を伏せる。
「そこまでは、まだ神殿の守りの中なのですね」
「ええ。ですが、そこから先は少しずつ土地の気配が変わります」
セレスは窓の外へ視線を向けた。
「アルヴァで補給と情報収集を行い、フェルナ方面の道を確認します」
ミラの目がわずかに動いた。
「交易都市なら、火の位相側から来る人もいるかもしれないわね」
「その可能性はあります」
セレスは淡々と答える。
「禁書庫で見たものを、今度は実際の土地を歩いて確かめることになります」
その言葉に、レイは胸元の星の涙に触れた。
禁書庫で見たものは、まだ断片にすぎない。
けれど、それは確かに世界のどこかへ続いている。
「……まずはアルヴァか」
短く言うと、ミラが小さく笑った。
「目的地があるだけ、だいぶ旅っぽくなってきたわね」
リアはその言葉にすぐには笑わなかった。
ただ、白い袖の中で指先をそっと握る。
禁書庫で、自分だけ何も感じ取れなかった。
その事実は、まだ胸の奥に残っている。
けれどタニヤは、それを責めなかった。
感じ取れなかったことも、今の自分が受け取った事実なのだと告げた。
だからリアは、迷いを消すのではなく、抱えたまま進むしかなかった。
「私も、務めを果たします」
静かな声だった。
レイが振り向くと、リアは小さくうなずいた。
「神殿の巫女として、同行を命じられました。ならば、旅の中で見たものを、きちんと受け止めます」
その声は静かだったが、どこか自分に言い聞かせているようにも聞こえた。
レイは少しだけ迷ってから、口を開いた。
「リアが一緒に来てくれるの、俺はうれしいよ」
リアが小さく目を上げる。
「……そう言ってくれるんですか?」
「うん」
レイは素直にうなずいた。
「神殿のこととか、祈りのこととか、俺にはまだ分からないことが多いから。リアがいてくれると、すごく心強い」
リアはすぐには答えなかった。
白い袖の中で握っていた指先が、少しだけ緩む。
「……ありがとうございます」
小さな声だった。
その表情が少しだけやわらいだところで、ミラが横から軽く笑った。
「私もそうよ。リアと一緒に旅に出られるの、楽しみにしてるんだから」
リアが驚いたようにミラを見る。
「ミラさんまで……」
「まで、って何よ」
ミラは肩をすくめる。
「一緒に来るなら、巫女としてだけじゃなくて、ちゃんと仲間として頼りにしてるってこと」
リアは言葉を探すように視線を落とした。
けれど、その指先はもう強く握られてはいなかった。
「……はい」
小さくうなずく。
「ありがとうございます」
そのやり取りを、セレスは少し離れたところで見守っていた。
レイとミラに言葉を向けられ、リアの表情がわずかにほぐれていく。
それを見て、セレスの口元にもかすかな微笑みが浮かんだ。
セレスは一度だけリアを見て、それから四人を見渡した。
「出発までに必要なものを整えます。無駄な荷は持てません。ですが、削りすぎれば危険です」
「はいはい、分かってる」
ミラが肩をすくめる。
「でも、本と地図は少し持っていくから」
「少し、ですね」
「……少しよ」
セレスは何も言わなかった。
その沈黙に、ミラは小さく咳払いした。
翌朝から、準備は静かに進んだ。
セレスは護衛隊の詰所と装備庫を行き来した。
南西街道の地図。
アルヴァまでの宿場。
水場。
休息に使える集落。
ひとつずつ確認していく手つきには迷いがなかった。
装備庫では、神殿護衛隊の旅装が整えられていた。
白銀を基調とした軽装の胸当ては、動きを妨げないよう薄く仕立てられている。肩と前腕を守る護甲には、淡い金の精霊紋が細く刻まれていた。
左腕には細長い盾。
腰には細身の剣。
華美ではない。けれど、どれも質がよく、手入れが行き届いている。
ただ戦うためではなく、誰かを守り抜くための装備だった。
セレスはそれをひとつずつ確かめ、最後に神官長直属を示す外套を受け取った。
重くはない。
だが、その布に縫い込まれた紋章は、任務の重さだけを静かに伝えていた。
ミラは神殿の書庫にいた。
禁書庫ほど深い記録ではない。だが、古い街道誌や巡礼記、旅人の残した断片的な報告なら残っている。
アルヴァ。
南西街道。
緩衝地帯。
フェルナ。
赤灰の谷。
紙の上に散らばる名を拾いながら、ミラは無意識に目を細めた。
禁書庫で火の位相が開示されたとき、瞳の奥に灯った熱。
あれはもう消えたはずなのに、完全には離れてくれない。
「……なんなのよ、これ」
小さくつぶやく。
熱を帯びた光を見たせいかもしれない。
禁書庫の空気が、まだ体のどこかに残っているだけかもしれない。
そう考えれば、いくらでも理由はつけられる。
けれど、それだけでは片づかないものが胸の奥に残っていた。
リアは神殿の静かな一角で、旅支度を整えていた。
白い布を広げ、その上に道具を並べる。
祈祷用の短杖。
護符。
結界用の糸。
乾燥させた薬草。
傷を洗うための小瓶。
どれも巫女として使い慣れたものだった。
朝夕の祈りを欠かさないこと。
危ういと思えば独りで判断を閉じず、仲間に告げること。
タニヤから受けた言葉を、ひとつずつ思い返す。
リアは包みを結び、胸の前で手を重ねた。
自分には何も届かなかった。
それでも、行く。
答えを得るためではなく、自分が見なかったことにしないために。
そしてレイは、中庭にいた。
朝の光が白い石畳を淡く照らしている。
胸元の星の涙を手のひらに包むと、かすかな温もりが返ってきた。
禁書庫で見た光景が、まだ胸の奥に残っている。
世界は、自分が思っていたよりずっと大きい。
神殿の中で知ったことだけでは、きっと足りない。
レイは顔を上げた。
白い尖塔の向こうに、まだ見たことのない空が広がっている。
アルヴァ。
フェルナ。
火の位相。
名前だけを知った場所が、これから本当に自分の足元へ繋がっていく。
その先には、どんな世界が広がっているのだろう。
禁書庫で見た記録が、地上ではどんな形で残っているのか。
火の位相とは、どんな土地なのか。
そう思うと、胸の奥が少しだけ弾んだ。
分からないことがある。
だからこそ、確かめたい。
レイは星の涙をそっと握り直した。
自分の目で見て、自分の足で歩く。
それが今は、少し楽しみだった。
数日が過ぎた。
荷は整い、地図には必要な印が付けられ、出発の道筋も決まった。
その夜、四人は神官長タニヤのもとを訪れた。
準備の進み具合と、最初の目的地を報告するためだった。
タニヤは地図に目を落とし、しばらく黙っていた。
「アルヴァですか」
やがて、静かに言う。
「良い判断です」
セレスが一礼する。
「アルヴァで補給と情報を得たのち、フェルナ方面へ進みます」
「よろしい」
タニヤの視線が、レイたち一人ひとりに向けられた。
「禁書庫で見たものは、答えではありません。あれは道を示したにすぎない」
灯火が、部屋の壁に淡く揺れる。
「焦る必要はありません。けれど、目を逸らしてよいものでもありません」
レイは小さくうなずいた。
「この目で、確かめてきます」
「ええ」
タニヤの声は穏やかだった。
「見たものを持ち帰りなさい。判断は、それからです」
リアは胸の前で手を重ね、深く頭を下げた。
ミラは黙って地図を見ていた。
セレスはただ静かに、任務を受け止めていた。
部屋を辞したあと、回廊には夜の静けさが満ちていた。
窓の外には、遠くの空が広がっている。
明日から、自分たちは神殿を出る。
まずはアルヴァへ。
その先に、火の位相がある。
レイは胸元の星の涙に触れた。
温もりは、ほんのわずかだった。
けれど確かに、そこにあった。




