森の小屋
ガレンの腕に抱えられたまま、ユーマはスターリットの森の奥を進んでいた。
月光が木々の隙間から降り、苔むした小道に淡い影を落としている。
足元を流れる霧は、歩くたびにゆっくりと割れていった。
ガレンの革鎧は硬かった。
頬に触れる感触はごつごつしていて、鼻先には鉄と汗と、森の匂いがかすかに混じっている。
さっきの獣の赤い目が、まだ頭から離れなかった。
濁った光。
苦しそうな唸り声。
こちらへ跳びかかってきた牙。
思い出しただけで、体が小さく震えた。
それに気づいたのか、ガレンが静かに声をかけた。
「怖かったな」
返事はできなかった。
ガレンは前を向いたまま、続ける。
「もう大丈夫だ。俺がいる」
短い言葉だった。
飾りもない。
優しく撫でるような声でもない。
けれど、不思議と胸の奥が少しだけほどけた。
ユーマは、ぎゅっとガレンの革鎧を掴む。
「……うん」
小さく答えると、ガレンは何も言わずに歩き続けた。
やがて、森の奥に明かりが見えた。
最初は、木々の向こうに揺れる小さな橙色だった。
近づくにつれて、それが窓から漏れる火の光だと分かる。
苔むした岩に囲まれた、古びた木の小屋。
屋根には蔓が絡み、煙突からは細い煙が夜空へ伸びている。
森の中にぽつんと置かれたその小屋は、月光の下で静かに息をしているようだった。
「着いたぞ」
扉の前で足を止めたガレンが、ユーマをそっと地面に降ろした。
足の裏が土に触れる。
痛みがじんと走って、少し顔がしかめた。
ガレンは何も言わずに扉を開ける。
中から、暖かな空気が流れ出した。
小屋の中は、思ったよりも温かかった。
暖炉の火がぱちぱちと音を立て、部屋全体を柔らかな橙色に染めている。
壁には獣の毛皮と、使い込まれた古い鞘。
棚には干し肉、束ねられたハーブ、木の器、細い縄、古びた革袋が並んでいた。
生活の匂いがした。
火の匂い。
乾いた草の匂い。
煮込んだ肉の匂い。
ユーマは、入口に立ったまま部屋を見回した。
……ちゃんと、人が住んでる。
ゲームの背景みたいな場所ではない。
誰かがここで眠り、食べ、火を起こし、道具を直している。
そう思った瞬間、この場所で本当に誰かが暮らしているのだと、少しずつ実感が湧いてきた。
「ほら、座れ」
ガレンが木の椅子を顎で示す。
おそるおそる腰を下ろすと、椅子は少し硬く、足は床につかなかった。
ガレンは剣を壁に立てかけ、暖炉の横に置かれた鍋をかき混ぜた。
木の椀を取り、手際よくスープをよそう。
肉とハーブの香りが、ふわりと広がった。
「食えるだろ」
差し出された椀を、ユーマは両手で受け取る。
湯気が顔に触れた。
温かい。
それだけで、胸の奥に張りついていた緊張が少しほどける。
そっと一口すすった。
「……」
塩気と肉の味が、舌に広がった。
知らないハーブの香りが、少しだけ鼻を抜ける。
うまい。
そう思った瞬間、腹の音が小屋の中に小さく響いた。
ガレンがわずかに口元を動かす。
笑ったのかもしれない。
「生きてる証拠だ」
ユーマは少しだけ目を伏せ、もう一口飲んだ。
それからは、夢中だった。
熱いのに、止まらない。
怖かったことも、分からないことも、少しだけ遠くなる。
暖炉の火が、ぱちりと鳴った。
その音を聞いた瞬間、ふと台所から聞こえていた包丁の音を思い出した。
母が夕飯を作っていた音。
扇風機の乾いた音。
窓の外で鳴いていた蝉の声。
机の上に開きっぱなしだった宿題のノート。
ほんの少し前まで、そこにいたはずだった。
「……母さん」
小さく呟いた声は、暖炉の音に紛れて消えた。
胸の奥が、きゅっと痛くなる。
帰れるのだろうか。
母は、今ごろ自分がいないことに気づいただろうか。
夕飯ができたと呼びに来て、空っぽの部屋を見るのだろうか。
そう考えたら、目の奥が少し熱くなった。
ユーマは、椀を両手で握り直す。
湯気が、頬に触れる。
温かい。
ここがどこなのかは分からない。
帰れるのかも分からない。
でも今は、食べなければならない。
もう一口、ゆっくりとスープを飲んだ。
温かさが、体の奥へ落ちていく。
少しして、ふと視線を感じた。
顔を上げると、ガレンがじっとこちらを見ている。
その目が、ゆっくりと首元へ落ちた。
「……ユーマ」
「なに?」
「そのペンダント、どこで手に入れた」
動きが止まる。
胸元に手を当てると、服の下にしまいかけていた青い石が指先に触れた。
「母さんがくれたんだ」
「母親が?」
「うん。大事にしなさいって」
ガレンはわずかに目を細めた。
青い石は、暖炉の火を受けて静かに光っている。
ただの飾りには見えなかった。
神殿で見た、星の涙の光にどこか似ている。
けれど、それよりももっと澄んだ、静かな光。
ガレンはしばらく黙っていた。
暖炉の火が、ぱちりと小さく鳴る。
「……そうか」
短く答え、ガレンは視線を外した。
「これ、何か知ってるの?」
すぐには答えが返ってこない。
ユーマは青い石を服の上から押さえた。
「さっきのゲームに出てたんだ。星の涙っていう、青く光るクリスタルみたいなものが……これ、それに似てる気がして……」
その瞬間、ガレンの動きが止まった。
さっきまで火を見ていた目が、まっすぐユーマへ戻る。
「……今、星の涙と言ったか」
低い声だった。
ユーマは慌てて首を振る。
「いや、分かんないよ。ゲームで見ただけだし……でも、似てたんだ。画面に出てきたやつと。それに、さっき光ったし」
ガレンは黙ったまま、青い石を見つめた。
胸元で、ペンダントはただ静かに揺れている。
やがて、短く息を吐いた。
「星の涙は、アストラリス神殿に祀られているものだ」
その声は、いつもより少しだけ低かった。
ユーマは息を呑む。
「じゃあ、これって……」
「分からん」
「ただ、妙なものを持っていると知られれば、余計な目を引く。欲しがる奴も、調べたがる奴もいる」
ガレンの視線が、まっすぐ向けられる。
「あまり人に見せるな。いいな」
少し遅れて、ユーマは頷いた。
「……うん」
けれど、胸の奥は逆に熱くなっていた。
やっぱり、ただのアクセサリーじゃない。
母がくれたもの。
ゲームの画面に似ていたもの。
自分をこの世界へ連れてきたかもしれないもの。
怖い。
けれど、それ以上に――知りたい。
「ねえ、ガレン」
「なんだ」
「この世界には……魔法とか、あるの?」
ガレンが少しだけ眉を上げる。
「魔法?」
「ゲームだとさ、簡単に、光を出したり、傷を治したり、火を出したりするやつがあるだろ。そういうの」
「お前の言う“げぇむ”ってのは、随分と都合がいいんだな」
ガレンは椀を置き、暖炉の火を少しだけ見た。
「似たようなものはある」
ユーマの目が、ぱっと明るくなる。
「本当に?」
「ああ。だが、この世界じゃ術と呼ぶ」
「術……」
「誰でも使えるもんじゃねえ」
暖炉の火を見ながら、ガレンは言った。
「術ってのは、世界に漂う力を借りるもんだ。神官どもは、それを《みなもと》と呼ぶ」
「《みなもと》……」
聞き慣れない言葉だった。
けれど、どこか胸に引っかかった。
さっき、画面の中で見た青白い光。
転移のときに体を包んだ粒子。
この森に満ちているような、目に見えない気配。
それらが、少しだけつながる気がした。
「目に見えるの?」
「誰にでも見えるもんじゃねえ」
ガレンは短く答える。
「神官や、感応の強い奴には、光の粒みたいに見えることもあるらしい。だが、普通の人間には分からん」
「じゃあ、ガレンには?」
「俺には見えねえ」
あっさりと言われる。
「ただ、森の空気が重いか軽いかくらいは分かる」
ガレンの視線が、少しだけ窓の外へ向いた。
「この森に長くいれば、嫌でもな」
ユーマは黙って、その横顔を見た。
ガレンは続ける。
「この辺りの連中は、そんなものをいちいち《みなもと》とは呼ばねえ。光が穏やかな日は、ルミナス様がそばにいる、って言う」
「ルミナス様……」
「光の精霊だ。アストラリス神殿に祀られている。この地を守っているとされてる」
ルミナス。
ゲームの画面に映っていた、光の粒に包まれた精霊の姿。
その名前が、今度は物語の中ではなく、人の声で語られている。
それだけで、ユーマの胸が少し熱くなった。
「普通の人は、術を使えないの?」
「使えねえな」
「神官は使える?」
「使える。でなきゃ神官にはなれねえ」
暖炉の火を見ながら、ガレンは言った。
「ただ、どこまでできるかは人による。祈りで傷を癒やせる者もいれば、光を灯す程度の者もいる。結界まで張れる奴は、そう多くねえ」
「じゃあ、俺は?」
思わず聞いていた。
ガレンは、すぐには答えなかった。
青いペンダントを一瞥する。
「知らん」
「知らんって」
「今のお前に分かることじゃねえ」
また、それだ。
ユーマは少しだけ頬を膨らませる。
ガレンはそんなユーマを見て、小さく息を吐いた。
「焦るな。世界の仕組みを知る前に、まずは明日の朝まで生きろ」
「……そればっかり」
「一番大事だからな」
ガレンは椀を顎で示した。
「食って、寝ろ。それが最初の一歩だ」
ユーマはしばらく黙っていた。
それから、椀の中を見下ろす。
もうほとんど空だった。
「俺、この世界で……英雄みたいに強くなれるかな」
ぽつりと呟く。
言ってから、自分でも少し驚いた。
帰りたい気持ちはある。
母のことを思うと、胸が痛む。
でも、それだけではなかった。
剣士がいた。
異様な獣がいた。
術があるらしい。
《みなもと》という、世界に漂う力があるらしい。
ゲームの中でしか見たことがなかったようなものが、今、目の前にある。
知りたい。
見てみたい。
この世界で、自分が何をできるのか。
ガレンは小さく笑った。
「いきなりでかいこと言うな」
少しだけ、柔らかい声だった。
「強くなりたいなら、まず弱いってことを忘れるな」
ユーマは顔を上げる。
「弱いって……」
「お前は今日、獣一匹相手に何もできなかった」
容赦のない言葉だった。
胸に刺さる。
けれど、間違っていない。
ユーマは、唇を結んだ。
ガレンは続ける。
「だから、まずは生き延びることだ。食う。寝る。歩けるようになる。森の音を聞く。危ないものを覚える」
一拍置いて、静かに言う。
「剣を持つのは、そのあとだ」
剣。
その言葉に、胸が小さく跳ねた。
ガレンが森で見せた、銀色の一閃。
月光を斬るような、あの剣。
「……俺にも、教えてくれる?」
ガレンはすぐには答えなかった。
暖炉の火が、二人の間で揺れている。
やがて、短く言った。
「お前が、朝になっても同じことを言うならな」
ユーマは目を丸くする。
それから、少しだけ笑った。
「言うよ」
「どうだかな」
ガレンは立ち上がり、部屋の隅から毛皮を一枚取ってきた。
「今日はそこで寝ろ」
暖炉の近くに、厚手の毛皮が敷かれる。
ユーマは空になった椀を置き、ペンダントを服の中にしまった。
毛皮の上に横になると、体の力が一気に抜ける。
思っていた以上に疲れていた。
暖炉の火の音が、心地よかった。
ぱちり。
ぱちり。
その音の向こうに、また少しだけ現実世界の音が重なる。
扇風機の乾いた音。
蝉の声。
母の声。
胸が、少し痛い。
でも、涙は出なかった。
目の前の火が温かかったからかもしれない。
スープで腹が満たされていたからかもしれない。
それとも、この世界のことを、もう少し知りたいと思ってしまったからかもしれない。
……ここ、本当に別の世界なんだ。
怖さは、まだある。
帰りたい気持ちも、消えていない。
でも、それだけではなかった。
小屋の外には、まだ知らない森がある。
ガレンの剣があり、術があり、星の涙という名がある。
そのすべてが、怖いのに、目を離せなかった。
瞼が、ゆっくりと重くなる。
そのとき、遠くで水の流れる音がした気がした。
小屋の外ではない。
もっと遠く。
もっと深い場所。
青白い光が、まぶたの裏にかすかに揺れる。
まるで、どこかにある“何か”が、ユーマの名をまだ知らないまま呼んでいるようだった。
青い石は静かだった。
けれど、胸の奥で小さな温もりだけが残っている。
明日の朝……。
意識が沈んでいく。
剣、教えてもらおう。
暖炉の火が、ぱちりと小さく鳴った。
その橙色の光だけが、眠りに落ちるユーマの頬を静かに照らしていた。




