境界を越える
1990年代、日本の郊外。
夏休みの夕暮れ――。
オレンジ色の光がカーテンの隙間から差し込み、子ども部屋の床に細い影を落としている。昼間の熱はまだ部屋の中にこもっていた。扇風機がカラカラと乾いた音を立てながら首を振っているが、ぬるい風が頬を撫でるばかりで、涼しくない。
遠くでは、蝉がずっと鳴いていた。
床には、ゲーム機とコントローラーが置かれていた。
その横の小さな折り畳み式のテーブルには、開けっぱなしのスナック菓子の袋と、飲みかけのコーラの缶が並んでいる。
部屋の隅には小さなテレビ台があり、その上に置かれたブラウン管テレビが、黒い画面のまま夕暮れの光をぼんやり映していた。
机の上には、終わったばかりの宿題のノートと鉛筆。
鉛筆を握っていた指先には、少しだけ黒い芯の跡がついている。
十歳の天城悠真は、青いTシャツに短パン姿で、机の椅子にもたれかかった。
「ふう……今日の分、終わった」
息を吐いて、肩を軽く回す。
壁には、勇者と魔王が剣を交えるRPGのポスターや、魔法使いが空を翔けるファンタジーゲームのポスターが、少し曲がって貼られている。
悠真はそれを何となく眺めたあと、机の引き出しに手をかけた。
中には、ゲームカートリッジがひとつ入っていた。
いつからそこにあったのか分からない。
引き出しの奥に押し込まれていたそれは、ラベルが古びていて、端が少し擦れていた。
そこには、かすれた文字でこう書かれていた。
『ラストファンタジー』
ゲーム雑誌でも見たことがない。
悠真はそれを手に取り、指先でそっと埃を払った。
「……こんなの、前からあったっけ?」
小さく呟いて、リビングの方に目を向ける。
台所からは、包丁がまな板を叩く音が聞こえていた。
母親が夕飯の支度をしているのだろう。
お母さんに聞いた方がいいかな。
そう思った。
けれど、手の中のカートリッジを見ていると、どうしても気になってしまう。
どんなゲームなんだろう。
どんな世界が入っているんだろう。
ほんの少しだけなら。
変だったら、すぐにやめればいい。
悠真は自分に言い聞かせるようにうなずくと、床に置いてあったゲーム機へカートリッジを差し込んだ。
そして、電源を入れる。
画面が、ぱっと明るくなった。
荘厳な旋律が、部屋いっぱいに流れ始める。
黒い空の下に建つ、古い石の神殿。
夜空に浮かぶ、無数の星々。
青白く輝く泉。
光の粒に包まれた、精霊のような影。
そして、画面の中央に文字が浮かび上がった。
――エテルナ。
「うわ……」
悠真は思わず息を呑んだ。
画面の中では、剣を携えた勇者が森を駆けていた。
闇に包まれた影が蠢き、白い神殿の上を星の光が流れていく。
聖なる泉。
光の精霊ルミナス。
影の教団。
どれも初めて見るはずだった。
初めて見るはずなのに、なぜか目を離せなかった。
「……なんだろう」
ただ格好いい、というだけではない。
懐かしいような。
ずっと昔に、どこかで触れたことがあるような。
けれど、その正体は分からなかった。
「すごい……」
いつの間にか、悠真はコントローラーを握りしめていた。
そのときだった。
机の上に置いてあった小さな青い石が、ふと視界に入った。
母から「大事にしなさい」と言われて渡された、古いペンダント。
青い石がはめ込まれたそのペンダントは、画面に映るクリスタルにどこか似ている。
「……なんか、似てるな」
そう呟いた瞬間だった。
画面が、ぐにゃりと歪んだ。
「え……?」
流れていた音楽が、わずかに濁る。
次の瞬間、テレビ画面が明滅し始めた。
「うそ、バグ!?」
悠真は慌ててコントローラーを握り直した。
その瞬間――
机の上のペンダントが、青白く脈打った。
「……っ」
悠真の動きが止まる。
光は、一度では終わらなかった。
脈のように、何度も、何度も。
テレビ画面の光と呼応するように、青い石が震えている。
部屋の空気が、ふっと重くなった。
音が遠のく。
扇風機の音も。
蝉の声も。
夕飯の支度をする包丁の音も。
すべてが、水の底に沈んでいくように薄れていった。
テレビ画面から、銀色の粒子がゆっくりと溢れ出す。
それは空中で渦を描き、淡い光の輪となって広がっていった。
夕暮れの部屋に、ありえないほど澄んだ青白い光が満ちていく。
「ペ、ペンダントが……」
コントローラーが、手から滑り落ちた。
床にぶつかり、乾いた音を立てる。
悠真は立ち上がろうとした。
リビングへ走ろうとした。
母を呼ぼうとした。
けれど、その前に、視界が白く染まった。
耳の奥で、水の流れるような澄んだ音が響く。
その奥に、何かが見えた。
深い森。
月光を映す泉。
風に揺れる、白い花。
そして――見知らぬ少女の笑顔。
淡い光の中で、その少女は振り返っていた。
何かを言おうとしているように、唇がかすかに動く。
けれど、声は届かない。
その瞬間、景色が乱れた。
白い柱が砕けていた。
星の紋章が、闇に沈んでいく。
青白い光の中で、誰かが泣いていた。
金色の髪。
涙に揺れる、青い瞳。
小さな白い花が、手の中で淡く光っている。
悠真の喉が、きゅっと詰まった。
知らないはずだった。
会ったことなどないはずだった。
それなのに、少女の涙が光にこぼれた瞬間、悠真はなぜか手を伸ばしていた。
そのとき、声が響いた。
――忘れても、必ず君のもとへ帰る。
それは、自分の声のようだった。
けれど、自分の声のようではなかった。
もっと遠くで。
もっと深い場所で。
何かを失うと分かっていながら、それでも誰かへ差し出した約束のような声だった。
「……なに、これ」
悠真の唇が、かすかに震えた。
手のひらに冷たい汗がにじむ。
けれど、その感覚さえ、すぐに遠のいていった。
足元が、ふっと消える。
身体が、ゆっくりと光の中へ浮き上がっていく。
床も、机も、部屋の壁も、夕暮れの光も、少しずつ遠ざかっていく。
そのとき、どこか遠くから、別の声が響いた。
優しく、それでいて、星明かりのように厳かな声だった。
――境界を越える子よ。
悠真は息を呑んだ。
――おまえはまだ、自分の光を知らない。
青いペンダントが、ひときわ強く脈打った。
――けれど星は、その光を見失わない。
「ま、待っ――」
言葉は最後まで出なかった。
青白い光が視界を埋め尽くす。
銀色の粒子が、花びらのように舞い上がる。
その瞬間。
見えない境界が、静かに開いた。
悠真の意識は、光の中へと引き込まれていった。
あとには、誰もいない子ども部屋だけが残された。
扇風機が、カラカラと首を振っている。
開けっぱなしのノート。
転がったコントローラー。
飲みかけのコーラ。
まな板を叩く包丁の音。
そして、窓の外では、蝉が変わらず鳴いていた。
夏の夕暮れだけが、何事もなかったように部屋に残された。




