剣の第一歩
朝の光が、スターリットの森の枝葉を抜けて落ちていた。
夜の森とは違う。
月明かりに沈んでいた木々は淡い金色をまとい、苔むした小道には細かな光が揺れている。
遠く近くで、小鳥の声が重なっていた。
ガレンの小屋の裏手には、小さな広場がある。
古木が四方を囲み、根のあいだには柔らかな苔が広がっていた。
朝霧がまだ地面の近くに残り、木漏れ日に触れるたび、薄い白がゆっくりほどけていく。
ユーマは、広場の端に立っていた。
足には、ガレンが貸してくれた古い布靴を履いている。
大きさは合っていない。歩くたびに少しずれる。
服も昨日のままだ。ところどころ泥が落ちきっていない。
それでも、昨日の夜に森で震えていた時よりは、ずっとましだった。
広場の中央に、ガレンが立っていた。
手には剣。
いつもより、空気が静かに感じられた。
ガレンが一歩、踏み込む。
剣が走った。
速い。
音はほとんどない。
ただ、空気が細く裂けるような気配だけが残る。
一閃ごとに、木の葉がわずかに震えた。
ユーマは息を忘れる。
ガレンの剣は、大きく振り回しているわけではなかった。
無駄な動きがない。
踏み込む足。
沈む腰。
肩から腕へ流れる力。
刃の先まで、一本の線のようにつながっている。
そのとき、枝から一枚の葉が舞い落ちた。
陽の光を受けながら、ゆっくりと回る。
ガレンの剣が、静かに走った。
葉は、音もなく二つに分かれた。
まるで最初から、そうなる形を持っていたかのように。
「……すご」
思わず声が漏れる。
気づけば、ユーマは一歩前へ出ていた。
「ガレンって……本物の剣士なんだよね?」
ガレンは剣を下ろし、こちらを見る。
「ああ。端くれだな」
飾らない言葉だった。
けれど、その背中は何も隠していなかった。
昨日の夜の銀色の軌跡を思い出す。
獣の牙が迫ってきた瞬間。
風を裂いて走った剣。
あの一撃がなければ、自分はここにいなかった。
ユーマの目は、自然とガレンの剣へ向かう。
「じゃあ、俺にも剣を教えて」
言葉は、思ったよりまっすぐ出た。
ガレンはすぐには答えなかった。
静かにユーマを見ている。
その視線は、昨日の夜より重かった。
「強くなりたいのか」
「うん」
「何のために」
一瞬、言葉に詰まった。
強くなりたい。
それは本当だ。
ガレンみたいに剣を振れたら。
獣が来ても、何もできないまま震えるだけじゃなくなれたら。
それに、この世界にはまだ知らないものがたくさんある。
術。
星の涙。
ルミナス。
森の奥。
その全部を、ただ怖がっているだけでは見に行けない。
ユーマは、ぎゅっと手を握った。
「昨日みたいに、何もできないのは嫌だ」
ガレンの目が、少しだけ細くなる。
ユーマは続けた。
「それに……この世界のこと、もっと知りたい」
声は大きくない。
けれど、逃げるような声ではなかった。
ガレンはしばらく黙っていた。
やがて、低く言う。
「剣は遊びじゃねえ」
ユーマは頷く。
「うん」
「持てば強くなる道具でもねえ」
「うん」
「振り方を間違えれば、自分も、人も傷つける」
その言葉に、少しだけ息が止まった。
ガレンの声は静かだった。
けれど、昨日の夜、獣が倒れた瞬間の光景を思い出させるには十分だった。
「強くなりたいなら、本気でやれ」
ガレンはユーマを見る。
「途中で投げるなら、最初から握るな」
ユーマは、まっすぐ頷いた。
「やる」
迷いはなかった。
ガレンは小さく息を吐いた。
呆れたようでもあり、どこか確かめるようでもあった。
「……いいだろう」
小屋の壁際から、一本の木剣を取ってくる。
差し出されたそれを、ユーマは両手で受け取った。
ずしり、と腕に重みがかかる。
「重っ……」
思わず顔をしかめる。
木でできているはずなのに、思っていたよりずっと重い。
握る手に力を入れないと、先がすぐに下がってしまう。
ガレンは淡々と言った。
「無理じゃねえ。慣れてねえだけだ」
「これ、木だよね?」
「木でも、剣は剣だ。軽いと思って振るもんじゃねえ」
もっと軽いものを想像していた。
物語の中の剣士が軽々と振るう剣。
構えれば自然に強くなれるような、都合のいい武器。
目の前の木剣は、そんなものではなかった。
手のひらに食い込む。
腕が震える。
足元がふらつく。
ガレンが、ユーマの前に立った。
「まず構えろ」
「こう?」
見よう見まねで木剣を上げる。
「違う。肩に力を入れすぎだ」
ガレンの手が、ユーマの腕の位置を直す。
「腰を落とせ」
「こう?」
「足が近い。もう少し開け」
言われた通りにするだけで、太ももが少しきつい。
「剣は腕だけで振るな」
ガレンは木剣を一本取り、自分でゆっくりと構えてみせた。
踏み込み。
腰の向き。
腕の流れ。
剣先。
すべてが、静かにつながっている。
「足で動いて、体で運ぶ。腕は最後だ」
「……難しい」
「当たり前だ」
ガレンは短く言った。
「簡単なら、誰も死なねえ」
その一言で、ユーマは黙った。
ガレンは木剣を下ろし、今度はゆっくりと突きを見せる。
「まずは突け。振り回すな。狙って、当てる」
木剣の先が、空気の一点で止まる。
ぶれない。
ユーマも真似をする。
踏み込む。
突く。
木剣の先が、横へ流れた。
「違う」
ガレンの声が飛ぶ。
「もう一回」
もう一度構える。
踏み込む。
突く。
今度は足がもつれ、体が前へ倒れそうになる。
「足を見るな。相手を見ろ」
「見てるって」
「見てるだけだ。見えてねえ」
「難しいな……」
「だから稽古する」
何度も繰り返す。
木剣はぶれる。
足はもつれる。
腕はすぐに重くなる。
十回もしないうちに、息が上がっていた。
「はあ……はあ……」
額に汗が滲む。
朝の空気は冷たいのに、体だけが熱い。
ガレンは平然としていた。
「もう終わりか」
「まだ……終わってない」
ユーマは木剣を握り直す。
手のひらが痛い。
それでも、手を離したくなかった。
「もう一回やる」
ガレンは少しだけ口元を緩めた。
「なら構えろ」
ユーマは足を開き、木剣を上げた。
重い。
痛い。
うまくいかない。
それでも、昨日の夜のことを思い出す。
獣の赤い目。
動けなかった自分。
目の前を走ったガレンの剣。
何もできないままでは嫌だ。
息を吸う。
踏み込む。
突く。
木剣の先は、まだ少しぶれた。
けれど、さっきよりは前へ伸びた。
ガレンはそれを見て、短く言った。
「今のは悪くねえ」
その一言だけで、胸が少し熱くなる。
「もう一回」
「自分で言えるなら、まだ動けるな」
「うん」
森の朝が、少しずつ明るくなっていく。
木漏れ日が広場に落ち、霧が薄くほどけていった。
ユーマは木剣を構え直した。
この世界のことは、まだ何も分からない。
帰れるのかも分からない。
ペンダントのことも、星の涙のことも、術のことも。
けれど、今やることだけは分かっていた。
足を開く。
腰を落とす。
相手を見る。
狙って、当てる。
「もう一回」
ユーマの声は、さっきより少しだけ強かった。
ガレンは何も言わず、木剣を構えた。
スターリットの森の小さな広場に、木剣の乾いた音が響き始めた。
やがて、陽が少し高くなった頃。
ガレンはようやく木剣を下ろした。
「今日はここまでだ」
ユーマはその場に座り込む。
腕は重い。
手のひらは熱い。
太ももも震えている。
けれど、不思議と嫌ではなかった。
息を整えながら見上げると、ガレンは小屋の方を顎で示した。
「村へ行くぞ」
「村?」
「服と靴がいる。いつまでもその格好じゃ動きにくい」
ユーマは自分の服を見下ろした。
借り物の布靴。
泥の残った服。
汗で張りついた袖。
たしかに、これで森の中を動き続けるのはきつい。
「行ける。まだ歩ける」
「なら立て」
ガレンはそれだけ言って、小屋へ向かって歩き出した。
ぶっきらぼうな声だった。
けれど、稽古のあとで足がふらつくユーマに合わせるように、その歩幅は少しだけ遅かった。
ユーマは木剣を小屋の壁際へ戻し、慌てて後を追った。
森の道は、思っていたより歩きにくい。
木の根が張り出し、湿った石がところどころに顔を出している。
どこを踏めば滑らないのか。
どこを避ければ足を取られないのか。
ガレンは何も考えていないように歩いているのに、ユーマは一歩ごとに足元を見なければならなかった。
やがて、木々の隙間が明るくなった。
森を抜けた先に、ベルデ村はあった。
木造の家々が陽の光を受け、白い壁や屋根の縁をやわらかく光らせている。
煙突から立ちのぼる薄い煙は、空へ溶けるように揺れていた。
人の声。
火の匂い。
井戸の水音。
どこかで鶏に似た鳥が鳴いている。
森とは違う、静かな温もりがそこにあった。
ユーマは少し落ち着かないまま、周囲を見回した。
人がいる。
普通に暮らしている。
胸の奥に、小さな安心が灯る。
誰かが火を焚き、食事を作り、道具を並べ、声を交わしている。
小屋で感じたものと同じ生活の気配が、村全体に広がっていた。
「ガレン」
通りの向こうから、店先を片づけていた男が声をかけた。
「今日は連れがいるのか」
「ああ。用ができた」
ガレンは短く答える。
その声を聞いて、別の家の戸口から女が顔を出した。
「ガレンさんじゃないか。その子は?」
女の視線が、ユーマへ向く。
思わず背筋が伸びた。
ガレンは少しだけ間を置いてから言う。
「森で拾った」
「拾ったって、あんた……」
女は呆れたように目を丸くする。
けれど、すぐにユーマの足元と服装を見て、表情をやわらげた。
「まあ、寒かったろうに」
どう返せばいいか分からず、小さく頭を下げる。
その様子に、女は少しだけ笑った。
「ガレンさん、ちゃんと食べさせてやったのかい?」
「食わせた」
「それならいいけど」
やり取りは短かった。
けれど、そこにある空気は薄くない。
村人たちは、ガレンをよく知っている。
そして、ガレンが無駄なことをしない人間だと分かっている。
ユーマは、少し不思議な気持ちでその背中を見た。
昨日の夜、獣を斬った人。
森の奥を見張っていた人。
ぶっきらぼうだけれど、スープを食べさせてくれた人。
そのガレンが、村では自然に受け入れられている。
「こっちだ」
呼ばれて、慌てて後を追った。
入ったのは、小さな店だった。
並んでいるのは、布と衣服。
革靴。
麻の袋。
旅人用の外套。
どれも飾り気はない。
けれど、触れればすぐに使われることを待っているようだった。
店主の女性が、ガレンを見るなり眉を上げる。
「服かい?」
「ああ。このガキに合うやつを」
「また急だね」
「急だったからな」
店主はそれ以上聞かなかった。
ただ、ユーマの背丈を見て、棚から何着か服を取り出す。
「これなら少し大きいけど、すぐ育つだろう。靴は……今履いてるのは大きすぎるね」
思わず足元を見る。
ガレンの古い布靴は、やはり少しずれていた。
店主は笑わず、奥から革靴を持ってくる。
「履いてごらん」
椅子に腰かけ、靴に足を入れた。
少し硬い。
けれど、かかとが浮かない。
紐を結ぶと、足がちゃんと自分のものになった気がした。
「……歩きやすい」
ぽつりと言うと、店主は満足そうに頷いた。
ガレンは腰の袋から硬貨を取り出し、ユーマの手に乗せた。
「払え」
「え?」
「お前のもんになるんだ。お前が払え」
手のひらの硬貨を見つめる。
冷たい金属の重みが、指先に残る。
現実世界の小銭とは違う。
形も、刻まれた紋も、見たことがない。
けれど、それは確かにお金だった。
服と靴を抱え、店主へ硬貨を差し出す。
店主は受け取り、代わりに小さな布袋を渡してくれた。
「はい。大事に使いな」
「……ありがとう」
硬貨を渡すと、それは自分のものになる。
当たり前のはずの行為が、妙に新鮮だった。
人の手から人の手へ、物が渡っていく。
そこには、ちゃんと暮らしがあった。
店を出ると、ガレンが少しだけ見下ろしてきた。
「靴は合うか」
「うん。さっきより全然いい」
「なら歩け」
「もう少し感想とかないの?」
「歩けるなら十分だ」
ユーマは苦笑した。
けれど、足元は軽かった。
ベルデ村の道を歩いていると、何人かがガレンに声をかけてきた。
「おう、ガレン」
「この前の獣皮、助かったよ」
「森の様子はどうだい?」
そのたび、ガレンは短く答える。
「ああ」
「いつものだ」
「奥はまだ静かじゃねえ」
その声を聞くと、村人たちの顔が少し引き締まった。
ただの世間話ではない。
この村の人たちは、森の奥を少し怖がっている。
そして、ガレンの言葉を頼りにしている。
店先の老人が、ユーマを見て目を細めた。
「その子も、森で?」
「ああ」
「そうか」
老人はそれだけ言うと、ガレンへ静かに頷いた。
「……やっぱり、あんたは放っておけないんだな」
ガレンは返事をしなかった。
ただ、視線を少しだけ外す。
老人も、それ以上は言わなかった。
ユーマには、その沈黙の意味までは分からない。
けれど、村人がガレンを見る目には、感謝に似たものがあった。
少し離れたところで、誰かが小さく言う。
「あの日、森が膨らんだ夜も……」
その先は、声にならなかった。
ガレンの背中が、ほんのわずかに硬くなる。
ユーマは、何も聞けなかった。
村の陽の光が、二人の足元に落ちている。
その明るさの中に、昨日の夜とは違う影が、少しだけ見えた気がした。
やがて買い物を終えると、ガレンは小さな袋を肩にかけた。
「戻るぞ」
「もう?」
「用は済んだ」
「村って、もっと見て回ったりしないの?」
「足が治ってからだ」
そう言われると、反論できなかった。
まだ足の裏は少し痛い。
それでも、新しい靴のおかげで歩ける。
森へ戻る道で、ユーマは何度も村を振り返った。
煙突の薄い煙。
店先に並ぶ布。
井戸のそばで笑う人たち。
陽の光を受ける屋根。
あそこには、人の暮らしがある。
そして自分は、そこへ足を踏み入れた。
それだけで、昨日より少しだけ、この世界との距離が近くなった気がした。




