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エテルナ ―星の涙と帰る光―  作者: Takeko
プロローグ
1/60

境界を越える

1990年代、日本の郊外。

夏休みの夕暮れ――。


オレンジ色の光がカーテンの隙間から差し込み、子ども部屋の床に細い影を落としている。昼間の熱はまだ部屋の中にこもっていた。扇風機がカラカラと乾いた音を立てながら首を振っているが、ぬるい風が頬を撫でるばかりで、涼しくない。


遠くでは、蝉がずっと鳴いていた。


床には、ゲーム機とコントローラーが置かれていた。


その横の小さな折り畳み式のテーブルには、開けっぱなしのスナック菓子の袋と、飲みかけのコーラの缶が並んでいる。


部屋の隅には小さなテレビ台があり、その上に置かれたブラウン管テレビが、黒い画面のまま夕暮れの光をぼんやり映していた。


机の上には、終わったばかりの宿題のノートと鉛筆。


鉛筆を握っていた指先には、少しだけ黒い芯の跡がついている。


十歳の天城悠真は、青いTシャツに短パン姿で、机の椅子にもたれかかった。


「ふう……今日の分、終わった」


息を吐いて、肩を軽く回す。


壁には、勇者と魔王が剣を交えるRPGのポスターや、魔法使いが空を翔けるファンタジーゲームのポスターが、少し曲がって貼られている。


悠真はそれを何となく眺めたあと、机の引き出しに手をかけた。


中には、ゲームカートリッジがひとつ入っていた。


いつからそこにあったのか分からない。


引き出しの奥に押し込まれていたそれは、ラベルが古びていて、端が少し擦れていた。


そこには、かすれた文字でこう書かれていた。


『ラストファンタジー』


ゲーム雑誌でも見たことがない。


悠真はそれを手に取り、指先でそっと埃を払った。


「……こんなの、前からあったっけ?」


小さく呟いて、リビングの方に目を向ける。


台所からは、包丁がまな板を叩く音が聞こえていた。


母親が夕飯の支度をしているのだろう。


お母さんに聞いた方がいいかな。


そう思った。


けれど、手の中のカートリッジを見ていると、どうしても気になってしまう。


どんなゲームなんだろう。


どんな世界が入っているんだろう。


ほんの少しだけなら。


変だったら、すぐにやめればいい。


悠真は自分に言い聞かせるようにうなずくと、床に置いてあったゲーム機へカートリッジを差し込んだ。


そして、電源を入れる。


画面が、ぱっと明るくなった。


荘厳な旋律が、部屋いっぱいに流れ始める。


黒い空の下に建つ、古い石の神殿。


夜空に浮かぶ、無数の星々。


青白く輝く泉。


光の粒に包まれた、精霊のような影。


そして、画面の中央に文字が浮かび上がった。


――エテルナ。


「うわ……」


悠真は思わず息を呑んだ。


画面の中では、剣を携えた勇者が森を駆けていた。


闇に包まれた影が蠢き、白い神殿の上を星の光が流れていく。


聖なる泉。


光の精霊ルミナス。


影の教団。


どれも初めて見るはずだった。


初めて見るはずなのに、なぜか目を離せなかった。


「……なんだろう」


ただ格好いい、というだけではない。


懐かしいような。


ずっと昔に、どこかで触れたことがあるような。


けれど、その正体は分からなかった。


「すごい……」


いつの間にか、悠真はコントローラーを握りしめていた。


そのときだった。


机の上に置いてあった小さな青い石が、ふと視界に入った。


母から「大事にしなさい」と言われて渡された、古いペンダント。


青い石がはめ込まれたそのペンダントは、画面に映るクリスタルにどこか似ている。


「……なんか、似てるな」


そう呟いた瞬間だった。


画面が、ぐにゃりと歪んだ。


「え……?」


流れていた音楽が、わずかに濁る。


次の瞬間、テレビ画面が明滅し始めた。


「うそ、バグ!?」


悠真は慌ててコントローラーを握り直した。


その瞬間――


机の上のペンダントが、青白く脈打った。


「……っ」


悠真の動きが止まる。


光は、一度では終わらなかった。


脈のように、何度も、何度も。


テレビ画面の光と呼応するように、青い石が震えている。


部屋の空気が、ふっと重くなった。


音が遠のく。


扇風機の音も。


蝉の声も。


夕飯の支度をする包丁の音も。


すべてが、水の底に沈んでいくように薄れていった。


テレビ画面から、銀色の粒子がゆっくりと溢れ出す。


それは空中で渦を描き、淡い光の輪となって広がっていった。


夕暮れの部屋に、ありえないほど澄んだ青白い光が満ちていく。


「ペ、ペンダントが……」


コントローラーが、手から滑り落ちた。


床にぶつかり、乾いた音を立てる。


悠真は立ち上がろうとした。


リビングへ走ろうとした。


母を呼ぼうとした。


けれど、その前に、視界が白く染まった。


耳の奥で、水の流れるような澄んだ音が響く。


その奥に、何かが見えた。


深い森。


月光を映す泉。


風に揺れる、白い花。


そして――見知らぬ少女の笑顔。


淡い光の中で、その少女は振り返っていた。


何かを言おうとしているように、唇がかすかに動く。


けれど、声は届かない。


その瞬間、景色が乱れた。


白い柱が砕けていた。


星の紋章が、闇に沈んでいく。


青白い光の中で、誰かが泣いていた。


金色の髪。


涙に揺れる、青い瞳。


小さな白い花が、手の中で淡く光っている。


悠真の喉が、きゅっと詰まった。


知らないはずだった。


会ったことなどないはずだった。


それなのに、少女の涙が光にこぼれた瞬間、悠真はなぜか手を伸ばしていた。


そのとき、声が響いた。


――忘れても、必ず君のもとへ帰る。


それは、自分の声のようだった。


けれど、自分の声のようではなかった。


もっと遠くで。


もっと深い場所で。


何かを失うと分かっていながら、それでも誰かへ差し出した約束のような声だった。


「……なに、これ」


悠真の唇が、かすかに震えた。


手のひらに冷たい汗がにじむ。


けれど、その感覚さえ、すぐに遠のいていった。


足元が、ふっと消える。


身体が、ゆっくりと光の中へ浮き上がっていく。


床も、机も、部屋の壁も、夕暮れの光も、少しずつ遠ざかっていく。


そのとき、どこか遠くから、別の声が響いた。


優しく、それでいて、星明かりのように厳かな声だった。


――境界を越える子よ。


悠真は息を呑んだ。


――おまえはまだ、自分の光を知らない。


青いペンダントが、ひときわ強く脈打った。


――けれど星は、その光を見失わない。


「ま、待っ――」


言葉は最後まで出なかった。


青白い光が視界を埋め尽くす。


銀色の粒子が、花びらのように舞い上がる。


その瞬間。


見えない境界が、静かに開いた。


悠真の意識は、光の中へと引き込まれていった。


あとには、誰もいない子ども部屋だけが残された。


扇風機が、カラカラと首を振っている。


開けっぱなしのノート。


転がったコントローラー。


飲みかけのコーラ。


まな板を叩く包丁の音。


そして、窓の外では、蝉が変わらず鳴いていた。


夏の夕暮れだけが、何事もなかったように部屋に残された。

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