ガレンとの出会い
光が、ほどけていく。
まぶたの裏に焼きついていた青白い輝きが薄れ、冷たい夜気が頬を撫でた。
息を吸った。
土の匂い。
湿った草の匂い。
古い木の皮の匂い。
どこか遠くで、水が流れるような音がする。
「……え?」
目を開ける。
そこは、子ども部屋ではなかった。
夕陽に染まったカーテンもない。
扇風機の音もない。
テレビ画面も、ゲーム機も、転がったコントローラーもない。
目の前に広がっていたのは、深い森だった。
見上げるほど大きな木々が、夜空を覆うように枝を伸ばしている。
葉の隙間からこぼれる月光が、苔むした地面に淡い銀色の模様を落としていた。
白い霧が、木の根のあいだを細く流れている。
しばらく、動けなかった。
「……ここ、どこだよ」
声は、自分でも驚くほど小さかった。
足元を見る。
裸足だった。
冷たい土が足の裏に触れている。
小石を踏んだのか、じんとした痛みがあった。
その痛みが、妙に現実的だった。
さっきまで、部屋にいた。
机の前で、あの古いゲームを起動していた。
画面に映った、石の神殿。
青白く輝く泉。
光の粒に包まれた精霊の影。
そして――エテルナ、という名前。
画面が歪んで、音が遠くなった。
ペンダントが光り、青白い輝きに包まれた。
そこから先は、分からない。
ごくりと唾を飲み込んだ。
「まさか……ここ、ゲームの中なのか?」
返事はない。
画面もない。
メニューもない。
コントローラーもない。
あるのは、肌に触れる夜気と、森の匂いと、胸の奥で速く鳴っている心臓だけだった。
服の胸元を握る。
そこに、ペンダントがあった。
母から渡された、青い石のペンダント。
さっきまで机の上にあったはずのそれが、いつの間にか首にかかっている。
青い石は、もう光っていない。
けれど、ほんの少しだけ温かかった。
「なんなんだよ……これ」
そのときだった。
森の奥で、何かが鳴いた。
低く、喉を擦るような声。
「……っ」
月光の届かない木々の向こうで、草が揺れる。
影の奥から、獣が姿を現した。
狼に似ていた。
けれど、知っている狼とは違う。
灰色の毛皮は、ところどころ黒く濡れたように固まっている。
背の毛は不自然に逆立ち、赤く濁った目だけが、月明かりの中でぎらりと光った。
唸り声は低く、苦しげだった。
腹を空かせているというより、何かに追い立てられているように見える。
一歩、下がった。
「うそ……」
ゲームの中でなら、見たことがある。
最初の森に出てくる敵。
剣を持った勇者が倒す、序盤の獣。
けれど、目の前にいるそれは、画面の中の敵ではなかった。
息をしている。
苦しそうに唸っている。
こちらを見ている。
そして何より――怖い。
獣が、ゆっくりと身を低くした。
逃げなきゃ。
そう思った瞬間、足が木の根に引っかかった。
「うわっ」
尻もちをつく。
手のひらに湿った土がついた。
獣の赤い目が、細くなる。
次の瞬間。
影が、跳んだ。
牙が月光を弾く。
息を呑む。
声も出ない。
逃げることもできない。
ただ、迫ってくる黒い影を見上げることしかできなかった。
その瞬間、風が裂けた。
鋭い音が、森を走る。
銀色の軌跡が、目の前を横切った。
一拍遅れて、獣の咆哮が響く。
黒く濡れた毛が裂けた。
獣の体が横へ吹き飛び、苔を削りながら地面を転がる。
そのまま、動きを止めた。
息を止めたまま、目を見開いていた。
月光の中に、一人の男が立っている。
背の高い剣士だった。
無造作に束ねた赤褐色の髪。
鋭い目。
傷の残る革鎧。
片手に下げた剣の刃には、黒ずんだ血が滴っていた。
男は倒れた獣を一瞥する。
獣は、まだ微かに痙攣していた。
けれど、その目の赤い濁りは少しずつ薄れ、体から黒い靄のようなものがほどけていく。
男の眉間に、かすかな皺が寄った。
「……奥から迷い出たか」
低く呟くと、男は森の奥へ一度だけ目を向けた。
月明かりの届かない木々の向こうは、ただ暗い。
やがて、剣についた黒ずんだ血を振り払い、こちらへ視線を向ける。
「……ガキがこんな時間に、何してやがる」
低い声だった。
怖い声ではない。
けれど、森の夜に慣れた人間の声だった。
うまく返事ができなかった。
口を開く。
閉じる。
それから、ようやく言葉を絞り出した。
「お、俺……天城悠真……」
男の眉が、わずかに動く。
「アマギ……ユーマ?」
「うん。さっきまで、部屋にいて……ゲームしてて……気づいたら、ここに……」
自分で言っていて、意味が分からなかった。
男は、何も言わなかった。
ただ静かにこちらを見ていた。
顔を見て、服を見て、裸足の足を見る。
そして、小さく舌打ちした。
「靴もなしか」
「……」
「親は?」
「いない……ここには」
そう答えた瞬間、胸の奥がきゅっと縮んだ。
母の声。
台所から聞こえた包丁の音。
夕飯の匂い。
夏の部屋にあったものが、急に遠くなった。
男はしばらく黙っていた。
森の奥で、木々がざわめく。
倒れた獣の体は、もうほとんど動かない。
そこに命があったはずなのに、残ったのは黒く湿った跡と、土に沈む重たい匂いだけだった。
「立てるか?」
男が手を差し出した。
大きな手だった。
節くれ立っていて、傷があって、剣を握る人の手だった。
おそるおそる、その手を掴む。
温かかった。
ぐい、と引き上げられる。
立ち上がった瞬間、足の裏に痛みが走った。
「っ……」
思わず顔をしかめる。
男は、それを見逃さなかった。
「歩ける状態じゃねえな」
「だ、大丈夫……」
「大丈夫な奴は、そんな顔しねえ」
剣が、鞘に収まる。
男はユーマの前にしゃがんだ。
「俺はガレンだ」
「ガレン……」
「この森に住んでる」
短く、それだけ。
けれど、その言葉には不思議な重みがあった。
もう一度、周囲を見回した。
月光に照らされた木々も、足元を流れる霧も、倒れた獣の跡も、すべてが本物だった。
「ここって……エテルナ、なの?」
「ああ」
ガレンは短く答えた。
だが、すぐに眉をひそめる。
「……妙な聞き方をするな」
「ゲームで見たんだ。画面に、エテルナって出てて……」
「げぇむ?」
ガレンの視線が、胸元へ落ちる。
服の下から、青いペンダントが少しだけ覗いていた。
月光を受けた青い石が、かすかに光を返す。
ガレンの表情が、また少しだけ変わった。
驚きではない。
警戒でもある。
けれど、それだけではなかった。
古い傷に触れたような、苦い沈黙。
「……それは」
何かを言いかけて、すぐに口を閉じる。
「いや。今はいい」
「これ、何か知ってるの?」
胸元を押さえた。
ガレンは視線を外す。
「今は知らなくていい」
「でも――」
「知ったところで、今のお前が生き延びやすくなるわけじゃねえ」
その言葉は、冷たく聞こえた。
けれど、嘘ではない気がした。
ガレンは、もう一度森の奥へ目を向ける。
木々の向こうは暗い。
月明かりがあるのに、そこだけ光が届いていないように見える。
「今夜は俺の小屋に来い」
「え……」
「この森は夜が本番だ。ここにいたら、次が来る」
次。
その一言だけで、背中に冷たいものが走った。
ガレンは淡々と続ける。
「腹は減ってるか」
「あ……」
言われて初めて、腹の奥が空っぽだと気づいた。
「大したもんはねえが、食えるものはある」
小さく頷いた。
分からないことだらけだった。
恐怖も、まだ消えていない。
でも、この男の近くにいれば、とりあえず死なない。
そんな気がした。
ガレンは足元をもう一度見て、短く息を吐く。
「来い……と言いたいところだが、無理だな」
「歩けるって」
「その足で強がるな」
次の瞬間、体がふわりと浮いた。
「うわっ」
ガレンが、片腕で軽々と抱え上げたのだ。
革鎧の硬い感触が頬に触れる。
鉄と汗と、森の匂いがした。
「暴れるな。落とすぞ」
「お、落とさないでよ」
「なら静かにしてろ」
ぶっきらぼうな言い方だった。
けれど、抱え方は乱暴ではなかった。
少しだけ力を抜く。
森の奥へ進むたび、木々の影がゆっくり流れていく。
空には、見たことのないほど大きな月が浮かんでいた。
銀色の光が枝葉を透かし、小さな白い花の上に落ちている。
花びらは夜気に揺れ、まるで淡い星のかけらのようだった。
それを、ぼんやり見つめた。
胸の奥で、さっきの光景がよみがえる。
深い森。
月光を映す泉。
白い花のそばで微笑む、見知らぬ少女。
そして、遠くで聞こえた声。
――忘れても、必ず君のもとへ帰る。
「……」
胸が、少し痛んだ。
意味は分からない。
でも、どうしてか、その言葉だけは忘れてはいけない気がした。
ガレンの腕の中で、胸元のペンダントに指を触れる。
青い石は静かだった。
けれど、心臓の鼓動と重なるように、ほんのわずかに温もりを残している。
「……ねえ、ガレン」
小さく声を出す。
「なんだ」
「ここ、本当に……ゲームの中じゃないんだよな」
「その、お前の言う“げぇむ”ってのは知らねえ」
ガレンは前を向いたまま、短く言った。
「だが、ここは幻でも夢でもねえ」
足の裏の痛みを思い出した。
さっきの獣の赤い目も。
手についた土の冷たさも。
ガレンの腕の温かさも。
全部、本物だった。
「そっか……」
怖い。
母のところへ帰れるのかも分からない。
ここがどこなのかも分からない。
さっきの獣がまた出てくるかもしれない。
それでも。
森はきれいだった。
月光は見たことがないほど澄んでいて、白い花は星みたいに揺れている。
剣士がいて、異様な獣がいて、知らない世界が目の前に広がっている。
怖さと同じくらい、胸の奥が熱かった。
「……ちょっとだけ」
「ん?」
「ワクワクしてる」
自分でも変だと思った。
こんな状況で、そんなことを思うなんて。
ガレンは振り返らない。
ただ、ほんの少しだけ息を吐いた。
笑ったのかもしれない。
「そうか」
それだけだった。
けれど、不思議と責められた気はしなかった。
ガレンの肩越しに、夜の森を見る。
遠ざかっていく木々の奥で、さっきの獣が倒れていた場所はもう見えない。
けれど、ガレンの視線は時折そちらへ戻っていた。
まるで、森がもう一度何かを吐き出さないか確かめるように。
スターリットの森の夜は、静かに深まっていく。
月光の下。
エテルナ――まだ、その名しか知らない世界で、少年の物語は動き始めた。




