月夜に語る故郷
その日の夜。
神殿の客間には、昼間とは違う静けさが満ちていた。
窓の外には、薄い雲の切れ間から月が覗いている。
中庭の水盤には淡い光が落ち、白い石畳の上を、夜風が静かに通り抜けていた。
レイは窓辺の椅子に腰を下ろしていた。
昼間よりは、身体の重さも少し引いている。
まだ頭の奥に鈍い熱は残っていたが、朝ほどではなかった。
ミラは机のそばで椅子を後ろ向きにして座り、背もたれに腕を預けている。
リアは窓辺に立ち、外の月を見上げていた。
セレスは扉の近くに控えていたが、昼間よりもいくらか空気は柔らかい。
任務中であることに変わりはない。
けれど、張り詰めた警戒だけではなく、この場の会話を静かに見守っているようでもあった。
ミラが、ふと口を開いた。
「そういえばさ」
リアが振り向く。
「はい?」
「リアって、神殿に来る前はどこにいたの?」
唐突な問いだった。
けれど、声は軽く、踏み込みすぎないように少しだけ抑えられていた。
リアは小さく目を瞬かせる。
「私の、故郷ですか」
「うん。前に、地方から来たって言ってたよね」
ミラは頬杖をつく。
「なんとなく気になって。リアって、最初から神殿の人って感じがしたんだけど、そうじゃないんだなって」
リアは少しだけ視線を落とした。
困ったようではなかった。
ただ、遠い景色を思い出しているような表情だった。
「私の故郷は、ウェストライト地方の小さな村です」
その声は、静かだった。
「森と湖に囲まれた、とても静かな場所でした。夜になると、星が湖に映るんです」
レイは、自然とその光景を思い浮かべた。
夜の湖。
水面に揺れる星。
神殿の結晶灯とは違う、もっと遠くて、柔らかな光。
「きれいそうだな」
レイが言うと、リアは小さく頷いた。
「はい。子どもの頃は、それが当たり前だと思っていました」
少しだけ、リアの声が柔らかくなる。
「村では、私はリルナと呼ばれていました」
「リルナ……」
ミラがその名を繰り返す。
「それが、リアの前の名前?」
「はい。成人の儀を受ける前の名です」
リアは窓の外へ視線を戻した。
「神殿の使者が村に来たのは、私が十二歳の頃でした」
部屋の空気が、少し静かになる。
ミラも、軽い表情を少しだけ引っ込めた。
「巫女の適性があると告げられました。光への感応が強く、神殿で学ぶべきだと」
「急に言われたの?」
「はい」
リアは小さく笑った。
けれど、その笑みには少しだけ幼い日の戸惑いが残っていた。
「その時は、怖かったです。神殿は遠い場所でしたし、村を出たこともほとんどありませんでしたから」
レイは黙って聞いていた。
リアが自分から語る言葉を、急かしたくはなかった。
「両親は、私に言いました」
リアの声が、少しだけ低くなる。
「光のために行きなさい、と」
ミラは何も言わなかった。
リアは続けた。
「寂しくないと言えば、嘘になります。でも、両親はとても笑顔でした。だから私は、泣かないようにしました」
窓の外で、夜風が木々を揺らす。
その音が、遠い記憶の隙間に入り込むように響いた。
「神殿に来てからは、覚えることばかりでした。祈りの作法、巡礼者への応対、光の結界術、古い聖句、星の流れの読み方……」
リアは少しだけ肩を落とした。
「最初は、何度も間違えました」
「リアでも?」
ミラが少し驚いたように言う。
リアは苦笑する。
「もちろんです。今でも、完璧ではありません」
「いや、リアはかなりちゃんとしてると思うけど」
「そう見えるように、努力しています」
その言葉に、ミラは少しだけ目を細めた。
からかうような顔ではなかった。
「リア、強いね」
リアは驚いたようにミラを見た。
「私が、ですか?」
「うん」
ミラは背もたれに預けていた腕を組み直した。
「剣を持って戦うとか、そういうのとは違うけど。知らない場所に行って、自分の役目を受け入れて、それでもちゃんと優しくいられるのは、強いと思う」
リアはすぐには答えなかった。
その言葉を、胸の奥で確かめるように受け止めている。
やがて、少しだけ目を伏せた。
「……ありがとうございます」
声は小さかった。
けれど、そこには確かな温かさがあった。
レイも静かに頷いた。
「俺も、そう思う」
リアがレイを見る。
レイは窓の外の月明かりを見た。
「リアがいてくれると、落ち着く」
その言葉に、リアの表情がわずかに揺れた。
驚きと、照れと、どこか嬉しそうな色が混じる。
「私も」
リアは、ゆっくりと言った。
「私も、レイがここにいてくれて、よかったと思っています」
部屋の空気が、少しだけ柔らかくなった。
ミラは何か言いかけて、黙っていた。
ただ、口元だけがほんの少し緩んでいる。
セレスが静かに口を開いた。
「人は、それぞれ歩いてきた道を持っています」
全員の視線が、セレスへ向く。
セレスは淡々と続けた。
「その道を知らなければ、隣に立つ意味も見えにくい。今日の話は、必要だったのだと思います」
ミラが、少し意外そうに目を丸くした。
「セレスって、すごくいいこと言うんだね」
「そう受け取っていただけたなら、何よりです」
セレスは表情をほとんど変えずに答えた。
その返しに、ミラが小さく笑う。
レイもつられて笑った。
リアも、静かに微笑んでいた。
窓の外では、月の光が雲の切れ間から静かに差し込んでいる。
神殿の夜は、まだ深い。
禁書庫へ向かう日は近い。
光の使徒。
巫女。
遺跡を追う者。
神殿護衛隊。
それぞれが違う場所から来て、今、同じ場所にいる。
レイはそのことを、静かに感じていた。
知らないことは、まだ多い。
けれど、隣にいる者たちの歩いてきた道を、少しずつ知っていく。
それもまた、この世界を知ることなのだと思った。
月明かりの中で、リアはもう一度だけ故郷の湖を思い出すように、窓の外を見つめていた。




